5#Aphrodite Abode
出会いから、ちょうど一週間が経過した。
新宿の裏路地に潜む探偵事務所『BlueMonday』は、かつての殺伐とした空気とは少し異なる、奇妙な均衡を保ち始めていた。心春はこの一週間、新しい生活の規律になんとか適応しようと努め、ロキは心春がいるということ以外は何ら変わらない日々を過ごしていた。
事務所のメインデスクは、ロキが持ち帰った無数の資料で埋め尽くされている。彼は椅子に深く背を預け、愛用の『DEATH』をくゆらせた。立ち上る紫煙の向こう側で、目を細めて文字を追う。
雫が落ちる軽やかな音が少しずつリズムが遅くなる。
学校から帰宅した心春が、事務所の隅に設けられた小さなキッチンでコーヒーメーカーをぼんやりと眺めていた。
「……ロキさん、コーヒー、淹れました」
心春の声が、張り詰めた室内の空気をわずかに緩める。彼女はマグカップを二つ並べ、慣れない手つきで慎重にカップへ注いでいた。
新品の可愛らしいマグカップや吸い殻が山盛りになっていない灰皿、一週間前にはなかった新たな生活の匂いが宿り始めている。
ロキは煙を長く吐き出し、資料から目を離さないまま短く応えた。
「ああ、悪いな」
コーヒーの芳ばしい香りが、タバコの煙と混じり合って事務所の空気を満たしていく。
窓の外では、変わらぬ新宿の喧騒が遠く響いている。彼は手元の資料に視線を落としたまま、ただ無機質な時間をやり過ごしていた。
心春は湯気の立つマグカップを両手で包み込み、温もりを確かめるようにして一口啜った。その視線は、デスクの上で乱雑に広げられた切り抜きや報告書へと向けられている。
「ロキさん、……何の事件を追ってるんですか?」
コーヒーの苦味のせいか、あるいは彼女自身の好奇心のせいか、声は至って穏やかだった。一週間前であれば、ロキは即座に言葉を切り捨てていただろう。だが今、この事務所に流れる空気は、当時のような氷点下の緊張感とは少しだけ種類が異なっていた。
タバコを灰皿で揉み消し、背伸びをして凝り固まった肩を回した。
「……ずっと追ってる事件がある。もう、随分と昔からな」
ロキの言葉は短かった。それ以上の詳細は語らない。しかし、その瞳の奥に宿る濁った色が、単なる仕事ではなく、個人的な執着が混ざり合った「何か」であることを無言のうちに物語っていた。
「ふーん……」
心春はそれ以上、踏み込んで尋ねることはしなかった。
ロキという男は、自分の領域に土足で踏み込まれることを極端に嫌う。そして、教えたくないことについては、どんなに言葉を尽くしても絶対に口を割らない。この一週間、共に過ごす中で、心春はそんな彼の「境界線」を肌感覚で理解していた。
彼女はマグカップから目を逸らし、窓の外をぼんやりと眺める。ロキもまた、追及を避けたことに安堵するように資料へと視線を戻した。
交わされる言葉は少なく、しかしそこには確かな距離感の調和がある。二人だけの閉じた空間で、ただコーヒーの香りと、遠い街の音が静かに循環していた。
窓の外では、陽が沈みかけ、新宿の空を橙色から藍色へと塗り替えようとしていた。平日の夕暮れ時、事務所内には資料をめくるカサリという音と、ロキが吐き出すタバコの煙が淀んでいる。
心春はマグカップを置き、ふと夕食のことを考えていた。一人で済ませることも慣れてきてはいたが、ロキがいれば『三葉』へと誘いオムライスを食べるのが、この一週間のささやかなルーティンになっていた。
声をかけようと彼の方を向いた、その時だった。
コン、コン。
乾燥した硬質な音が、事務所の玄関から響いた。
心春は驚いて目を丸くし、ロキの方を見た。心春がこの事務所に来てから一週間、一度として客が訪れたことはなかった。
ロキは資料から視線を外し、玄関の扉を一瞥した。鋭い眼光が扉の向こう側を探るように細められる。彼の中での思考は一瞬だった。
誰が来たのか、あるいは何が来たのか。
努めて平坦な声で言い放った。
「……どうぞ」
事務所の扉が重い音を立てて開き、夕闇を背負った影がゆっくりと中に足を踏み入れた。ロキと心春の視線が、同時にその来訪者へと注がれる。
入ってきたのは、くたびれたスーツを纏った中年の男だった。手には紙袋を持っているのに肩の力は抜けきり、土気色の顔には深い疲労の色が刻まれている。
まるで重い荷物を背負い続けて、潰れる寸前の人間のような佇まいだった。
ロキは男の様子を観察するように目を細めた後、顎でソファを指し示した。
「……座れ。心春、悪いが客にコーヒーを淹れてくれ」
「はい」
心春は短く答えると、ロキの意図を汲んでキッチンへと向かった。背中越しに気配を消し、先程作ったばかりのコーヒーを入れる為にカップを準備しながら、彼女は意識を完全に事務所のソファへと向ける。
ソファに沈み込んだ男は、震える手で自身の胸元を押さえた。
「……田中、田中聡と申します」
絞り出すような掠れた声。ロキはデスクから自分の名刺を取り出し、無造作にテーブルへと滑らせた。黒い名刺が滑る音が、事務所に響く。
「で、田中さん。うちのような怪しげな裏路地の事務所に、わざわざ足を運んだ理由を聞こうか。俺は相談事なら何でも聞くタチだが、依頼となればタダではないのは肝に銘じておいてくれ」
低く静かな声が、男の核心を突く。心春はカップを準備する手を止め、キッチンとデスクの間の僅かな隙間から、男の横顔を窺った。
「……妻が、一週間前から帰ってこないんです」
田中が口にしたのは、探偵事務所にはよくある類の人探しだった。疲弊しきった田中の表情には、偽りや悪意といった類のものは見当たらない。
「警察には相談したのか?」
ロキの問いに、田中は深くうなだれた。
「……ええ、もちろん。ですが、大人だし……事件性が証明されない限り、本格的な捜査はできないと。パトロールの際に少し気にかけておきます、という……定型文のような返答をいただいただけで」
黙ってその言葉を咀嚼した。確かに、成人した大人が一週間行方をくらませることは珍しくない。多忙や気まぐれ、あるいは自らの意思による家出であれば、警察が動かないのは至極真っ当な判断だ。
だが、田中の薄汚れたスーツや、頬の痩け方を見れば、彼にとっての「一週間」がどれほどの重圧だったかは容易に察しがついた。
少なくとも、作り話をするような余裕があるようには見えない。
「……なるほどな」
ロキが軽く首肯した。
キッチンから出てきた心春が、一つのコーヒーカップをテーブルに置き、男の方へと少し押し出した。コーヒーの立ち昇る湯気が、殺伐とした事務所の空気にわずかな温かさを加える。心春は何も言わず、音も立てずにロキの背後へと回り込み、静かにその場に佇んだ。
彼女の気配は消されていたが、その視線はまじまじと田中を捉えていた。何が起こり何が始まるのかを逃さないように全ての言葉を聞き逃さぬよう集中していた。
くたびれた姿の男の全身を軽く確認しながら、改めて目の前の男を見据えた。
「で、田中さん。あなたの奥さんは、いなくなる直前、何か変わった様子や……『いつもとは違う何か』はなかったか? どんな些細なことでもいい。思い出してくれ」
と、静かに切り出した。
依頼料を稼ぐためではない。探偵事務所にやってくる案件の中で落神絡みの案件は少ない。ただの行方不明ならこの男には申し訳無いが断りを入れるためだ。
田中は震える指先でコーヒーカップを弄びながら、絞り出すように言葉を紡ぎ始めた。その声は、恐怖と困惑、そして妻を案じる痛切な思いに震えていた。
「……妻は、昔から美意識が非常に高い人間でした。美容液や化粧品、そういった類のものには目がないほうで……新作が出れば手に入れ、部屋にはいつも何かしらの美容グッズが溢れていました」
田中は一度言葉を切ると、遠い目をして続けた。
「ですが、妻が行方不明になる一週間前……ある化粧会社のブランドを使い始めてから、明らかに様子が変わったんです。これまでとは違った……言葉にするのは難しいのですが、言いようのない美しさが、彼女に宿り始めたんです。見る間に肌は白く透き通り、まるで別人のように輝いていって……」
男の表情には、妻が美しくなっていくことへの喜びよりも、どこか異質なものに飲み込まれていくような、得体の知れない恐怖が滲んでいた。
「……周囲も驚くほどでした。それから間もなくして妻は……部屋に化粧品だけを残して、跡形もなく消えてしまいました」
ロキの瞳の奥で、冷徹な理性が鋭く光った。「美容」への執着、短期間での異常な変貌、そして行方不明。彼にとってあまりに耳慣れた、不吉なキーワードが並ぶ。
背後に立つ心春の気配を感じながら、ジッと田中を見つめた。
「その化粧品会社……名前はなんていうんだ?」
問いかけに、田中の視線がわずかに泳いだ。男は迷うように唇を噛みしめ、それからようやく、掠れた声で名を口にした。
「……『ヴィーナス・メトロポリタン』。最近、ネットの広告でたまに目にするくらいの、新しいブランドです」
眉間に皺を寄せ、溜息をつくように視線を心春へと向けた。ロキにとって「美容」という領域は、150年の月日の中でも最も縁遠く、理解しがたい分野の一つに過ぎない。
「……心春。その『ヴィーナス・メトロポリタン』とかいう名前、聞いたことはあるか?」
心春はロキの背後から小さく首を横に振った。
「いいえ……テレビのCMでもSNSでも、見たことがありません。流行りのブランドなら、同年代の子の間で少しは話題になるはずなんですけど……」
そのブランドが少なくとも女子高生の間では認知度が低いことをロキは理解した。
「……なるほどな。で、田中さん。その奥さんが残していったという化粧品はどんな物だったんだ?」
「いくつか持ってきたので、実物をお見せします……」
田中は足元に置いていた紙袋から、おずおずと中身を数個取り出した。
テーブルの上に並べられたのは、高級感を演出する金色の装飾が施された瓶や、重厚なガラス容器だった。それらの瓶には、確かに『Venus Metropolitan』という優美なフォントでロゴが刻印されている。
無造作にその一つを手に取り、光を透かして中身を観察した。容器の中で揺れる液体は、奇妙なほど粘度が高く、そして不気味なほどの透明感を湛えている。
指先が、そのガラス瓶から伝わる微かな「熱」を感じ取ったとき、それがただの化粧品ではないことを確信した。
後ろで見ていた心春も、その異質な輝きを放つ瓶の数々に、思わず息を呑んで一歩引き下がった。
手にした瓶をゆっくりとデスクに置き、田中を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、先ほどまでの冷徹さとは別の、獲物を定めるような静かな熱が宿っている。
「田中さん。この依頼、引き受けましょう」
「ほ、本当ですか……っ!」
田中の顔色が、期待と安堵で急速に明るくなる。ロキは手でそれを制し、淡々と条件を告げた。
「報酬は成功報酬だけでいい。奥さんが無事に見つかれば20万。見つからなければ、金はいらない」
その破格の条件に、田中は目を見開き、椅子の背を蹴るようにして立ち上がった。何度も深々と頭を下げ、「ありがとうございます、本当にありがとうございます!」と声を震わせる。ロキはその感謝の言葉を鬱陶しそうに片手で受け流した。
「礼を言うのは、奥さんが見つかってからにしてくれ。それと、今持っているその化粧品、すべてここに置いていけ」
「……ええ、もちろん! いくらでも役立ててください」
田中は慌てて紙袋の中の残っていた瓶や容器を、すべて事務所のデスクに出した。
妻の容姿が分かるものはあるかと問うロキに、田中は写真を一枚テーブルに差し出した。肌ツヤの綺麗な美しい女性の姿を確認する。
口頭で伝えてくる田中の連絡先をメモ帳に控えると、彼を出口まで促した。
「進展があればこちらから連絡する。今日はもう帰って休め。顔色が酷い」
「はい……! よろしくお願いします!」
田中は事務所のドアを閉め、夜の闇へと消えていった。
重い扉が閉まった直後、事務所には再び静寂が戻った。心春はテーブルに並べられた異様な輝きを放つ『ヴィーナス・メトロポリタン』の瓶を、おそるおそる見つめた。
「ロキさん……これ、やっぱり……」
その質問にすぐには答えず、再びデスクに座り込み、引き出しからタバコを取り出した。ライターの火がパチリと小さく跳ね、青白い煙が空間に溶け出していく。彼は吸いかけの煙を吐き出しながら、心春に視線を向けた。
「わかるか。おそらくただの美容液じゃない。落神のエネルギーをこの瓶から感じる」
ロキの言葉に、心春は背筋が凍るような冷たさを感じた。
「落神って、直接力ずくで人を襲うものばかりじゃないんですか?」
自分が襲われた時の事を思い出し、心春が不安げに尋ねると、ロキは立ち昇る煙を眺めながら、重い口調で短く首を横に振った。
「そう単純なら楽なんだがな。奴らは色んな形で人間に害をなす。力任せに喰らうような直球タイプもいれば、今度の件みたいに、欲望や隙間にじわじわと毒を浸透させるように罠を張るタイプもいる。多種多様だ」
ロキの説明に、心春は神妙な面持ちでテーブルの上に並べられた瓶を見つめた。得体の知れない美しさの裏に、どれほどの悪意が隠されているのか。想像するだけで背筋が寒くなる。
無造作に、その中の一つから蓋を取り外した。とろりとした透明な液体が、瓶の縁で僅かに光を反射している。彼は迷いなく、自身の左腕にその化粧水を一滴垂らした。
「あ、ロキさん……!」
思わず声を上げる。止めようとする間もなく、肌に触れた液体は、まるで乾いた砂が水を吸い込むかのように、一瞬にして彼の腕へと吸い込まれて消えた。その痕跡すら残さない異様な吸収の速さに、心春は息を呑む。
「……大丈夫なんですか? なにか、変なことになってないですか?」
心配そうにロキの腕を覗き込む心春を、ロキは冷めた瞳で一瞥した。彼は自身の腕を軽く振って、何事もないことを証明するように肩をすくめる。
「ああ、平気だ。俺にとっては、ただの栄養剤みたいなもんだからな」
ロキは淡々と補足した。
「俺は落神のエネルギーを捕食して生きている。この液に含まれるわずかな残滓も、ただのエネルギー源として吸収して終わりだ。……ただこれで間違いなく今回の依頼は落神が関わっているとわかったな」
彼は再び冷静にデスクへ向き直る。その背中は、心春の不安をよそに、獲物を追う捕食者のそれへと切り替わっていた。
心春は素早く携帯を取り出すと、指先で器用に画面を叩いた。検索窓にブランド名を打ち込み、数秒待つ。いくつかのサイトがヒットし、その中に『ヴィーナス・メトロポリタン』の公式企業情報が載っているページを見つけた。
「あ、ありました。……住所、代々木みたいです」
画面をロキへと向けると、彼は驚いたような、しかしどこか感心したような表情で目を細めた。
「……なるほどな。便利な世の中になったもんだ」
ロキは煙を長く吐き出し、画面を覗き込む。150年という長い月日を生きてきた彼にとって、情報の検索スピードの変化は、今さらながらに異質な進化に感じられたのだろう。
その少し時代遅れな感想を聞いた心春は、一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに堪えきれなくなったように小さく笑った。
「ふふっ……ロキさん、そんなこと言うなんて、本当におじいちゃんみたい」
「……黙れ」
悪びれる様子もなく笑う心春に、ロキは短く返した。心春は楽しげに目を細めたまま、ふと思いついたように問いかける。
「じゃあ、この情報がなかったら、どうやってその会社を探すつもりだったんですか?」
「勘だ。街を適当に歩き回って、落神特有の嫌なエネルギーの残り香を探すしかないと思っていた」
ロキの答えは、あまりにも原始的で、泥臭いものだった。それを聞いた心春は、まるで珍しい生き物を見るような目で彼を見つめ、クスリと笑みを深める。
「ふふ、それってなんだか……匂いを頼りに獲物を探す、ワンちゃんみたいですね」
その無邪気な一言に、ロキは不覚にも少しだけ動揺したのか、コホンと大げさに咳払いをした。心春の言葉を華麗にスルーしながら、彼は冷静を装って尋ねる。
「……で、代々木の詳しい住所は?」
心春は「はい」と微笑み、画面を指差した。
ホルスターに銃を仕舞い、ロキが準備をしている最中に心春は提言した。
「私も行きます」
心春のその言葉に、ロキは間髪入れず「ダメだ」と突き放した。
当然の拒絶だった。落神という未知の脅威が潜む敵地へ、餌である心春を連れて行くなど、合理的な判断とは言えない。
ましてや相手は「神」の成れの果てだ。
しかし、心春も引く様子はない。彼女はロキを真っ直ぐに見据え、一歩も退かずに切り出した。
「じゃあ、ロキさんが代々木に行っている間に、私がここに一人でいて、落神が襲いに来てもいいんですか?」
ロキの指が、ホルスターの留め具を弄っていた動作を止めた。確かに、その可能性はゼロではない。心春を放置して自分が離れれば、ここが空き家であると見抜かれ、入れ違いにきた落神に無防備な彼女が狙われる可能性もあった。
「それに……私も、この世界のことをしっかりと把握しておきたいんです」
心春の瞳は、一週間前のどこか頼りないそれとは違っていた。これから直面する恐怖を理解した上で、自分自身の手で運命を見定めようとする意志の強さが、その熱い眼差しに宿っている。
ロキは沈黙し、彼女の決意を測るようにじっと観察した。やがて、少しだけ低い声で問いかける。
「……本気なんだな?」
「はい」
迷いのない力強い返答。そのまっすぐな眼差しを受けたロキは、小さく息を吐いた。彼女の意志の硬さを認めざるを得なかったのだ。
その瞬間だった。
事務所の静寂を破り、心春の腹からぐぅ、と間抜けな音が響いた。
「……ただ、その前に。ご飯食べてからがいいです」
顔を真っ赤にして照れる心春の姿に、張り詰めていたロキの神経がふっと緩む。ロキは呆れたように肩をすくめ、小さく笑った。
「分かったよ、食ってから行く。三葉でいいんだな?」
「はい!」
先ほどまでの剣呑な空気が嘘のように、二人の間には温かな日常が戻っていた。ロキは椅子から立ち上がり、準備していた銃をホルスターに戻すと、コートを羽織る。
これから向かう先がどれほどの戦場であっても、今はまず、この少女の空腹を満たすことが二人の優先事項だった。




