6#Hidden Hunt
喫茶店『三葉』の柔らかな照明の下、心春は目の前のオムライスにスプーンを突き立て、幸せそうに頬を膨らませていた。とろりとした卵の甘い香りが、店内のコーヒーの香ばしさと混ざり合っている。
その様子を、店主の荒波はカウンター越しに目を細めて眺めていた。彼はエプロンの裾を丁寧に整えると、心春の側へ歩み寄り、上品に一礼した。
「心春様は、いつも本当に美味しそうに召し上がってくださいますね。作る側の人間として、これ以上ない喜び……感無量でございます」
「こちらこそ、いつもありがとうございます。荒波さんのオムライスを食べると、なんだか元気が湧いてくるんです」
心春は頬にソースを少しつけながら、屈託のない笑顔で返した。その純粋なやり取りは、これから敵地へと向かうための殺伐とした空気を完全に払拭している。
しかし、その穏やかな光景からわずかに視線を外したテーブルの端では、対照的な時間が流れていた。
ロキはグラスの中でカランと音を立てる氷を無造作に転がし、アイスコーヒーを喉へと流し込む。苦い液体が喉を通り過ぎるのと同時に、彼の意識は代々木へと飛んでいた。
今から向かう先で待ち構えているであろう『ヴィーナス・メトロポリタン』という会社に蔓延る落神。その正体、潜伏先での迎撃態勢、そして心春を守りつつ確実に仕留めるための計算が、ロキの脳内で静かに繰り返されている。
心春の笑い声が耳に届くたびに、ロキは僅かに視線を彼女へとやり、すぐにまた険しい表情でグラスの氷を眺めた。これから始まる夜の幕開けを予感しながら、彼は影に潜む獲物の気配を追い続けていた。
『三葉』の穏やかな温もりを背に、二人は『三葉』を後にした。街灯がまばらに点滅する『BlueMonday』の裏路地。そこに鎮座する漆黒のツインマグナは、低いアイドリング音を響かせ、獲物を待つ獣のように身を震わせていた。
ロキは慣れた手つきで黒のフルフェイスを被り、視界を深い闇で覆う。続いて彼が手渡したのは、先日、心春を学校まで迎えに行った際に買い揃えておいた鮮やかな赤のフルフェイスだった。心春はそれを両手で受け取り、不器用に被る。視界が遮られ、自身の呼吸の音だけがヘルメット内に小さく反響する。
重厚な車体に二人で跨る。心春にとって、ロキの背中はあまりに大きく、そしてどこか遠く感じられた。
「しっかり捕まっておけよ」
エンジンの咆哮にかき消されそうな声が、なんとか心春の耳に届く。心春は言葉を返す代わりに、ロキの体を強く握りしめた。
グッ、と心春の指に力がこもる。その確かな感触を背中で受け取ったロキは、無言のまま深く息を吐き出すと、スロットルを大きく開いた。
爆音と共に車体が跳ねる。夜の帳を切り裂くように、ツインマグナは新宿の裏路地から代々木へと向かう漆黒の道路へと飛び出した。風が容赦なく二人の身体を打ち付ける。心春はロキの背中にしがみつく力をさらに強め、眼前に広がる夜景の眩しさに目を細めながら、ただ必死にその体温を追いかけていた。
時計の針は21時を少し過ぎ、街の喧騒が次第に夜の静寂へと溶け込もうとしている。代々木の一角に佇む『ヴィーナス・メトロポリタン』のオフィスビルは、周囲の景観に溶け込むようにして建っていた。外見上はごく一般的な、何の変哲もない中規模の会社に見える。
しかし、二人がその前に立った瞬間、空気の質が変わった。皮膚を刺すような微かな静電気、そして吐き気をもよおすほどの甘ったるい芳香。それは明らかに、この世の理から外れた「落神」特有の気配だった。
「……絶対、ここですね」
心春が確信を持って呟くと、ロキは深く同意するように頷き、タバコに火をつけた。夜闇の中でオレンジ色の火種が揺らめく。
「ああ、間違いない。奥に『何か』がいる」
表玄関から堂々と乗り込み、制圧する選択肢も頭をよぎったが、ロキは慎重に周囲を見渡した。逃げ道を完全に塞がず、獲物をいたずらに刺激すれば、厄介な事態を招きかねない。
「正面は避けよう。逃げられたら面倒だ」
二人は視線を交わすと、言葉少なにビルの裏手へと回り込んだ。そこは路地裏の影に埋もれ、街灯の光も届かない深い闇が広がっている。ロキの靴が硬質な地面を踏みしめる音だけが、静寂の中に小さく響いていた。心春はロキの背中を追うようにして、その異界の入り口へと歩みを進めた。
裏口のドアは、見た目通りの無機質な鉄製だった。ロキが試しにノブを回すが、当然のように硬く閉ざされている。
心春はビルの周囲を慎重に見回した。監視カメラの気配はなく、窓の格子も手入れされた様子がない。
「……警備会社とかは、入れてないみたいですね」
「なら、多少荒っぽくても問題ないな」
ロキは躊躇なく右足を引き、鉄製のドアへ向かって無骨な一撃を叩き込んだ。鍵穴の周辺が嫌な音を立てて歪み、金属が悲鳴を上げる。ロキが追撃の一撃を加えると、ドアは歪な音を立てて内側へと開放された。
「ロキさん、力持ちですね……」
心春が呆気にとられたように感嘆の声を漏らす。ロキはその言葉を耳に入れる様子もなく、銃のセーフティを解除しながら暗闇の中へと踏み込んだ。
扉の向こう側は、非常灯の薄暗い光が床をぼんやりと照らすだけの、無機質な空間だった。空調の音すらしない静寂が、まるで生き物のように二人を包み込む。
昼間はオフィスとして機能しているはずの場所が、今は底知れぬ深淵のような不気味さを漂わせていた。
背後の心春を一瞥し、最小限のジェスチャーで前方への警戒を促す。廊下の奥へ続く闇の先から、あの甘ったるい、それでいて鼻をつくような化粧品の香りが、さらに濃厚になって漂ってきた。
二人は忍び足で廊下を進んだ。埃っぽい空気が漂う中、かすかな床の軋みすら立てまいとする緊張感が二人の間を満たしている。
ビルは5階建て、通常であれば管理部門や重要な拠点は上層階にあることが多い。ロキは自然と上階へ向かう意識を働かせた。
しかし、心春がその袖を軽く引き、「……下です」と囁くように告げた。
反射的に問い返そうと口を開きかけたが、直後に言葉を飲み込んだ。心春が指し示した地下へと続く階段の闇から、鼻腔を突き刺すような濃厚な花の香――あの化粧品が放っていたような、異様なまでに甘い芳香が微かに感じられ、それを上書きするかのような邪悪な匂いが、溢れ出してきたからだ。
ロキは心春の感覚の鋭さに驚愕を覚えた。神の寵愛を宿す彼女は、落神の気配を、あたかも自分自身の感覚の一部であるかのように捉えているのかもしれない。だが、驚いている暇はない。すぐに自身の意識を研ぎ澄まし、戦闘モードへと引き戻した。
「行くぞ。離れるな」
短く告げると、階段を下り始めた。
一歩踏み出すごとに、周囲の気温が目に見えて下がっていく。暗闇の中でロキの手がホルスターへ伸び、静かに銃が引き抜かれた。金属同士が擦れるかすかな音が、地下へ続く闇の中へと吸い込まれていった。
地下に降り立つと、そこはオフィスとは到底呼べない、異様な光景が広がっていた。薄暗い非常灯の下で、金属製の棚が幾列にも並び、そのすべてを埋め尽くすように、例の金色の装飾が施された瓶が整然と陳列されている。
「……これ全部、ですか」
心春が言葉を失うのも無理はなかった。田中が持ち込んだ瓶はほんの一部に過ぎなかったのを認識したからだ。無数の容器から発せられる甘ったるい芳香は、もはや呼吸を阻害するほどの濃度で充満している。
この棚の並びは、まるで巨大な祭壇のようにも見える。しかし、狙うべき獲物の核はここではない。棚の列を抜け、一番奥にある重厚なドアに視線を定めた。棚の影に隠れるように存在するそのドアの隙間から、先ほどまでの比ではないほど濃密な、落神の気配が漏れ出している。
心春を背後に守るようにして立ち、慎重にドアの前まで歩を進めた。心春はロキの一挙手一投足に集中する。
ドアノブに手をかけ、数秒の間を置いた。中で何かが蠢いているような、湿った気配がする。彼はゆっくりと、蝶番が鳴らないよう静かにドアを押し開いた。
重厚なドアが静かに開いた先には、廊下とは比較にならないほどの強烈な「落神」の残り香が澱んでいた。それは花の香りのような甘美さを装いながら、腐敗と死の気配を濃厚に含んでいる。
デザートイーグルを構え、銃口を微動だにさせずに暗闇の中へと滑り込んだ。続いて心春もロキの背中を追って部屋へ入る。非常灯のぼんやりとした光が、室内の光景を浮かび上がらせた。
部屋の奥、無機質なコンクリートの壁に、数本の鎖が突き立てられている。その鎖が交差する中心に、一人の女性が磔にされるようにして吊るされていた。
「……あれは」
心春が小さく息を呑む。女性は手足を太い鎖で縛り上げられ、頭を力なく垂れていた。その表情は、今や生気を失い、極限まで衰弱しきっている。
周囲への警戒を怠らず、獲物に狙いを定めるような足取りでゆっくりと距離を詰めた。彼は銃口を下げ、空いた左手で女性の顎を軽く持ち上げる。
薄暗い光の下で、女性の顔が露わになった。
それは、依頼主である田中が事務所のテーブルに並べ、震える声で捜索を嘆願していた写真――その本人と寸分違わぬ顔だった。
「見つけたぞ」
ロキの低く静かな声が部屋に響く。
「……ひどい」
心春が絞り出すように呟いた。その声には、衰弱しきった女性の姿に対する純粋な哀れみと、この地獄のような光景を作り出したものへの怒りが混じっている。
無言で、女性の腕を拘束する鎖を確認した。武骨な鉄の鎖には、細工の施された鍵穴が嵌め込まれている。無理やり銃撃で破壊すれば鍵は外れるだろうが、この密閉された空間で銃声はあまりに響きすぎる。音は周囲の警戒を呼び起こし、まだ見ぬ敵を誘い出しかねない。
最小の労力で鎖を断ち切る術を思考に巡らせた瞬間、背後の闇がぬるりと歪んだ。
不意に、静寂を切り裂くような、氷のように澄み切った男の声が室内に響き渡った。
「私の餌に、勝手に触らないでほしいものですね」
ロキの反応は即座だった。思考を捨て、本能的な反射でデザートイーグルを背後へと向ける。
同時に心春は、ロキが前線に出る隙を察知した。彼女はロキの視界を遮らないよう、軽やかな足取りで壁際の鎖に縛り付けられた女性の横へと移動した。
闇の中から現れたのは、洗練されたスーツを纏い、化粧品の甘い香りを一身にまとう男だった。その瞳には、人間を人間とも思わない、冷酷な光が宿っている。男は二人の銃口を前にしても怯むどころか、獲物を見定めるように優雅に微笑んでいた。
デザートイーグルの銃口を男の眉間に据えたまま、冷ややかな声で問いかけた。
「……落神だな。なぜ、この女を捕らえている」
男は二人の警戒など意に介した様子もなく、まるで芸術品を自慢する愛好家のように、愉悦に満ちた表情で語り始めた。
この化粧品には、特殊な細工が施されている。それに執着し、異常なほど惹かれる人間は、落神にとって上質な――否、最高級のエネルギーを宿す苗床になるのだという。
「彼女のあの欲望といったら、素晴らしいものでしたよ。使えば使うほどに、私の栄養になる。ならば、使い捨てにして終わらせるのはあまりにも惜しいでしょう? だからこうして、私の手元で……枯れるまで、美味しくいただき続けているのですよ」
男はうっとりと瞳を細め、自分の成した『功績』を称えてほしいと言わんばかりに、恍惚とした笑みを浮かべた。その歪んだ思想は、聞く者の吐き気を催させるには十分だった。
ロキは不快感を露わにし、眉をひそめて追及する。
「お前の名前は何だ」
男は一瞬、心外そうに口元を歪めると、優雅に名乗った。しかし、彼が発したその名前は、周囲の空気に溶けるようにして奇妙に歪み、ロキの耳には微かなノイズのようにしか届かなかった。
心春もまた、すぐ傍で聞いていたはずだが、困惑したように小さく首を傾げている。彼女にも、その名前を認識することはできなかったようだ。
ロキは冷ややかに鼻で笑った。
「……名無しか。大したことはないな」
緊迫した空気が地下室を支配する。心春はロキの放った「名無し」という言葉の真意を測りかねながらも、拳を握る手に力を込めた。自分の呼吸すら邪魔に感じられるほどの静寂の中、彼女はただ、ロキの背中越しに獲物を見つめ続けることしかできなかった。
目の前の落神が浮かべる余裕の笑みを一瞥し、内心で舌打ちをした。
男は自分の領域であるこの場所で、二人がどれほど抗おうとも無駄だとでも言いたげな態度を崩さない。それは、圧倒的な力への自信か、あるいは自らの歪んだ美学に対する絶対的な過信か。
デザートイーグルのトリガーに指をかけ、引き金を引くための予備動作を最小限に抑える。男の思考の隙、あるいは僅かな重心の揺らぎを逃すまいと、意識は極限まで研ぎ澄まされていた。
「さて……」
ロキの呟きが、引き金になる。
「化けの皮を剥がす時間だ」
男が動いた。あるいは、ロキが先に引き金を引いたか。静寂を破り、地下室の空気が激しく震え始める。暗闇の中で火花が散り、硝煙の匂いが甘ったるい花の香りを塗りつぶした。心春もまた、ロキの言葉に呼応するように、身を屈めた。
乾いた銃声が地下室に乱反射し、鼓膜を激しく揺さぶる。しかし、放たれた弾丸はコンクリートの壁を無残に削っただけだった。
ロキが銃口を上に逸らしたのは、狙いを外したからではない。自らの腕を貫き、未だ腕に突き刺さっている鋭利な「鉄の槍」――その衝撃と激痛が、彼の射撃姿勢を強制的に歪めたからだ。直径15cmほどの凶器は、ロキの右腕の肉を深く抉り、神経を焼き切るような痛みをもたらした。
男の動きは、人間離れした速度だった。
「詰めが甘い」とでも言いたげな笑みを浮かべ、男はロキから少し距離を取り、迷いなく振り上げた腕から、二撃目の槍が放たれた。
鈍い音と共に、その刃はロキの左目を正確に貫いた。
「――っ、ロキさんっ!」
心春の絶叫が部屋に木霊する。ロキの頭が衝撃で大きく後方へ弾かれ、昏い地下の闇にその輪郭が揺れた。視界を奪われ、脳幹を揺さぶられたロキ。男は勝利を確信したのか、その瞳に冷酷なまでの愉悦を宿して距離を詰める。
心春がロキに駆け寄ろうとした、その刹那だった。
ロキの左手が、流れるような動作でホルスターから引き抜かれていた。握られていたのは、先ほどまで構えていたデザートイーグルではない。
長大な銃身を持つ大口径リボルバー、『レッドホーク』。
潰れた左目から鮮血が伝い落ちる中、彼は視界の効かない右目だけで男の眉間を射抜いていた。
――轟音。
放たれたレッドホークの弾丸は、男の頭蓋を内側から粉砕するほどの威力で突き抜けた。男は驚愕の表情を貼り付けたまま、糸が切れた人形のように背後へと倒れ込み、コンクリートの床に音を立てて崩れ落ちた。
部屋に再び、重苦しい静寂が訪れる。ロキの荒い息遣いと、男の身体から滴る不気味な黒い血の匂いだけが、そこに残されていた。
倒れ伏した男の亡骸へとゆっくりと歩み寄ると、とどめを刺すようにレッドホークの銃口をその脳天へと定め、躊躇なく引き金を引いた。轟音が地下室に響き、男の頭部が砕け散る。
確実に息の根を止めたことを確認し、ロキは深く、荒い溜息をついた。死の淵を掠めた緊張感が、ようやく霧散していく。
「ロキさん……っ!」
心春が悲鳴に近い声を上げ、顔を蒼白にしながら駆け寄ってきた。彼女の目は、ロキの右腕に突き刺さったままの凶器と、左目を塞ぐようにして残る槍に釘付けになっている。彼女の震える指先が、どう手当をすべきか迷い、空中で彷徨っていた。
「大丈夫だ。この程度、掠り傷だ」
ロキは努めて平坦な声で言い放つと、左手のレッドホークをホルスターへ手際よく収めた。
表情一つ変えず、まず右腕の肉を貫いていた鉄の槍を、無造作に、しかし力強く引き抜いた。続いて、左目に深々と突き刺さった槍を抜き去る。
ドバッ、と。
眼窩から新鮮な鮮血が噴き出し、ロキの頬と黒いコートを真っ赤に染め上げた。激痛が全身を駆け巡るが、ロキは眉一つ動かさない。彼は右腕の傷を無視し、左手で即座にその凄惨な眼窩を覆い隠した。
年端もいかない少女に、自身の抉られた眼球を見せ、トラウマを植え付けるような真似はしたくなかった。彼は背中を向けたまま、血が滴る手で傷口を強く圧迫し、痛みに歪む顔を隠す。
左目から溢れ出る熱い血の感触を感じながら、ロキは掠れた声で彼女を制した。その声には、彼女を気遣う少しばかりの優しさと、若干の疲弊が微かに混じっていた。
男の残骸は、異質な甘い香りを残したまま、まるで焚き火の後の灰のようにさらさらと空気に溶けて消えていった。後に残されたのは、男が纏っていた高級なスーツの生地だけだ。
その跡地から、陽炎のような白い光の粒子がふわりと立ち昇る。それは逃げ場を求めるかのようにロキの胸へと吸い込まれ、彼の身体の中で静かに収束していった。
目に見える変化は劇的だった。
先ほどまで眼窩を抉り、鮮血を滴らせていた左目が、まるで巻き戻しの映像を見るかのように肉を盛り上げ、一瞬にして元の視力を取り戻す。右腕を貫いていた傷跡も、淡い光に包まれて跡形もなく消え失せた。
ゆっくりと左手で覆っていた顔を離し、再び開いた両目で心春を見つめた。
「……見た通りだ。限定的だが俺は不死身だ。安心しろ」
彼は何事もなかったかのように口角を上げ、不敵な笑みを浮かべて見せる。
先ほどまで彼を覆っていた「死の気配」は完全に消え去っていた。
「……っ、よかった……本当によかった……」
心春は堰を切ったように目から涙をこぼした。先ほどの凄惨な光景が嘘のようだ。彼女は震える手で、ロキの右手をきつく握りしめる。
ロキは一瞬、硬直した。
彼女の握る手からは、今しがた自身の傷口から流れ出ていた血の冷たさとは対照的な、柔らかく生々しい体温が伝わってくる。
100年もの間、人との関わりを意識的に遮断してきた彼にとって、その温もりはあまりに純粋で、防壁を突き抜けてくるような力を持っていた。
心春の震えが伝わるたび、ロキの中で張り詰めていた戦いの緊張が、緩やかに解けていく。彼は無意識に、右手を握り返そうとして、途中で思い留まった。
「……まだ、他にもいるんでしょうか」
心春は周囲の闇を警戒するように視線を巡らせ、神経を尖らせていた。先ほどの戦いの激しさと、ロキの傷の深さが、彼女の心をまだ張り詰めさせている。
心春の小さな手が自身の右手を握りしめていることに一瞬の迷いを見せたが、やがてそれをゆっくりと、しかし拒絶ではない柔らかな動作で振りほどいた。
自身のコートの汚れを軽く払うと、落ち着いた声音で彼女の不安を打ち消す。
「安心しろ。落神の習性として、奴らは常に単独で行動する。このビルに巣食っていたのは、今殺した奴だけで間違いない」
ロキの言葉に、心春は肩から力が抜けたのか、長く、深い安堵の溜息を漏らした。地下室を支配していたあの濃密な芳香も、男が消えた今、急速に薄れ始めている。
もう、隠密行動をする必要はない。ロキは腰のホルスターからデザートイーグルを抜き放つと、銃口を心春が案じていた女性を縛り付けている鎖へと向けた。
硬質な金属音が、地下倉庫の壁を大きく鳴らす。鎖の接合部に正確に叩き込まれた弾丸は、重厚な鉄鎖をいとも簡単に断ち切った。バラバラと床に落ちた鎖が、乾いた音を立てる。
ようやく拘束から解き放たれた女性の身体を、心春は急いで駆け寄って支えた。
「大丈夫ですか……?」
心春の女性への問いかけに、ロキは無言で女性の首元に指を添えた。指先が触れた瞬間、彼女の皮膚の下を流れるのは、生命の鼓動よりも鋭い「毒」の気配だった。心臓の音は頼りなく、衰弱しきっている。それ以上に、その体内を浸食する落神のどす黒いエネルギーが、ロキの指先から脳へと直接的に不快な感触を伝えてくる。
女性の頬に手を触れ、己の内に備わった捕食の力で、その禍々しいエネルギーを引き抜こうと試みた。しかし、結果は芳しくない。わずかな澱みを取り除くことはできても、根幹のエネルギーはびくりとも動かない。女性の精神と肉体が、落神の毒とあまりに深く融合してしまっていた。
融合が進みすぎている。
何度か似たような事例に遭遇したことがある。その多くは、救い出しても人間としての境界を保てず、廃人として果てる結末ばかりだった。ロキの思考が、無意識に「切り捨て」という選択肢を脳裏に浮かべた――その時だった。
「……私が、やります」
心春が迷いのない声でそう言った。彼女はロキの制止を聞かず、そっと女性の胸元に両手を添えた。
次の瞬間、心春の掌から柔らかな白光が溢れ出し、女性の体を包み込んでいく。光が浸透するにつれ、女性はうなされるように眉を寄せ、苦しげに顔を歪めた。額に脂汗を滲ませながらも、さらに意志を込めて力を送り続ける。
静寂の中、かすかな光の粒子が呼吸を合わせるように揺らめいた。気づけば、先ほどまで途切れそうだった女性の呼吸が、嘘のように深く、安定したものへと変わっていた。
「……終わりました」
心春はそう小さく告げ、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。ロキは驚きを隠せぬまま、確信を確かめるように、再度女性の頬に手を触れた。
指先から伝わってきたのは、どす黒い毒の残滓ではない。先ほどまで彼女を蝕んでいたエネルギーが、まるで清らかな水へと書き換えられたかのような、奇妙なまでの浄化の気配だった。
瞠目した。
彼女の「力」は、単に落神を引き寄せるだけの力ではなかったのか。しかし、驚愕に浸っている暇はない。術の影響から解放されたとはいえ、彼女の肉体はまだ極限まで衰弱している。
デザートイーグルの安全装置をかけてホルスターへ戻した。これで今回の『依頼』は、ようやく結末へと向かい始めた。
自身が羽織っていた黒いコートを脱ぎ、衰弱した女性の肩に無造作に羽織らせた。そのまま力強く彼女の身体を抱き上げると、出口へと歩き出す。心春は、一瞬の隙も作らぬよう、ロキの背中に寄り添うようにしてその後ろを歩いた。
真夜中の代々木の街には、もう人影はほとんどない。ビルを出た瞬間、ロキは歩調を緩めることなく心春に問いかけた。
「心春、近くに救急を受け入れている病院はあるか」
「……っ、はい!」
心春は瞬時に携帯を取り出し、画面に反射する光の中で指を走らせる。数秒の検索の後、彼女はロキの顔を見上げて告げた。
「ここから歩いて5分のところに、大きめの病院があります」
「よし、そこへ行く」
女性を抱えたまま、人通りの少ない路地を選び、影を縫うようにして進んだ。心春は時折、ロキの背中越しに周囲を警戒しながら、彼の歩調に必死についていく。
白い外壁が夜闇に浮かび上がる病院の前に辿り着いた。ロキは人目の付きやすそうな場所に女性を静かに横たえると、緊急外来のインターホンへと手を伸ばした。ボタンを押すや否や、彼は返事を待つこともなく、反転して暗闇の中へと姿を消した。
「……行くぞ、心春」
ロキの声は静かで、どこか安堵を含んでいた。心春は最後に一瞬だけ、入り口で手当てを待つ女性の姿を振り返り、それから再びロキの後を追って、ツインマグナが停めてある路地裏へと急いだ。
心春の心拍数はまだ速いが、さっきまでの張り詰めた痛みはもうどこにもなかった。
バイクを停めた路地裏への道すがら、ロキはポケットから携帯を取り出し、田中へと発信した。コール音は一度も鳴らずに繋がり、すぐさま受話器の向こうから田中の張り詰めた声が届く。
「……見つけた。代々木の病院だ。今、緊急外来の前で保護されているはずだ」
「本当ですか! 今すぐ向かいます!」
田中は取り乱したように叫び、礼を言う間もなく電話を切った。
携帯をしまい、小さくため息をつく。成功報酬の振込先や、その後の詳細についても詰めておきたかったが、依頼人が取り乱しては話にならない。まあ、後日事務所に顔を出すだろうと思考を切り替えた。
路地裏には、二人が乗ってきた愛車が静かに佇んでいた。ロキはヘルメットを手に取り、慣れた手つきでエンジンを始動させる。重低音の鼓動が夜の静寂を震わせた。
「行くぞ、心春」
ロキが声をかけたが、心春は返事をしなかった。彼女はバイクを跨ることもなく、先ほどまで潜入していた『ヴィーナス・メトロポリタン』のビルを見つめて立ち尽くしている。
「……ロキさん。このビル、このままにしていいんですか?」
心春の瞳には、迷いが宿っていた。中にあったあの無数の瓶――落神の毒に侵された製品たちが、まだ地下に眠っている。このまま放置すれば、また誰かが手にしてしまうかもしれない。彼女の純粋な正義感が、この「根源」を断つべきではないかと問いかけていた。
「心配するな」
ロキは心春の視線に気づき、短くそう返した。
「俺の知り合いに頼んでおく。この界隈の事情に詳しい奴がいるからな。中身ごと根こそぎ、きれいに後片付けくらいはしてくれるだろうさ」
彼が信頼を置く「知り合い」という言葉に、心春は張り詰めていた表情を緩めた。彼女の顔に、心底からの安心が広がる。
「……よかった。それなら安心です。じゃあ、帰りましょう!」
心春はそう言うと、いつもの活発さを取り戻したように、ヘルメットを被ってシートに跨った。
早く帰ろうと急かしてくる心春にロキは苦笑し、自らも黒いフルフェイスを被ってエンジンを吹かした。重低音が夜の街に響き渡り、二人は夜風を切り裂いて『BlueMonday』への帰路につく。
街の灯りが流れていく中、ある落神の言葉を思い出して呟いた。
神の寵愛
この子は、これからどのような道を歩むことになるのか。
自身の特異体質によって異物を引き寄せ続ける「導火線」となって破滅を招くのか。それとも、その力で誰かを癒し、救い出す「女神」の道を切り拓くのか。
この先どのような運命が彼女を待ち受けているのかは、神ですら知る由もないはずだ。
ロキ自身、これまで多くの命の終焉を見届けてきたが、彼女の未来だけは、まるで視界の効かない霧の向こう側のように予測がつかなかった。
手に力を込め、アクセルを深く捻り込んだ。
バイクのエンジン音は夜の闇を轟かせるように叫んでいた。




