8#Immature Initiation
新宿の雑踏から切り離されたかのように、路地の奥でひっそりと佇む『gimlet』。その看板には装飾一つなく、ただ無機質なフォントで名前が記されているだけだった。看板が放つ地味な暗さは、これからこの扉の向こうで交わされるであろう会話の重さを物語っているようでもあった。
ゆっくりと重厚なドアに手をかける。軋むような音を立てて開かれた先から、薄暗い照明と、グラスが触れ合うかすかな音が漏れ出してきた。
足を踏み入れ、呼吸を整えてその背を追う。
店内の空気は冷え切っていた。カウンターの端では、つい先ほどまで事務所にいたレイラが、氷の溶けかけたグラスを前に不機嫌そうに座っている。
その対面、カウンターの反対側には、場違いなほど派手な金髪のアロハシャツを羽織った男が、心春たちを見てニヤニヤと楽しげに笑みを浮かべていた。
そして、カウンターの最も奥。そこには、ただそこにいるだけで周囲の空気を支配するような、鋭く重苦しい威圧感を纏ったJINの姿があった。その男の瞳には、一切の迷いも慈悲もない冷徹さが宿っている。
ロキはJINに向かって短く一礼し、慣れた様子でカウンターに肘をつく。心春は、心臓が早鐘を打つのを感じながら、ロキの隣にそっと歩み寄り、空いた椅子に座った。
「遅くなったな」
ロキの低い声が静寂を破る。JINは磨き上げられたグラスを置くと、その黒い瞳をゆっくりと心春に向けた。心春は全身が刺すような視線に晒される感覚に耐えながら、背筋を伸ばしてその威圧感を受け止めた。
JINの冷徹な眼差しが、まるで獲物を品定めするように心春を上から下まで撫で回した。カウンターの照明が彼の眼鏡に反射し、その表情をより一層読み取りにくくさせている。
「本題に入る前に問おう。ロキ、その女の子は何のつもりだ」
JINの問いかけは淡々としていながらも、空気を凍りつかせるような重みがあった。
ロキは動じることなく、慣れた手つきでタバコを取り出し、火を点ける。紫煙が立ち昇る中、彼はレイラの方を一瞥してから吐き捨てた。
「……レイラから、もう報告は受けているんだろ」
「……」
JINが答えるよりも早く、心春は意を決してその場から立ち上がった。事務所でレイラに見せた時と同じ、毅然とした態度で背筋を伸ばし、威圧感に満ちたJINの正面を見つめる。
「……坂東心春と申します。本日は、ロキさんと共にお話を伺いに参りました」
心春の真っ直ぐな自己紹介に、JINは「ふむ……」と低く唸り、短く思案の時間を置いた。彼の沈黙は長く、店内の時計の音がやけに大きく響く。
その張り詰めた空気を切り裂くように、カウンターの横から軽薄な笑い声が割って入った。
「おーっ、硬いねえ! 俺はシンヤ。よろしくな、お嬢ちゃん!」
金髪を無造作に揺らし、場違いなほど鮮やかなアロハシャツを着た男――シンヤが、片手に持ったビールジョッキを軽く掲げてニヤリと笑った。彼の陽気な態度は、この『ギムレット』という閉鎖的な空間において、唯一の陽だまりのように異質だった。
しかし、そのニヤついた表情の奥にある目が、全く笑っていないことに心春は気づいてしまった。彼もまた、ロキと同じく「こちら側」の住人なのだという現実が、改めて心春の心臓を締め付けた。
JINの冷徹な声が、薄暗い店内に低く響いた。
「落神を惹きつける力。それを公安が管理下に置かないとでも思ったのか、ロキ」
問いには、純粋な好奇心など微塵もなかった。あるのは、規律を乱すものへの冷ややかな糾弾だけだ。
ロキはタバコの煙をゆっくりと燻らせ、あえて不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「公安は俺を管理している。その俺が、こいつを管理しているんだ。それの何が不満だ?」
紫煙の向こうで、ロキの目が鋭く光る。
「それとも、あんたらは俺を管理下に置けていないと、そう考えているってことかな?」
言葉の刃は、直接JINの支配体制を抉る挑発だった。
店内には瞬時に緊張が走り、心春は思わず息を呑む。JINの威圧的な瞳は、感情を排した冷たい刃となってロキを射抜き、その視線がわずかにずれて心春の肩をかすめた。
その一瞬、彼女は背筋が凍るような戦慄を覚えた。JINの瞳の裏側で何が演算されているのか、何を打算しているのか。底知れない深淵を覗き込んだような恐怖に、心春の喉が引きつる。
沈黙を破ったのはJINだった。
「わかった。とりあえず、この件はお前に預けておく」
短く告げたその言葉の重みに、ロキの肩からほんのわずかだけ力が抜けたのを心春は感じ取った。誰にも分からないほど微かな、しかし紛れもない安堵の気配だった。
軽口のやり取りの中に、ロキが自分を守るためにどれほどの綱渡りをしていたのかを改めて悟り、ぎゅっと拳を握りしめた。
JINは、心春を真っ直ぐに見つめ、一言だけ告げた。
「……JINだ」
心春は一瞬、その短い名乗りの意味を測りかねた。だが、先ほどの自分の自己紹介に対する、彼なりの遅れてきた応答だと気づく。
「……坂東心春です。改めて、よろしくお願いします」
心春が深々と頭を下げると、JINは無言のまま再び手元のグラスへ視線を戻した。
JINがカウンター越しに、琥珀色の液体が揺れるウイスキーグラスと、白い液体の入ったコップを滑らせた。
心春の前に置かれたのは、場違いなほど真っ白な牛乳だった。
これが自分に対するささやかな気遣いなのか、それとも「子供は黙っていろ」という無言の侮蔑なのか。心春がその白さを見つめて戸惑っていると、隣のロキが手慣れた仕草でウイスキーのグラスを手に取り、琥珀の雫を一口啜った。
「さて。本題に入ろうか」
JINの静かな宣告と共に、店内の温度が目に見えて下がったような錯覚に陥る。陽気なアロハシャツを着ていたシンヤの顔からニヤつきが消え、その瞳には獲物を狙う猛禽のような鋭さが宿っていた。
「標的は名有りの落神だ。名は『金剛夜叉明王』」
その名が告げられた瞬間、空気の密度が変わり、心春の肌にビリビリとした静電気のような感覚が走る。
「既に、第一部隊の数人があいつに殺されている」
報告に、レイラが静かにバーボンを煽り、短く溜息を吐いた。彼女の表情には隠しきれない焦燥と、失った仲間への無念が混ざり合っている。
シンヤもまた、カウンターの縁を掴む指先にぐっと力が入り、その体躯が硬質な緊張を纏い始めた。
そんな中で、ロキだけは違った。彼は依然として煙草を燻らせ、灰皿に灰を落とす。その横顔には、恐怖も動揺も、あるいは怒りさえも感じられない。いつもの無愛想で、どこか達観したようなロキのままだった。
「……金剛夜叉明王、か」
ロキが独りごちるように呟く。その言葉の響きには、これから始まる殺し合いに対する、冷徹なまでの準備ができている人間の静けさが漂っていた。
今まさに自分たちが、人間界の理から逸脱した「怪物」との戦いの最前線に立たされているのだと、改めて実感していた。
「特徴と、出現場所は」
ロキの問いかけに、JINは無機質な声で答えた。
「場所は埼玉の山中、廃寺だ。……姿は2メートルほどの巨体に六本の腕。武器の使用は確認されていない。殺された第一部隊の隊員たちは、例外なくその拳で粉砕されていた。確実に出現すると把握できているのは満月の晩だ」
「……殴り殺された、か」
ロキは煙草の煙を吐き出しながら、冷ややかな瞳で灰皿を見つめる。
「出現が確実なのは、満月の晩のみ。……となると、猶予は約半月か」
あまりにも淡々と事実を積み上げるロキの姿に、心春は自分の思考が追いつかないのを感じた。これから相対するのは、何人ものプロを拳一つで絶命させた怪物だというのに、ただ淡々とスケジュールを確認している。
「仏教系の落神は、どうも相性が悪いのよね……」
レイラが空になったグラスをカウンターに置き、苛立ち混じりにバーボンを煽る。
その隣ではシンヤが、先ほどから手元でいつの間にか満たされていたビールジョッキを、まるで水のように喉へ流し込んでいた。重苦しい沈黙がカウンターに横たわる。
心春は、喉に詰まった緊張を流し込むように、目の前の牛乳を一口飲んだ。驚くほど濃厚で、どこか懐かしい味がする。――美味しい。そう声に出したかったが、店内に満ちる殺気のような空気に圧倒され、彼女はその言葉を唇の裏に閉じ込めるしかなかった。
ロキは琥珀色のウイスキーを一気に飲み干すと、グラスをカウンターに置き、誰に言うでもなく言い放った。
「場所の詳細と、正確な出現時刻はまた連絡しろ」
椅子を引く音が店内に響く。ロキが立ち上がり、出口へと向かう。心春は慌ててその後を追いかけた。店を出る間際、心春は店内の面々に向かって小さく一礼し、消え入るような声で告げた。
「……牛乳、美味しかったです」
返事はない。重いドアが閉まる音が聞こえた。新宿の冷たい夜風が、心春の火照った頬を撫でていく。
街路樹の影が新宿の夜風に揺れ、ネオンの光が二人の足元をまだらに照らしていた。事務所へと続く裏路地へ差し掛かったとき、隣を歩いていたロキが、不意に視線を前方に向けたまま小さく呟いた。
「よく頑張ったな」
心春は心臓が跳ねるのを感じた。もっと先の、半月後の死闘についての厳しい忠告や、今後の作戦の確認が続くと思っていたからだ。
驚いて隣を見ると、ロキの横顔はいつもの不機嫌な仮面を少しだけ外し、柔らかい空気を纏っていた。
「……学級委員長ですから、これくらいは」
心春は少し照れくさそうに、しかし精一杯の強がりで応える。ロキは「そうだったな」と短く笑い、先ほどまでの張り詰めた空気を、夜の闇に少しずつ溶かしていった。
数歩の沈黙の後、ロキは立ち止まり、心春の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「明日、高校から帰ったら……お前が銃を使えるようになる為に訓練する」
その言葉は、彼が自分をただの「餌」ではなく、戦うためのパートナーとして認めた証のように響いた。心春の胸の中には、正体不明の不安と、それを塗りつぶすほど熱い闘志が渦巻く。
あまりの緊張に喉が詰まり、気の利いた言葉が見つからなかった心春は、精一杯の勇気を振り絞って答えた。
「……任せろ、相棒!」
心春が少し声を上ずらせて言うと、ロキは呆れたように眉を寄せ、けれどその表情には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「バカ言ってないでいくぞ」
軽口を叩きながらも、ロキの歩調は少しだけ緩やかになる。心春はその後ろ姿を見つめながら、拳を握りしめた。
これから始まる過酷な日々が、以前のような恐怖一色ではなく、二人で立ち向かう「日常の延長」になりつつあることを、心春は確かに感じていた。




