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DEVIANT DETECTIVE  作者: 藤山理想


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3/16

3#Chance Crossroads

 翌日の昼下がり、探偵事務所『BlueMonday』には、新宿の喧騒(けんそう)が薄い壁を隔てて染み込んでいた。カーテンの隙間から差し込む陽光が、室内に舞う煙草の灰と埃を白く照らし出している。


 窓際の安楽椅子に深く腰掛け、手元にある昨晩受け取った写真を眺めていた。

 直射日光の下で見ると、男の顔はより鮮明に、そしてより一層無個性に見える。

 40歳前後、安物のグレースーツ。中肉中背のどこにでもいる社会の歯車に見える。そんな男が、人知れず人間を食い物にしているのだと思うと、溜息がこぼれた。

 吸いかけの『DEATH』を灰皿に押し付ける。灰皿の中には、昨晩から溜まった吸い殻が山を成していた。夜の闇とは異なり、昼間の容赦ない明るさが、汚れた灰皿を突き放すように見せつけている。

「タバコじゃ死なない体だが、片付けは別問題か」

 煙草の煙が昼の陽光に溶けて消えていく。煩わしげに眉をひそめ、灰で溢れた灰皿を視界から外すように軽く視線を逸らした。


 コン、コン、と乾いたノックの音が、事務所の静寂を破った。昼下がりの気だるい空気を切り裂くその音に、眉を寄せ、椅子の背から体を起こす。

「どうぞ」

 無機質で事務的な返事。デスクに散らばっていた昨晩のターゲット写真を無造作に伏せた。あまりに不釣り合いな来客を予感させないその声に、ドアの向こう側の気配がわずかに揺れる。

 開かれたドアから現れたのは、制服姿の女子高生だった。確か三つ隣の駅にある、私立聖女子学園のものだ。平日であるはずのこの時間、場違いな清涼感を纏った少女が、少し戸惑うように室内の雑多な風景に視線を巡らせている。


「座れ」

 短く促し、対面式のソファを顎で示した。少女は「失礼します」と行儀よく一礼し、丁寧に腰を下ろす。

 整えられた黒髪に、膝丈のスカート。流行りの着崩しは一切なく、一目で真面目な性格が伺える。ロキは灰皿の吸い殻から視線を上げ、その少女を観察した。

 彼女からは、今の街の喧騒とは隔絶された、ある種の静謐(せいひつ)さが漂っている。

「で、今日はどんな用件だ」

 事務的な問いかけに、少女は膝の上で固く握りしめた手を少し震わせた。その瞳には、隠しきれない不安と切実な願いが宿っている。


「……あの、お願いがあるんです」

 少女は顔を上げ、無愛想な探偵を真っ直ぐに見つめた。

「父が、倒れてしまって……。原因不明なんです。お医者様も首をかしげるばかりで、もう何日も、意識が戻らないままで」

 少女の声がわずかに(うる)む。

「ただの病気じゃないような気がするんです。ここに来れば、そういう……不可思議なことに詳しい方がいると聞いて」

 少女の口から語られる父の異変。

 原因不明の昏睡というなら、本来であれば病院に任せるか、あるいは警察へ相談すべき事案だ。にもかかわらず、この少女は新宿の路地裏にある、胡散臭い探偵事務所のドアを叩いた。その動機は、単なる「藁にもすがる思い」というだけでは説明がつかない。彼女は何かしら、現代の医学や科学では解明できない「異常」を、感じ取っているのかもしれない。


「名前は」

「……坂東、心春。坂東心春です」 

 静かにライターを取り出し、再び『DEATH』に火を灯した。紫煙の向こう側で、心春の怯えた瞳が自分を真っ直ぐに見つめ返している。

 デスクの引き出しから黒い名刺を取り出した。

 そこには『探偵事務所 BlueMonday』の文字と、連絡先が記されている。

「まずは名乗っておくか。俺はロキ。探偵業を営んでる」

 名刺を指先で滑らせ、心春の目の前に置いた。渡された名刺を両手で丁寧に受け取り、そこに刻まれた文字を不安げに見つめていた。


「で、金はあるのか」

 ぶっきらぼうにそう切り出した。普段の彼であれば、この手の「訳ありだが落神の匂いがしない」依頼は、適当な理屈をつけて門前払いするのが常だ。

 わざわざ手間をかける義理も、興味もない。

「十万……までなら、なんとか……できると思います」

 心春の答えは自信なさげで、語尾は今にも消え入りそうだった。その言い方からして、今すぐに手元にあるわけではないのだろう。バイト代の貯金か、あるいは生活費から無理をしようとしているのか。いずれにせよ、探偵の調査費用としては端金にも程がある。

 組んでいた指を解き、深く椅子の背に身を預けた。追い返すために喉まで出かかっていた言葉を、無言で飲み込む。

 紫煙の向こう側、必死に自分を見つめ返す少女の輪郭を鋭い眼光でなぞる。

 彼女が纏っているのは、先日の落神(おちがみ)の死体から吸い上げたような、あのどす黒く濁ったエネルギーではない。もっと澄んでいて、どこか神聖で、それでいて触れれば指先を火傷しそうなほどに濃密な『なにか』。

 レイラから漂う、あの神域の気配に近い。

 吸い殻を灰皿に押し付けた。少女の抱える事情が、単なる親の昏睡ではなく、彼女自身の存在そのものに起因しているのだとすれば――。

 この依頼を「調査」という枠組みで扱うべきかどうかの天秤が、わずかに傾き始めていた。


「……まずは、父親に会わせてくれ」

 そう告げると、少女の表情が劇的に変化した。依頼を受けてもらえたのだと理解したのだろう。ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべ、心春は椅子から勢いよく立ち上がると、深く丁寧にお辞儀をした。

「本当に、ありがとうございます! ……あ、あの、すぐにご案内します!」

 そのあどけなくも必死な姿に、小さく鼻で笑う。

「勘違いするな。調査の過程で必要だからだ。依頼を受けるとは一言も言ってない」

 事務的に釘を刺しつつ、ロキは『DEATH』を灰皿の山に押し付け、赤く熱い火種を完全に消し去った。灰混じりの煙が、静かな室内に溶けていく。

 探偵事務所を出ると、初夏の湿った熱気が二人を包み込んだ。ロキは心春の少し後ろを歩きながら、その背中を観察する。彼女の歩幅は小さく、しかし迷いなく父親の元へと続いていると感じさせられた。





 ガタン、ゴトンと規則的なリズムを刻む電車の中で、二人は並んで座席に腰を下ろしていた。車窓の外を流れる景色は、住宅街の影と初夏の陽光を交互に描き出している。

「母は、私が小学校に上がる前に……事故で亡くなったんです。交通事故で」

 心春は膝の上に置いた学生鞄をぎゅっと抱え、小さくそう切り出した。

 父親との二人暮らし。それまで言葉に詰まっていた彼女だったが、少しずつ、(せき)を切ったように語り始める。

 車窓の景色に視線を向けたまま、その横顔を眺めた。

「父は、男手ひとつで育ててくれて。先月、無事に高校へ入学できたばかりだったのに」

 心春の声は、窓の外を流れる風のような頼りなさで震えた。四月半ばから父親の容態がおかしくなり始め、病院を転々としても原因は不明。そして一週間前、布団の中で反応のない父親を発見したという。

 タバコの箱を指先で弄びながら、心中で整理をつけていく。四月半ば――。落神(おちがみ)が関与しているのなら、その引き金が何だったのか。

 心春の無自覚な『力』が、偶然にもその父親を何かに巻き込んだのではないか、と考えを巡らせる。

 彼女の口から語られる悲劇は、あまりにも静かで、そして重たかった。

「随分と、急な話だな」

 短く呟くと、心春は悲痛な面持ちで小さく頷いた。電車が次の駅へ向けて減速し、窓の外の景色がゆっくりと停止する。

 閉ざされた空間の中で、二人の間には重い沈黙が横たわった。ロキにとってそれは日常の一部だったが、少女にとっては、人生が崩れ落ちていく音そのものだったのかもしれない。





 電車を降りた二人は、駅の(ざわ)めきを背にして住宅街へと足を踏み入れた。

 歩きながら、心春の言葉に微かな違和感を覚えていた。

「入院させなかったのか? 原因不明で意識が戻らないなら、普通は重症扱いになるはずだ」

 その問いに、心春は歩調を緩め、困惑を隠せない様子で首を振った。

「それが……病院へ行っても、検査結果はすべて正常なんです。数値だけ見れば『健康そのもの』だとお医者様も首をかしげるばかりで。それどころか、点滴を打っても栄養や水分が体に吸収されていかないんです。まるで、口から何かを飲み込むことも、血管から取り入れることも拒絶しているみたいに……。それなのに衰弱もしていかないんです」

 言葉には、(いきどお)りよりも深い困惑と疲労が混じっていた。

「結局、入院しても何もできないと言われて……。長引く入院費のことを考えても、自宅で看病を続けるしかありませんでした」

 思わずポケットの煙草ケースに指をかけたが、住宅街の静かな空気を前にして、それを思いとどまった。灰皿を探す手間も、この繊細な少女を煙で追い詰める必要もない。

 話を整理していく度に自分の中で確信が強まる。それは医学の範疇を超えた、異常な停滞だ。落神(おちがみ)特有の、対象のエネルギーを少しずつ、まるで食事を楽しむかのように吸い上げる「捕食の予兆」か、あるいは、もっと別の何か。

 その何かがいる気配さえあれば充分だと噛み締め歩みを進ませる。

「なるほどな。医者が首をかしげる理由がよくわかった」

 短く応じて、心春の少し後を歩き続けた。

 見えてきたのは、決して新しくはないが、丁寧に手入れされた一軒家だった。

 空気が、初夏の湿り気を通り越して、どこかひやりとした異質な寒気を孕んでいるような錯覚を覚えた。

 心春の案内で玄関を上がると、家の中は静まり返っていた。掃除機が丁寧に入れられた床、磨かれた棚、整然と並べられた調度品。少女が、孤独な看病生活の中でどれほど必死に日常を繋ぎ止めようとしてきたのか、その空間が雄弁に物語っていた。

 ロキは靴を脱ぎ、静かにその後に続く。廊下の突き当たり、心春が遠慮がちにドアを開けた。

 部屋には、陽光が穏やかに差し込んでいた。ベッドではなく、床に敷かれた布団にその男は横たわっていた。

 心春は迷うことなく父親の傍らに歩み寄り、膝をついて座り込む。その所作には、いつかまた目覚めることを信じて疑わない、切実な愛情が滲んでいた。

 入り口から一歩も踏み込まず、その場に立ち観察した。顔色は普通だ。確かに見た目には寝てるようにしか見えなかった。

「お父さん……。お客さんを連れてきたよ」

 心春の呼びかけに、父親が応えることはなかった。ただ、カーテンを揺らした風が、心春の髪をふわりと持ち上げた。まるで、その寝息に呼応するように。

 ロキは音もなく歩み寄ると、眠る父親の頭側に腰を下ろした。伏せられた睫毛、規則的な呼吸――近くで見ても、医学的な異常や怪我の痕跡は一切見当たらない。

 ゆっくりと手を伸ばし、男の頬に触れた。肌は温かい。だが、指先を伝ってくる感覚は、ロキがこれまで数多の落神を狩る中で触れてきた「(よど)み」とは決定的に違っていた。そこには、獲物を貪るような殺意も、世界を腐らせるような邪悪な飢餓感も存在しない。


 ……拒絶しているんじゃない。

 これは――浸食か。


 一つの仮説が、ロキの中で確固たる答えへと昇華された。これは外から喰われているのではない。内側から、何か別の「理」に置換されようとしているのだ。レイラの持つ気配に似ていながら、どこか決定的に異なる、緩やかな同化。

 心春の不安げな瞳が、ロキの手元を凝視している。彼女はこの異常を理解していないが、本能で父親が遠ざかっていく恐怖を感じているのだろう。

「……少し、外で話せるか」

 手を離し、立ち上がった。父親に聞かれたくない内容があるわけではない。ただ、この静まり返った部屋の空気は、探偵としてのロキが「答え」を組み立てるには、あまりに心春の願いが強すぎて少し息苦しかった。

「はい……」

 心春は理由を尋ねることもなく、静かに頷いた。彼女にとっても、この重苦しい「寝息」の響く空間から、一度逃げ出したかったのかもしれない。二人はドアを閉め、再び廊下へと出た。

「悪いが少しだけ一人で外にいてくれないか」

 ロキの唐突な要求に、心春は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。しかし、ロキの瞳に宿る真剣な色を見て、それ以上を問うことはなかった。

「……わかりました。なにかあれば、声をかけてください」

 彼女はそう言うと、背筋を伸ばして静かに家を出て行った。玄関のドアが閉まる音が、家の中に重苦しい静寂を運んでくる。

 すぐに父親の寝室へ戻り、横たわる男の頭を両手で優しく掴んだ。心春が部屋から遠ざかったことで、先ほど肌から感じた「力」の残滓が、少しだが、明らかに弱まっている。

 心春という少女が纏う、あまりにも純粋で強力な「神聖さ」。それがどうやら、父親の身に起きている現象の触媒になっているらしい。

 彼女の持つ力が強すぎるゆえに、その過剰な聖域が周囲の摂理を歪め、結果として父親の存在をこの現世から浮き上がらせてしまっているのか。

 深く呼吸を整え、手のひらを伝う力の流れを読み取ろうと神経を集中させた。男の意識の核へ――。

 その時だった。

「――っ、やめて! 来ないで!」

 張り裂けんばかりの、心春の叫び声が外から響いた。明確な拒絶、そして恐怖。ロキが今まで聞いたことのない、心春の切迫した声だった。

 思考は一瞬で戦闘モードに切り替わる。彼は男の頭を離すと、廊下を蹴り、玄関へと弾丸のように飛び出した。

「おい!」

 玄関のドアを開け放ったその先、視界に飛び込んできたのは、無機質なグレーのスーツを纏った中年男が、心春の細い腕を力任せに引き寄せている光景だった。

 今朝から何度か写真で見ていた男だと気付くのに時間はかからなかった。心春は恐怖に顔を歪め、必死に抵抗してもがいている。

 ロキの殺気が一瞬にして爆発した。

 風を裂くような速さで間合いを詰め、男の首筋を容赦なく掴み上げる。そのままの勢いで、住宅の外壁に男の身体を叩きつけた。鈍い衝撃音が響き、レンガ調の壁は男の体を形取る用に跡が付くほどの衝撃が男を襲う。

「――がっ!」

 男が呻く間も与えず、右手で愛銃『レッドホーク』を引き抜き、大型リボルバーの口径を男の額のど真ん中に突きつけた。

「なぜこの子を狙う」

 銃口越しに圧をかけるロキの瞳は、氷のように冷めきっている。しかし、壁にめり込んだ状態で男は顔を上げると、気味の悪い笑みを浮かべた。ニタリ、と歪んだ口元からこぼれるのは、狂気そのものだ。

「……ああ、甘い。芳醇(ほうじゅん)だ。この娘から溢れる『神の寵愛』……たまらないな。俺の光だ。俺のための光なんだよ……!」

 男の瞳が怪しく(ただ)れた瞬間。

 凄まじい衝撃が腹部を襲った。壁を背にしていた男が、銃口を無視してありえない速度で拳を振り抜いたのだ。

「……!」

 数メートル吹き飛び、身体が路上に転がる。

 内臓がひしゃげるような痛み。並の人間なら即死級の一撃だが、即座に受け身を取り、膝を立てて姿勢を立て直した。

 男は服の埃を払いながら、心春ではなく、獲物を見つけた獣のような目でロキを見据えている。身体からは、先ほどまで彼女から発せられていたものとは全く正反対の、どす黒く粘りつくような異質な気配が立ち上り始めた。

 男の視線がロキから離れ、背後で震える心春へと向けられる。獲物を品定めするかのような、卑俗で粘りつくような眼差し。

 心春が悲鳴を呑み込み、恐怖に突き動かされるようにして後ずさった。

 歪んだ笑みを深め、地面を蹴って跳躍した。心春に肉薄するその瞬間。

 ――乾いた銃声が、住宅街の静寂を切り裂いた。

 放った『レッドホーク』の弾丸が、男の脳天を正確に撃ち抜く。衝撃で男の頭部が大きくのけぞり、空中で動きが止まる。だが、男の放つ異質なエネルギーは霧散せず、むしろ禍々しい咆哮を上げようとしていた。

 まだ終わっていない。

 思考よりも速く、二発目の引き金を引いた。

 轟音とともに男の頭蓋が砕け、飛び散った肉片と灰色の霧が路面に降り注ぐ。

 しかし、男の四肢は未だに不自然な痙攣を続け、心春へ向かって這い寄ろうとしていた。その執念を見た瞬間、迷わず三発目の弾丸を放つ。

 撃ち込まれた弾丸は、男の頭部を完全に吹き飛ばし、跡形もなく木っ端微塵に粉砕した。


 静寂が戻る。

 立ち込める火薬の匂いと、路面に散らばる残骸。心春はあまりの光景に声を失い、へなへなと地面に座り込んでいた。

 銃口から立ち昇る煙を冷ややかに見下ろしながら、心春の様子を窺う。

「死んだか」

 ようやく男の纏っていた、粘りつくような邪悪な気配が消え失せ、風が吹き抜けた。レッドホークを懐へ戻すと、荒い息をつく心春のもとへ歩み寄った。

「……どうして、そんな……殺してしまったんですか……!」

 心春の声は震え、恐怖よりも先に、目の前で起きたあまりに凄惨な出来事に対する動揺が溢れ出していた。彼女にとって、それは「人」の形をしていたものだったからだ。

 返り血を拭うこともせず、冷めた瞳で事切れた残骸(ざんがい)を見下ろした。

「あれは人間じゃない」

 言い捨てたその時、男の肉塊が残る場所から、ぼうっと柔らかな光が漏れ出した。それは静謐で透明な輝きを放つ球体だった。

 光はゆっくりと宙に浮き上がると、ロキの胸へと吸い込まれるように導かれていく。

 光がロキの体内に融け込んだのと同じタイミング、路面に散らばっていた男の肉片、飛び散った血、そして粉砕された頭蓋の欠片に至るまでが、魔法のようにサラサラと音を立てて灰へと変貌した。

 まるで男がそこに存在していたことそのものを、世界が拒絶するように。

 灰は微風に舞い上がり、跡形もなく空の彼方へと消えていく。

「……っ……」

 心春は目を見開き、信じられないものを見る目で立ち尽くしていた。今しがたまで人がそこにいた事実は、文字通り灰と化したことに驚きを隠せなかった。

 自身の体内で、吸収した「光」が渇きを癒していく感覚を確かめた。


「……さて」

 乱れた服を整えると、呆然とする少女に向き直った。その目は、先ほどまでの冷徹な戦士の顔から、再び薄汚れた探偵のそれへと戻っている。

「さっきの連中のことは、あとで説明してやる。今はとりあえず落ち着け」

 地面にへたり込んだままの心春を見下ろす。

「それよりも、だ。父親が助かるんなら、何でもする覚悟はあるか」

 その問いかけは、探偵としての依頼確認というよりも、契約に近い重みがあった。

 心春は震える体を奮い立たせ、床に手をついて顔を上げる。その瞳からは先ほどの恐怖が消え、父親を思う切実な意志が宿っていた。

「……はい。何でもします。父が助かるなら、私は何だってします」

 迷いのない、強い返事だった。その覚悟を見届けると、懐から無造作にペンを取り出し、心春の鞄から取り出させたメモ帳に何かを書き殴るよう促した。

「なら、書け。『目が覚めたらすぐに連絡してください』と。あと、間違いなくお前に連絡が取れる番号を書き添えろ」

 心春にはなぜ、わざわざそんなメモを残す必要があるのか理解できなかった。眠っている父親がそれを読むわけでもない。だが、ロキの真剣な眼差しに気圧され、彼女は震える手でペンを走らせる。

 ――『目が覚めたら連絡してください』

 自分の電話番号とともに記されたそのメモを見て、心春は不安を飲み込んだ。そのメモを受け取ると、無造作に自分のポケットへと放り込んだ。

「よし。じゃあ、ちょっと待ってろ。なにかあればまた叫べ」

 ロキは再び家屋へと歩き出す。心春は言われた通りにメモを書き終えたが、それが何を意味するのか理解出来ておらず、まだ霧の中を歩くような心地で、彼の背中を目で追いかけた。


 家に戻り、再び父親が眠る部屋へ足を踏み入れた。心春から預かったあのメモを、静かに男の枕元に置く。

 男の頭を両手でしっかりと掴んだ。

 心春という源泉そのものは、あまりに純粋で、神聖、そしてエネルギーの塊に近い存在。そんな強すぎるエネルギーの近くで生活していて、いくら神聖なものとはいえ、異常をきたしてしまった。強いていえば神聖なエネルギー過多に陥っている状態と言えた。

 手のひらに意識を極限まで集中させる。男の体内に澱む、過剰で不自然な「理」を、自らの内なる飢えで吸い出すように。

 手のひらにじわりと熱が伝わってくる。微かだが、確実に男から何かがロキへと流れ込んでいる。男の呼吸が、ほんのわずかに軽くなった気がした。

 だが、限界はすぐそこにあった。やはり落神のエネルギーと違い、単純に吸い取ることが出来ない。

「……これが限界か」

 深い溜息とともに、男の頭から手を放す。劇的な目覚めとはいかないまでも、この重苦しい停滞が少しでも解け、彼が自力で「戻る」ための余白ができればいい。応急処置としては、これが今できる最善だった。


 部屋を出て家の外へ出ると、心春は家の壁を背に預けて待っていた。ロキの姿を認めると、彼女はすがるような瞳でこちらを見上げる。彼女の不安げな表情を一瞥し、歩き出しながら短く告げた。

「行くぞ。着いてこい」

 有無を言わせぬ響きを込めたその言葉に、心春は小さく頷くと、何も言わずにロキの背中を追った。昼下がりの住宅街、雑多な音が賑やかな音色を奏でる中アスファルトを叩く二人の足音が混ざる。

「さっきの男は通称『落神(おちがみ)』だ。人間じゃない。元は神だったものが、成れの果てに堕ちた化け物だ」

 ロキの声は淡々としていた。心春が背後で息を呑む気配がする。ロキは彼女を振り返ることなく、歩調を緩めずに続けた。

「奴らは己の欲望のために人間を害する。だが、もう大丈夫だ。今は消し飛んだ。……安心しろ」

 ロキの言葉は感情を排した無骨なものだったが、それは彼なりの、この少女に対する今の精一杯の言葉だった。

 昼下がりの日差しが、住宅街の路面に白く照り返している。

「どうして……どうして、私なんかが襲われたんですか」

 心春の声が、昼間の喧騒の合間に小さく響く。ロキは立ち止まることなく、陽炎が揺れる前方の景色に目を向けたまま短く答えた。

 この少女に全てを話していいのか少し考え、考察していた結果を纏めた現実を伝えた。

「お前には何か不思議な力が宿っている。自覚はないだろうが、その純粋で強すぎる力が、近辺に澱む落神を餌のように引き寄せているんだろう」

 ロキは彼女を振り返ることなく、淡々と言葉を重ねる。

「お前の父親を苦しめていたのも、その力だ。お前の周囲に溢れる過剰なエネルギーを、親父さんが浴び続けて耐えきれなくなった。いわば、お前の存在そのものが、お前の父親にとっては毒にも薬にもなっていたということだ」

 突き放すようなロキの声音に、心春は歩みを止めた。自分の掌を呆然と見つめるその瞳には、驚きと、自分自身への拭いきれない恐怖が渦巻いている。何気ない日常のすぐ隣に、そんな残酷な真実があったという事実に、彼女の表情は引き攣り、言葉を失って震えていた。





 電車の中、二人の間に交わされる言葉はなかった。心春は窓の外を流れる見慣れた街並みをぼんやりと見つめながら、膝の上で固く握りしめた拳を震わせている。その横顔には、さきほど突きつけられた過酷な真実が重く影を落としていた。

 新宿の雑居ビルにある探偵事務所『BlueMonday』に到着すると、ロキは無造作に扉を開け、心春を部屋の中央にあるソファへと促した。

「座れ」

 短く告げて自らも対面のソファに腰を下ろすと、ポケットから取り出したタバコに火をつけた。カチリと鳴るライターの音と、小さく上がる紫煙だけが、古びた事務所の静寂を塗り替えていく。

 深く煙を吸い込み、吐き出すまでの間、心春の様子を冷めた眼差しで観察していた。彼女の瞳には依然として混乱と不安が渦巻いており、その細い肩がかすかに上下している。


 紫煙を細く吐き出し、デスクに伏せられていた1枚の写真に目を落としたまま口を開いた。

「言ったはずだ。お前という存在が、親父さんを(むしば)んでいる。そしてそれはお前が側にいる限り、回復することはないという事だ」

 心春は椅子に深く沈み込み、力なく「……はい」とだけ呟いた。ロキはその声を拾うと、再びタバコを指で挟み直して付け加える。

「お前さえ離れれば、自然とあの過剰な『力』の残り香は薄れ、親父さんは元に戻る。……さっき、枕元にメモを置いてきただろ。回復の兆候があれば、必ず連絡を寄越すはずだ」

 ロキは煙の向こう側から、心春の表情を射抜くように見つめた。彼は無造作に灰を落とし、逃げ場のない問いを投げかける。

「だから、お前は当分ここに住め。……親父のためになら、何でもできるんだろ?」

 (くゆ)るタバコの匂いが事務所内に澱み、二人の沈黙を際立たせた。ロキの眼差しには、少女の覚悟を試すような冷徹な色が混じっていた。

 心春は俯いたまま、絞り出すように口を開いた。

「……私、ここにお金を払う余裕なんてありません。そんな……」

 ロキは彼女の言葉を遮るように、鼻で笑った。

「そんなもんはいらん」

 突き放すような言葉に、心春は顔を上げた。戸惑いながらもしばらくの沈黙の後、彼女はゆっくりと椅子から立ち上がり、ロキに向かって深く頭を下げた。

「……分かりました。よろしくお願いします」

 返事の代わりに無言で一度だけ小さく頷くと、心春に背を向けた。デスクに向き直り、紫煙の向こうで口元を歪める。喉の奥に広がる『DEATH』の味を、ロキは深く堪能した。


 とんだ拾い物をした――。


 口角が静かに吊り上がる。心春には見えない位置で、ロキは不敵な笑みを浮かべた。

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