15#Ambition Abyss
カウンターに並ぶボトルの向こう側、鏡に映る自分の顔はいつになく険しい。レイラは手元のグラスを回し、琥珀色の液体に自身の苛立ちを溶かそうと試みたが、喉を通るバーボンは熱いだけで、心に巣食う冷えを癒やすには至らなかった。
『gimlet』の店内は、いつも通り重苦しい湿気を孕んでいる。だが、その質は以前とは決定的に異なっていた。
ロキという巨大な支柱を失った今、この店はまるで、空気を吸い出された真空のような脆さを湛えている。
公安内部でのロキの存在感は圧倒的だった。関東支部にとっては「守り神」そのもの。
彼が前線にいるというだけで、関東の落神の数は制御出来ないレベルで増えるということはなかった。しかし、その「矛」が消えた今、関東での落神存在数は増えていくことが目に見えている。
そして近畿支部の連中が、この喪失を嗅ぎつけないはずがない。ロキの死を「好機」と捉え、利権や縄張りの再編を求めて、裏で蠢いている影がレイラの脳裏をよぎる。
ロキがいれば一蹴できたはずの連中の傲慢な物言いが、既に支部へ届く通達の行間に滲んでいるのが透けて見えるようだった。
「……溜息も出ねぇな」
レイラの隣で、シンヤが低く呟いた。普段は奔放な彼も、今日ばかりは空気が読めないふりはできないらしい。酒を飲むその背中から、言葉にできない喪失感が漂っている。
店内にカラン、と氷が鳴る音が響く。
まもなく、JINがやってくるはずだ。ロキの死という重大な「事故」の処理、あるいは関東支部の存続に関する冷徹な会議。
いつもなら「落神討伐」のための召集だが、今夜ばかりは血の匂いではなく、政治と策略の臭いが濃い。
レイラはもう一度、グラスを口に運んだ。
ちっとも酔えない。心の中に空いた穴が、酒を飲めば飲むほど、その輪郭をはっきりとさせるだけだった。
「……シンヤ」
レイラはシンヤに声をかけようとして、言葉を止めた。何を言ったところで、ロキが戻ってくるわけではない。今の自分たちにできることは、あいつがいなくなったこの支部の均衡を、たとえ不格好でも守り抜くことだけだ。
カウンターの奥のドアが重たい音を立てて鳴った。JINが現れる。
「待たせたな」
JINの短い言葉とともに、gimletの重い扉が閉まる。いつものように淡々とした足取りだが、今日はその背筋にどこか重いものが乗っているように見えた。
JINが常連用のボトルに手を伸ばす。手慣れた仕草でグラスに琥珀色の液体を注ぐと、氷を一つ放り込んだ。JINがこの場所で酒を口にするなど、ほとんど記憶になかった。
「珍しいわね。JINがお酒を飲むなんて」
思わず口にすると、JINはグラスを軽く揺らし、静かに視線を落とした。
「ロキへの手向けだ。呑まんわけにはいかんだろ」
グラスの縁に唇を寄せる。一口、ゆっくりと喉を通すその動作は、まるで儀式のように厳かだった。
言葉を失い、手元のグラスを見つめた。自分たちよりも遥かに長く、誰よりも深くロキという男の生き様を知っているのがJINだ。共に潜り抜けた修羅場も少なくはないだろう。互いの死線を何度も越えてきた二人の間には、言葉にできない歴史があるはずだ。
JINが今のこの酒に、どれほどの言葉を込めているのか想像もつかなかった。ただ、グラスを置くその所作のわずかな震えが、JINという男の鋼のような精神の奥底にある亀裂を物語っているように思えた。
JINの言葉が、店内の淀んだ空気に波紋を広げた。
「心春の話をしようか」
静かな宣告だった。その響きには、決定事項としての重みが宿っている。
「ロキの忘れ形見か……」
シンヤは苦いビールを喉の奥へ流し込み、カウンターに置いたグラスを指先で弄んだ。
その横顔には、仲間を失った悲しみと、残された少女に対する複雑な感情が入り混じっている。
「あの子は、公安ZERO課関東支部に入れる」
JINが淡々と言い放ったその瞬間、レイラは身体を硬くした。彼女の中で、ロキを失った悲しみよりも速く、少女を守るための盾が立ち上がる。
「ダメ」
レイラの声は低く、しかしこれ以上ないほど強く店内に響いた。
「あの子には、普通の生活を送る権利があるの。これ以上、この血の匂いがする世界に縛り付けないで」
カウンター越しに、レイラはJINを真っ直ぐに見据えた。
いつもなら上司であるJINに対してある程度の敬意を払う彼女だが、今は一歩も引く気はない。ロキが命を懸けて守り抜いた最後のもの。それを再び戦場へ引きずり出すことだけは、レイラにとって絶対に許しがたいことだった。
店内の空気が凍りつく。JINはグラスを指でなぞったまま、その熱のこもったレイラの拒絶を、表情一つ変えずに受け止めていた。
JINは沈黙を守ったまま、残りのウイスキーを喉の奥へ流し込んだ。空になったグラスをカウンターに置き、無機質な瞳でレイラを見据える。何を考えているのか、その内面を推し量ることは誰にもできない。
レイラもまた、己の決意を曲げるつもりはなかった。ここで引けば、心春の平穏な未来が永遠に失われることを本能が理解している。
二人の間に、張り詰めた緊張感が糸のように伸びる。
「あの子は監視対象だ」
JINの口から出た言葉は、冷徹な現実そのものだった。
「ロキの庇護が無ければ、他の支部が放っておくはずがない。あの娘が持つ落神を惹き寄せる力は、どの支部にとっても喉から手が出るほどの価値がある。我々が保護しなければ、いずれ力ずくで奪いに来るぞ」
その指摘に対し、レイラは反論できなかった。胸の奥に鉛のような重苦しさが広がる。
ロキが命を懸けて守り抜いた心春の価値は、皮肉にも彼女を最も危険な場所に留める理由になっていた。
たとえ心春自身が望まなくても、その特異な体質は周囲が黙っていない。彼女の日常は、誰かの管理下に置かれなければ、すぐに食い荒らされてしまう。
悔しさがこみ上げる。ロキが一番守りたかったのは、彼女の穏やかな日常だったはずなのに。
レイラは唇を噛み締め、震える拳をカウンターに押し付けた。
「……わかってる。わかってるけど……!」
レイラは大きく息を吸い込み、決死の覚悟でJINを直視した。
「ロキに代わって、私が管理する。心春ちゃんを守るための保護なら、私が誰よりも近くで引き受ける。あの子をただの道具にはさせない。それだけは、私が責任を持つわ」
その言葉には、かつてロキが背負っていたものとは別の、レイラなりの強い意志が宿っていた。シンヤもまた、無言のままグラスを置き、二人を見つめている。JINの瞳が、一瞬だけ微かに揺れたように見えた。
JINがわずかに頷いたことで、店内に立ち込めていた張り詰めた空気が一瞬だけ緩んだ。
「心春の件はレイラ。お前に任せる」
その一言に、レイラは肩の力を抜いた。JINの瞳の奥にある真意までは測りかねる。彼がただ心春の安全を慮ったのか、あるいはレイラが何と言おうと、どうとでもできると思っているのだろうか。
それでも、レイラにとって「心春を守る権利」を勝ち取ったことは、一人の女の子の人生を守れる権利を得たことに他ならない。
「……任せて」
レイラが静かに誓うと、JINはさらに冷徹な事実を切り出した。
「ロキがいなくなった穴はでかい。それは支部としても致命的な損失だ」
JINの視線が、レイラとシンヤを交互に射抜く。それは、これからの二人に対する過酷な未来の宣告だった。
「人員補充についてはこちらでも動いている。お前らと同クラスの戦力を確保するべく根回しはしているが、すぐには埋まらない。当面の間、お前たちの仕事量は必然的に増えることになる。……覚悟しておけ」
ロキという最強の「盾」を失った今、関東支部は常に不安定な均衡の上に立たされている。その支柱を支えるのは、必然的に残された者たちの過重な負荷だった。
シンヤがふっと自嘲気味に笑い、空のビールジョッキを軽く鳴らした。
「増えるのは仕事だけならまだマシだな。俺たちの首がリアルに飛ぶか、関東支部が丸ごと無くなるか。どっちが早いかの勝負だろ?」
シンヤの言葉に、店内の湿った空気が再び重みを増す。レイラは深く頷き、改めてグラスを握り直した。
もはや、以前のような日常には戻れない空気感がそこまできていた。けれど、今は戦うことこそが、前の日常を取り戻す最善だと認識する。
「……上等よ。仕事もやる。あいつが遺したものも守る。」
レイラはバーボンの残りを一気に飲み干した。JINは無言でそれを見つめ、自身のグラスを重ねるように置いた。冷徹な会議の終わりと共に、彼らはそれぞれのやり方で、ロキなき後の戦場へと歩み出す準備を整えていた。
gimletの重い扉を背にすると、真冬の鋭い冷気が容赦なくレイラの頬を刺した。彼女は身震いし、襟元を正して薄手のコートを深く羽織り直す。
見上げれば、22時を過ぎてもなお、眠ることのない新宿の街がギラついたネオンを空に投げかけていた。その明るさが、今のレイラにはひどく無機質で、冷たく感じられた。
表通りの喧騒から離れ、彼女はあえて路地裏の影へと足を踏み入れた。ロキが好んだ、この薄暗く湿った場所の空気が、今は何よりも自分に馴染む気がした。
路地を抜ける足音は単調で、心の中を去来する思考だけが忙しなく回転していた。
先ほどJINが突きつけた現実は、あまりにも重い。ロキという存在を失った今、心春を守るという約束は、そのまま自身の首を絞めることと同義かもしれない。レイラは歩きながら、頭の中で情報の整理を始めた。
討伐対象である落神の増加。
ロキの死を嗅ぎつけた近畿支部の露骨な介入。
そして、未だ所在の知れぬ標の動向。
どれもが、明日にも崩壊しかねない危ういパズルピースだった。教科書通りの計画など、この先では何一つとして役に立たないだろう。むしろ、緻密に練った計画ほど、不測の事態の前では脆く崩れ去る。
自身の思考を柔軟に切り替えた。先を予測して頭を抱えるよりも、どんな嵐が吹き荒れようとも、その風に合わせて姿を変えられるだけのしなやかさが必要だと。
目的地である探偵事務所『BlueMonday』のビルが見えてくる。
そこは、主を待つことのない空虚な場所へと変わってしまっているはずだ。
それでも、レイラはビルの前に立つ。心春の管理責任者として、この場所から全てが始まるのだと、自らの覚悟を確かめるように。
彼女は深く息を吐き出し、凍てつく夜気に白い吐息を溶かした。震えが止まらないのは、寒さのせいだけではないと、自分自身で理解していた。
ビルを見上げると、三階の窓から漏れる明かりが夜の闇に浮かんでいた。
ロキがこのビルを丸ごと買い取り、三階を私設の射撃場に改造していたことを思い出す。徹底した防音設備のおかげで、街の喧騒は遮断され、そこだけが別世界のように静まり返っていたことを思い出す。
レイラは階段を静かに上った。三階の扉の前で一度ノックをするが、返事はない。鍵はかかっておらず、ドアノブは拍子抜けするほど軽く回った。
静かにドアを開け、その光景を目の当たりにし、レイラは足をとめた。
広い射撃場の中央に、心春が立っていた。手にはグロックが握られている。
心春は一点を見つめ、微動だにせず、射撃の構えを維持していた。その姿には、先日の悲痛な叫びを上げていた少女の面影は薄く、どこか冷徹な気配さえ漂っている。
「心春ちゃん……」
レイラは声をかけたが、防音壁に守られたこの空間では、わずかな戸惑い混じりの呼びかけなど届くはずもなかった。射撃に集中する彼女の背中は、ひどく頑なに見える。
音を立てぬよう中に入り内からドアを閉め、その場に立ち尽くした。
心春の視線の先には、標的がある。銃を構えるその指先は震えていない。
あの子は今、何を見つめているのか。レイラはその姿を見つめながら、これから自分が守らなければならない少女の、底知れぬ深淵を垣間見た気がした。
乾いた銃声が三度、射撃場に響き渡った。防音壁がその音を吸収し、すぐにまた静寂が戻ってくる。
レイラは目を凝らした。距離の離れた標的。紙の的が揺れることもなく、そこには新しい穴が開いたようには見えなかった。
外したのかと一瞬考えたが、すぐにその考えを打ち消した。心春の構えは完璧に研ぎ澄まされていたからだ。
さらに一歩、二歩と距離を詰め、ターゲットに視線を集中させたとき、背筋に冷たい電流が走った。
標的の中央には、既にロキの訓練の跡であろう無数の黒ずんだ穴が密集している。心春が撃ち抜いた三発の弾丸は、その、元々開いていたど真ん中の穴を完璧な精度で通り抜けていた。
銃口の僅かな揺れも許さない精神力。訓練だけでは成し得ない離れ業だった。
心春はまだ銃を構えたままだ。その横顔には、年相応のあどけなさは微塵もなく、ただ静かに、何かを突き抜けた先にある冷たい感情だけが宿っている。
ロキが出会い、過酷な訓練で磨き上げた少女。その技術の端々に、あいつが残したものが確実に受け継がれていることをレイラは理解した。
銃口が静かに下ろされ、射撃場に再び静寂が戻る。心春が小さく一息ついたその瞬間を見計らい、レイラは穏やかな声で名前を呼んだ。
「心春ちゃん」
不意を突かれた心春は、肩を大きく跳ねさせ驚きの表情を浮かべた。レイラの方を振り返り、彼女の姿を認めると、その表情にはふわりと安堵の笑みが浮かぶ。
流れるような無駄のない動作で愛銃のグロックをホルスターに収めると、心春はそのまま駆け寄ってきた。
あの日、神戸岩で見せた、今にも風に消えてしまいそうな危うい脆さはそこにはなかった。レイラは心から安堵し、胸を撫で下ろす。この少女は、自らの足でしっかりと立ち上がろうとしている。
「女の子は早く寝ないとダメなのよ?」
レイラは心春に歩み寄りながら、努めて明るい口調で諭すように言った。
心春は少しバツが悪そうに頬をかき、照れたように小さく笑う。その笑顔に、ようやく十六歳らしいあどけなさが宿っているのを見て、レイラは目尻を下げた。
「こんな時間にどうしたんですか?」
心春が上目遣いでそう尋ねてきた。その瞳には、純粋な喜びと、どこか心細さを隠しきれない揺らぎが同居している。レイラは心春の頭にそっと手を置き、軽く撫でた。
「ちょっとね、呑んできた帰りなの。心春ちゃんに会いたくなっちゃって」
レイラはわざとおどけてみせ、柔らかな笑みを浮かべた。嘘ではない。一人で重苦しい決断を背負い、誰かの温もりを求めていたのは、レイラ自身の方だったのかもしれない。
「……レイラさんは、優しいんだから」
心春はそう呟いて、ふいと視線を下に落とした。小さな声だったが、射撃場の静寂の中では鮮明に響いた。彼女の控えめな言葉には、感謝以上に、今の自分を支えてくれている存在に対する深い信頼が込められているように感じた。
しかし、その穏やかな空気を切り裂くように、心春は唐突に口を開いた。
「私、公安に入りたいです」
言葉を発した瞬間、レイラの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。反射的に、喉の奥から否定の言葉がこぼれ落ちる。
「ダメよ」
答えは、即座に、そして冷たく響いた。先ほどJINとの対話で抱いた覚悟とは裏腹に、心春が戦場へと向かおうとするその意志を、本能が全力で拒絶していた。
心春は何も言い返さず、レイラから視線を逸らした。じっと床のコンクリートを見つめ、黙り込んでしまう。
彼女の沈黙は、かつてロキが同じように自分の考えを押し殺していた時の気配に似ていると思った。
「ですよね……」
心春はそう小さく呟くと、レイラを見上げた。その顔には無理やり作ったような笑顔が浮かんでいたが、その奥にある悲しげな色は隠しきれていなかった。
レイラが続く言葉を模索し、沈黙が場を支配する。その重みに耐えかねたように、心春は言葉を繋いだ。
「わかりました。でも、私には落神を惹きつける力があるから……だから、銃の練習を続けることは許してくれませんか?」
心春からの譲歩だった。レイラは内心で大きく溜息をついた。心春の言うことは、紛れもなく事実だ。レイラがどれほど望んでも、二十四時間常に彼女の傍らに寄り添うことはできない。
自分が力で押さえつければ押さえつけるほど、彼女を無防備な状態に晒すことになる。レイラは一呼吸置き、努めて冷静に思考を巡らせてから口を開いた。
「そうね……わかった。練習は続けていいわ。でも、その代わりしっかり学校に行くこと。いいわね?」
「……はい! ありがとう、レイラさん!」
心春はぱっと表情を明るくし、レイラに駆け寄ると強く抱きついた。
小さな身体から伝わる体温が、レイラの胸をわずかに締め付ける。
「今日はもう寝なさい。明日も早いんでしょ」
レイラは心春の柔らかな髪を優しく撫で、そう諭した。心春は「そうする」と素直に頷き、レイラと共に射撃場の重い扉へと向かう。
公安への入隊という最悪の選択を防げたことに、レイラは肩の荷が下りるような安堵を覚えていた。
しかし、二人が射撃場を去るその瞬間、レイラの背後にいた心春の表情をレイラは見ることができなかった。
心春の瞳の奥で揺らめく、漆黒の炎。ロキの意志を継ぎ、自らの宿命と対峙しようとする少女の決意は、少しも消えてはいなかった。彼女はただ、レイラが守ろうとする平穏の裏側で、静かに決意という牙を研いでいた。




