4#New Navigation
心春を事務所の奥にある空き部屋へと案内した。使い古された木の扉を開けると、そこには簡易的なベッドと古ぼけたクローゼットがひとつずつ置かれているだけの、極めて質素な空間が広がっていた。心春は部屋の入り口に立ち、殺風景な室内をゆっくりと見渡す。その表情には、この先の生活に対する困惑が混ざっていた。
「今日からお前はここに住んでもらう。好きに使え」
部屋の隅を顎でしゃくると、続けて淡々と告げた。
「高校には通っていい。学費や諸々の費用については心配いらん。仕事柄、その手の金の出所には困らないからな」
心春は「……はい」と小さく答えると、部屋に入り、肩にかけていたカバンをベッドの傍らの床に置いた。最低限の持ち物しかない彼女の背中が、どことなく頼りなさげに見える。
ポケットから自身の携帯電話を取り出し、心春に向けて突き出した。
「連絡先だ。交換しておけ」
画面を操作して連絡先を共有させると、ロキはそのまま踵を返そうとして振り返る。
「今からさっきのお前の家まで行って、当面必要なものを取ってくる。何かあれば連絡するから、大人しく待っていろ」
無愛想な言葉を残し、ロキは心春の返事を待つこともなく、自分の携帯を再びポケットへ滑り込ませた。
探偵事務所の裏手へと向かう。駐めてあった愛車『ツインマグナ』に跨り、エンジンに火を入れた。250CCのアメリカンバイクは答えるように低い音で返事をする。
重低音を響かせながら走り出し、路地を抜けて心春の家へと向かう。道中、近場のドラッグストアに立ち寄り、養生テープとビニール紐、そして手頃なサイズのダンボールを3つ確保した。
目的の家に到着すると、足音を殺して静かに中へ踏み込んだ。いくつかの部屋を確認して回った末、生活感の漂う一室で足を止めた。心春の部屋だと直感したその場所は、彼女の性格を表すように驚くほど整理整頓されていた。
持ち込んだダンボールを広げると、クローゼットに並べられた服や、机の上に整然と積まれた教科書類を次々と詰めていく。
箱の中に収められていく教科書や衣類を見ながら、微かに口角を上げた。まるで主の気配を閉じ込めるかのような丁寧な梱包作業を進め、手際よく荷物を纏め上げていく。
探偵事務所の扉を開け、ダンボールを抱えて部屋へと戻ると、最初に目に入ったのは簡易ベッドに腰掛け、虚空を見つめていた心春の姿だった。彼女は心ここにあらずといった様子でぼんやりと座り込んでいたが、ロキの気配を感じてゆっくりと顔を上げる。
「すまない。遅くなったな」
無造作に、荷物の詰まった箱を床に置いた。心春はパチリと瞬きをすると、慌てた様子で腰を浮かせ、努めて平静を装うように首を振る。
「あ……いえ、気にしないでください。わざわざ、ありがとうございました」
心春の言葉を軽く受け流し、箱を指差した。
「必要そうなものは一通り詰め込んできたはずだが……足りないものや、どうしても必要なものがあるか確認してくれ」
心春は頷くと、箱の傍へと歩み寄り、一つずつ丁寧に中身を確かめ始めた。衣類や教科書に触れる彼女の手指が、ふと動きを止める。静寂の中で、心春はロキの背中を見つめたまま、意を決したように問いかけた。
「……あの、どうしてロキさんは、ここまでしてくれるんですか?」
自分を家から連れ出し、安全を確保し、こうして私物まで運んできてくれる。その動機が理解できず、彼女の瞳には純粋な戸惑いが浮かんでいた。
口を開きかけ、適当な言葉でその問いをはぐらかそうとした。だが、振り返った先で心春がまっすぐに向ける、あまりに純粋で真剣な眼差しが、彼のわずかな躊躇を打ち砕いた。
「……別に、聖人君子のような慈悲があるわけじゃない」
溜息交じりに言葉を継いだ。
「俺は不老不死だ。正確には150年ほど生きている。……長い年月、この退屈な世界をただ歩いている」
心春は驚きに目を見開いたまま、反論もせず黙ってその言葉を聞いている。壁に背を預け、冷めた目で自身の指先を見つめた。
「俺の命は条件付きだ。落神を狩り、そのエネルギーを吸い取ることでしか、この身体を維持できない」
そこまで言うと、心春と視線を合わせた。
「お前は、俺のために落神を引き寄せるための餌だ。お前がいれば、俺は効率よく獲物を狩れる。だからお前を保護しているに過ぎない。……それだけの話だ」
ポケットからタバコを取り出したが、そこが心春の新しい寝床であることを思い出し、すぐにケースへと戻した。
心春は静かに荷物から手を離し、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、ロキが告げた「餌」という冷徹な言葉すらも、彼女自身のフィルターを通して温かな意味へと変換しようとする兆しが見えた。
「……ロキさんは、ずっとそうやって、さっきのような化け物を倒して……たくさんの人々を守ってきたんですね」
その言葉を耳にした瞬間、ロキは思わず吹き出した。乾いた、どこか自嘲めいた笑いだった。
「随分と優しい言いまわしだな。……勘違いするなよ」
冷めた眼差しの中に、僅かな愉悦を滲ませて続けた。
「俺は誰かを守るために銃を撃っているなんて思ったことは一度もない。ただ自分の命を繋ぐために、そこにいる邪魔な化け物を消し飛ばしているだけだ。結果的に被害が減ろうと、それは俺の目的じゃない」
冷たく言い放ちながら、ロキは自身の表情が、信じられないほど軽く緩んでいることに気づいた。皮肉を並べ立てたはずなのに、胸の奥底で奇妙な温かさがくすぶっている。
最後に心から笑ったのがいつだったか、もう記憶の彼方だ。150年という長い空白を経て、目の前の少女のあまりに無防備な優しさが、ロキという男の固い殻に小さな亀裂を入れていた。心春から視線を外し、窓の外へ目を向けた。
「そんなことより、当面の生活に必要なもんを確認しろ」
ぶっきらぼうに言葉をぶつけた。
その言葉に、心春はハッとしたように表情を引き締め、再びダンボールの中身へと向き直る。服の枚数、教科書の数、細々とした日用品。彼女の指先が次々と荷物を検めていく。
「……はい。多分、大丈夫です。必要なものは全部揃っています」
「そうか。もし何か足りないものがあれば、すぐに言え。後回しは面倒だ」
そう付け加えた時、窓から差し込む陽光が徐々に色を濃くし、事務所の室内をオレンジ色の残照が染め上げ始めていた。ロキはふと視線を窓の外にやり、小さく息をつく。
「……もうそんな時間か」
一度だけ伸びをすると、気まずげに視線を部屋の片隅へ戻した。
「一つ言っておくが、ここは探偵事務所だ。風呂もまともなキッチンもない。とりあえず風呂にでも行くか」
心春へと振り返り、短い指示を飛ばす。
「着替えを持って事務所まで来い。すぐに出るぞ」
そう言い残して部屋を出ると、自身の安楽椅子に深く体重を預けた。重厚な革の軋む音と、日が落ち初め夜が始まる静寂が室内を駆け巡る。
再び独りになった空間で、ロキは先ほどまでの自身の柔らかい感情を塗りつぶすように、再び無機質な探偵の仮面を被り直した。
ロキの案内で路地裏の雑多な風景を抜け、角を曲がると、古びた暖簾が風に揺れていた。その風情ある建物に掲げられた看板には、『丸出銭湯』の四文字が力強く書かれている。ロキにとっては馴染みの深い、この辺りでは数少ない憩いの場所だ。
「丸出銭湯……ちょっと面白い名前ですね」
心春が思わず口元を綻ばせ、小さく笑い声を漏らす。その屈託のない反応に、ロキは初めてこの看板を目にした日のことをふと思い出した。当時も同じように滑稽だと感じ、ニヤついた記憶がある。
長く生きれば感情も摩耗していくものだが、目の前の少女の反応は、凝り固まった視界を不思議と軽くする。
「……ああ。最初に見た時は俺もそう思った」
短く応じると、心春に視線を向けた。その表情は、先ほどまでの無機質さから少しだけ力が抜けている。
銭湯の入り口前で、二人は足を止めた。男女の暖簾が並ぶその境界線で、ロキは軽く顎をしゃくる。
「時間はたっぷりある。ゆっくり浸かってこい」
心春は「はい、ありがとうございます」と小さく会釈をして、女湯の暖簾の向こうへと消えていった。彼女の背中が見えなくなるのを見届けると、自身の男湯へと続く暖簾をくぐった。入り口で二人は別れ、喧騒から切り離されたそれぞれの静寂の中へと足を踏み入れた。
湯上がりの火照った肌に、路地裏の夜風が心地よく吹き抜ける。銭湯の入り口にある木のベンチに深く腰を下ろした。
待たせるのは性にあわない。そう自分に言い聞かせて早めに出てきたものの、一人で持て余す時間はやはり少し退屈だ。慣れた手つきでタバコに火をつけると、紫煙が夜の闇へと溶けていった。
彼はポケットから携帯電話を取り出し、画面をタップする。着信の通知はなく、メールフォルダも空のままだった。期待していたわけではないが、どこか静まり返ったその画面を眺めながら、ロキは小さく鼻を鳴らす。
ここ数日で、2体の落神を葬り去った。
普通であれば、次はどこに潜んでいるか、自分の命をどう維持するかと常に神経を尖らせていなければならない。しかし、今は違う。
心春という「餌」がすぐ近くにいるという事実。そのエネルギーが引き寄せる獲物の密度。かつてないほど濃密な狩りのペースが、胸中に不思議な余裕をもたらしていた。
獲物を探すために這い回る必要はない。ただ、心春のそばにさえいれば、向こうから勝手にやってくる。この絶対的な安心感と、飼い慣らしていくような感覚。ロキは燻燻るタバコの先を見つめながら、影の中で不敵に目を細めた。
手元の時計をちらりと見やり、タバコの火を灰皿に押し付ける。ちょうどそのタイミングで、女湯の暖簾が揺れ、心春が姿を現した。
制服からグレーのスウェットへと変わった服装、湯気を含んだ少し火照った頬と、濡れた髪に付く微かな洗髪材の匂い。心春はロキの姿を見つけると、ペコリと丁寧に頭を下げた。
「お待たせしてすいません」
「……俺も、今来たところだ」
白々しい嘘だった。まだ微かなタバコの香りが残っており、吸い殻が残る灰皿もすぐそばにある。バレバレの言い訳に、心春は呆れるどころか、小さく肩を震わせて笑った。その屈託のない笑みを見て、ロキは溜息を一つ吐き、背を向けて歩き出す。
「帰るぞ」
夜の新宿は、昼間とは違う喧騒を孕んでいる。ネオンの瞬く通りではなく裏路地を二人で並んで歩いた。
心春の足取りは、銭湯で温まったせいか、あるいは少しだけ緊張が解けたのか、事務所へ向かう時よりも幾分か軽やかに見える。
その時だった。静かな夜道に、小さく、しかし明確に「ぐぅ」という音が響いた。
心春は瞬時に顔を真っ赤にして立ち止まった。その表情は「聞かなかったことにしてください」と物語っている。ロキは苦笑しつつ、足を止めた。
「すまない。飯のことをすっかり忘れていた」
「いえ、そんな……! お気遣いなく」
心春は慌てて否定したが、お腹は正直だ。空腹を隠しきれない彼女の様子に、人間とはこういうものだった思い出させられた。
食事で命を繋ぎ止める必要のないロキにとって久しく考えたことのなかった問題だった。
ロキは視線を巡らせ、すぐ近くにあった喫茶店『三葉』の看板を見つける。年季の入った落ち着いた佇まいの店だ。
「ここへ入れ。食ってから帰る」
店内に向かって歩き出し、ドアベルが静かに鳴るドアを押し開き中に入った。心春は少し迷ったような顔をした後、小さく頷いてその背中を追った。
喫茶店『三葉』の店内は、外の喧騒を遮断したように静かで、琥珀色の照明が心地よい影を作っていた。木製の落ち着いた調度品が醸し出す空気に、心春は少し緊張した面持ちで周囲を見渡す。
スっと近くのテーブル席に座ると、心春も慌てたようにロキの対面へと座った。
奥から一人の男が優雅な足取りで姿を現した。仕立てのいいスーツを着こなし、黒髪の中に覗く鮮やかな赤いインナーカラーが印象的な、30代くらいの男である。
彼は二人を認めると、まるで高級ホテルの給仕のような洗練された動作で水を差し出し、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。ロキ様、本日はまた随分と可憐なご令嬢をお連れでございますね。またレイラ様に引っ張られ来店されたと思いましたが、今日は違ったようですね」
その物腰はあまりに丁寧で、まるで給仕そのもののような調子だった。
こいつは新しい助手みたいなもんだ、とぶっきらぼうに返し、椅子に背を預ける。
その弾みでロキの手が無意識にポケットへ伸び、タバコの箱に触れた。だが、この店が全面禁煙だったことを瞬時に思い出し、彼は苦々しく手を引き戻した。
「初めまして、坂東心春と申します。……よろしくお願いいたします」
心春が緊張した面持ちでお辞儀をすると、男は満足そうに目を細め、深く会釈をした。
「お初にお目にかかります、心春様。当方荒波と申します。ささやかながら、当店のオムライスは当方の自信作でございます。心春様も、ぜひお試しいただければ幸いでございますよ」
男はそう言って執事のようにしなやかな仕草で一礼すると、軽やかな足取りで厨房の奥へと引っ込んでいった。心春はメニューを開きながら、ロキの向かいで少しだけ肩の荷を下ろしたように息を吐いた。
心春は荒波の推薦に従い「オムライス」を、ロキはいつものように「アイスコーヒー」を注文した。
心春がオムライスを頼んだことに、荒波は心底嬉しそうに目を細め、「かしこまりました。至高の一皿をご用意いたしますね」と優雅に一礼してキッチンへと引き上げていった。
店内が再び静かな空気に包まれると、心春は手元のグラスを軽く握り、ロキの顔を覗き込んだ。
「……あの、ロキさん。ここには、よく誰かと来るんですか?」
不意の質問だった。グラスの縁に口をつけていたロキは、思わずむせそうになり、喉の奥を鳴らして咳き込んだ。慌ててテーブルの上のナプキンで口元を拭い、ロキは努めて素っ気ない態度で答える。
「別に、誰とってわけじゃない」
一度間を置くと、気まずさを隠すように視線をわずかに逸らした。
「ただの、同僚の女だ。仕事の合間に立ち寄ることがあるだけさ」
そう言い放つロキの口調には、少しばかりの動揺が混じっていた。普段は冷徹な仮面の下に隠しているはずの、仕事仲間とのささやかな交流。
それを年端もいかない少女に指摘されたことに、ロキは自分でも意外なほど調子を狂わされているのを感じていた。
「ああ、それと」
再度水を一口飲み、咳払いを一つしてから話題を切り替えた。
「父親からいつ連絡が来てもいいように、携帯は常に身につけておけよ。通知を見逃すな」
心春はロキの言葉を噛みしめるように聞き、まっすぐに彼を見つめた。
「ロキさん……なにからなにまで、本当にありがとうございます」
その瞳には、感謝だけでなく、得体の知れない自分をここまで守ってくれることへの素直な敬意が宿っていた。ロキは心春の視線に耐えかねたように、視線を窓の外の夕闇へ投げ、ぶっきらぼうに突き放した。
「勘違いするな。お前のためじゃない。俺が狩りを効率よくやるためだ」
突き放すような冷たい言葉。それを最後に、二人の間の会話は途切れた。テーブルには再び、時計の秒針を刻む音と、遠くから聞こえる路地の生活音だけが溶け込んでいった。
やがて、キッチンから荒波が柔らかな足取りで戻ってきた。彼の手には、完璧に整えられた料理が載っている。
「お待たせいたしました。こちら、当店のオムライスでございます」
運ばれてきたオムライスは、卵の表面にケチャップが鮮やかに映える、どこか懐かしくも可愛らしいレトロな一皿だった。
同時に、ロキのアイスコーヒーと、心春のためにと湯気を立てる紅茶がそっと置かれる。
荒波は優雅に会釈し、心春へ向かって微笑んだ。
「こちらは当方からのサービスでございます。心春様、これからもぜひご贔屓に」
温かな湯気を上げる紅茶。それは、殺伐とした日々を送るロキと心春の間に、ほんのわずかな安らぎの時間を運んできていた。
心春は荒波の心遣いに応えるように、花が綻ぶような愛らしい微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
そう言って深く一礼する彼女の仕草には、まだ少女らしい清廉さが残っている。荒波もまた、ごゆっくりどうぞ、と丁寧な所作でキッチンへと下がっていった。
心春は早速スプーンを手に取り、黄色い卵を崩してオムライスを一口運んだ。次の瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれる。
「……っ、おいしい!」
思わず漏れた素直な感嘆の声。頬を少し膨らませながら、次々と料理を口へ運ぶその様子は、年相応の幼さと幸福感に満ちていた。
その光景を、ロキは沈黙の中で眺めていた。
ふと、胸の奥で記憶の澱が揺れた。100年という気の遠くなるような時間のどこか、あるいはかつて守ろうとして守れなかった誰かの姿と、今の心春の姿が重なったような錯覚。
懐かしさという名の、チリのように小さく、しかし鋭い痛みが胸をかすめる。
無表情のままアイスコーヒーのグラスを傾け、喉の奥に冷たい液体を流し込んだ。懐かしさなど、今の自分には不要な不純物だ。彼は意識的にその感情を冷徹な理性でかき消すと、淡々とした口調で心春に声をかけた。
「……味わうのはいいが、冷める前に食え。食い終わったら戻るぞ」
突き放すような言葉で、自分自身の内面を律するように。ロキは再び、いつもの無機質な探偵としての鎧を纏い直した。
事務所に戻ると、心春は与えられた自身の部屋の扉の前で足を止めた。ふと思い出したように振り返る。
「あの……ロキさん。明日から、学校へ行きます」
今日一日で彼女が置かれた状況を考えれば、平穏な日常とは程遠い。だが、彼女の生活を維持させる以上、社会との繋がりを完全に断つわけにもいかない。
ロキは無言でポケットに手を入れ、自身の財布を取り出すと、中から万札の束を無造作に掴み取った。それを心春の手に、半ば押し付けるようにして渡す。
「……これ、使え。当面の雑費だ」
心春は目を見開き、驚いて手を引っ込めた。
「えっ……! こんなの、多すぎます。受け取れません」
「気にするな。ガキ一人養う金くらい、仕事してれば稼げる」
心春の躊躇を無視し、彼女の手を無理やり握りしめて札束を押し付けた。
「足りなくなりそうだったら、また言え。黙って我慢されるほうが面倒だ」
心春は困惑し、戸惑いの表情を浮かべながらも、押し切られる形で札束を受け取った。彼女の震える指先が、万札の厚みを捉える。ロキの乱暴なまでの厚意に、心春は少しだけ目を潤ませ、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます。おやすみなさい、ロキさん」
「ああ」
短く応じると、心春は静かに扉を開け、自分の部屋へと消えていった。
閉ざされた扉を見つめ、小さく溜息をつく。自分の財布の中身が軽くなったことよりも、心春という存在が自分の生活空間に完全に組み込まれたという事実が、なぜか少しだけ重く、そして奇妙な安心感を伴って彼の胸に沈んでいった。
事務所の玄関の鍵を二重に締め、重い足取りで自身の部屋へと向かった。心春の部屋とほぼ同様、無機質なデスクとクローゼット、そして簡素なベッドが置かれただけの殺風景な空間だ。使い込まれた椅子に身を沈めると、彼は愛用の銘柄『DEATH』に火をつけた。
薄暗い部屋に、タバコの煙が白く漂う。
心春の件を公安ZERO課への報告しなくてはいけない。それが彼が負うべき義務であり、組織の人間として最も安牌な道だ。
だが、もし報告すれば「神の寵愛」とかいう希少な力に、組織が興味を示さないはずがない。彼らは心春を管理下に置き、どこかの施設へと閉じ込める可能性もある。
そうなれば、彼女が歩むはずの「学校に行く」という普通の少女としての人生も、すべて灰燼に帰す。
――なぜ、俺がそこまで考えている?
煙を吐き出しながら、ロキは自分自身に問いかけた。たかが「餌」だ。利用価値がなくなれば捨てるだけの、ただの同居人に過ぎない。それなのに、彼女の人生が壊れることを想像して、まるで自分の大切な何かが損なわれるような苛立ちを覚えている。
「……バカバカしい」
誰に聞かせるでもなく、自嘲の言葉が漏れた。150年も生きてきて、今さら他人を案じるような感傷など、自分には不要なはずだ。
灰皿にタバコを強く押し付け、火種を消した。紫煙が消えた後の静寂が、部屋の冷たさを強調する。彼は重い身体を布団の中へと滑り込ませた。思考を強制的に停止させなければ、夜が明けるまで自問自答が止まりそうになかったからだ。
暗闇の中、彼は閉じた瞼の裏で、先ほど喫茶店で見せた心春の笑顔を、あえて冷徹な意志で塗りつぶそうと試みていた。




