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DEVIANT DETECTIVE  作者: 藤山理想


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14/16

14#Flying Flash

 神戸岩。東京の端にある大自然が造り出した圧倒的なスケールを誇る峡谷だ。

 二人は行ったことも無い場所だったが、迷いながらもなんとか近くまできていた。


 途中バイクでは行けないと判断し、ツインマグナを路肩に乗り捨て、二人は深い山道の奥へと足を踏み入れていた。

 舗装された道はとっくに途絶え、荒れた獣道が冷え切った冬の空気の中へと続いている。心春のスマートフォンの画面が、神戸岩への道筋を無機質に示していた。


 二人の心の内側とは真逆で、昼なのに雲のせいで周りは少し薄暗く感じる。

「……なんでこんな場所にしたんだろうね」

 心春が零した問いに、深い意味はなかった。ただロキと話したくて言葉をこぼしただけだった。

 ロキは手にしたデザートイーグルの安全装置を指先で確認しながら、短く息を吐き出す。

「あいつが個人的に気に入ってる場所なんじゃないか? 趣味の悪い神の考えることはわからん」

 適当な返答に、心春は小さく笑った。歩きながら、ふと出会った当初のことを思い返す。

 あの頃のロキは、心春をただ「落神を引き寄せる餌」としてしか見ていなかった。けれど、今の彼は隣を歩く一人の戦士として、対等な目線で接してくれている。

「やっぱり変わりましたよね、ロキさん」

 心春がふと口にすると、ロキは歩調を緩めることなく横顔を向けた。

「どこらへんがだ?」

「なんか……対等に扱ってくれてるような気がします!」

 心春の言葉に、ロキは呆れたように肩をすくめ、小さく笑った。

「気のせいだ。お前が少しはマシな動きをするようになっただけだろう」

「もー、素直じゃないんだから」

 心春はそう言い返しながら、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 ――最近、ロキさんの笑顔が増えたこと。

 その優しさが、今の自分にとって何よりの支えになっていること。

 もしそう伝えたら、ロキは照れくさそうに仏頂面へ戻ってしまうかもしれない。それは今の二人には必要ないことだと感じて、心春は胸の内にその想いをしまい込んだ。


 二人の足音が、乾いた落ち葉を鳴らしていく。神戸岩が近づくにつれ、周囲の気配が変わっていくのを感じる。かつては復讐という一色の炎で生きていた男が、今は隣にいる自分という存在を確かに意識してくれている。その事実だけで、心春の足取りは恐怖とは無縁の、確かな決意に満ちていた。


「そういえばロキさん、ずっと気になってたんですけど……」

 心春は足元の石ころを蹴りながら、ふと浮かんだ素朴な疑問を口にした。

「ロキさんって、なんでデザートイーグルとリボルバーのレッドホーク、あんなに違うタイプの銃を使い分けてるんですか?」

 殺伐とした山道を進む二人だが、その間の空気は驚くほど凪いでいた。死地へと向かう恐怖や緊迫感よりも、こうして隣を歩き、他愛のない話ができる時間を惜しむような穏やかさがそこにはあった。

「そういえば、話したことなかったな」

 ロキは遠くの梢を見上げながら、淡々とした口調で語り出した。

「昔は、デザートイーグル一丁だけだったんだ」

 確かに、これまでの戦いでもロキの手にはよく重厚なデザートイーグルが握られていた。

 心春はその硬質な質感を思い出し、深く頷く。

「ロキさんといえば、デザートイーグルをよく使ってるイメージですよね」

「レッドホークの方は、元々は俺の物じゃない」

 ロキは歩調を緩めず、淡々と続ける。心春は少し驚いて横顔を見た。

「えっ……じゃあ、誰かの譲り受けたものなんですか? 公安ZERO課の人とか……?」

「……そうだな」

 ロキは短く肯定すると、ふっと口元を緩めた。その表情には、懐かしむような、あるいは少し苦いような、複雑な色が混じっていた。

「昔、カウボーイハットを被って、全身カウボーイスタイルで戦う変な女がいてな。いつだって、とんでもない早撃ちをする奴だった」

「カウボーイスタイル……」

 心春は少し首を傾げた。戦闘のスタイルとして、随分と個性的だ。変な人なのかな、と心春が内心で毒づいたその瞬間、脳裏にアロハシャツで雪道を歩くシンヤの姿が過った。

 ああ、そうか。公安ZERO課って、そもそもそういう場所なのかもしれない、と無理矢理脳内で纏めた。

 シンヤにレイラ、そしてこのロキ。一癖も二癖もある猛者たちが集う場所ならば、カウボーイスタイルの女性がいても不思議ではない――というより、それが「普通」なのかもしれないと、心春は妙な納得感を覚えた。

「その人から、預かったんですか?」

「……ああ。色々なことがあってな。今となっては、俺の相棒の一部だ」

 ロキはそう言って、腰のホルスターに収まったレッドホークを軽く叩いた。

 それは単なる武器という以上に、ロキが150年の月日の中で失ってきた、あるいは受け継いできた「誰かの生きた証」のようにも見えた。心春は、その銃に込められた重みを想像し、黙って隣を歩き続けた。

「……JINの奥さんだった人だ」

 ロキがポツリと、しかしはっきりと付け加えた。

「だった」という過去形の響きに、心春は胸の奥を突かれたような感覚を覚えた。今はもう、その人はこの世にいないのだろう。死別か、あるいはそれ以上の過酷な結末か。これ以上踏み込むのは無粋だと察した心春は、ただ静かに言葉を飲み込んだ。

 ロキは懐から『DEATH』を取り出し、火をつけた。立ち上る白い煙が、冷たい冬の空気の中に吸い込まれていく。

「俺にとって、このレッドホークはお守りみたいなもんだな」

「お守り……ですか?」

 心春の問いかけに、ロキは軽く肩をすくめた。

「ああ。やばい状況の時に限って、なぜかこの銃に助けられることが多くてな。運がいいのか、元の持ち主の執念か。なんとなくだが、そう感じてる」

 ロキは腰のホルスターを、愛おしむようにトン、と軽く叩いた。その仕草に、彼がこの銃にどれほどの信頼を寄せているのかが伝わってくる。

「だから今日も、ちゃんと持ってきてる」

「なら、さらに安心ですね」

 心春は心からの笑みを浮かべてそう答えた。

 ロキはふっと目を細め、紫煙をゆったりと吐き出しながら笑った。

「そうだな」

 その笑顔に、どこか肩の荷が下りたような軽やかさを見て、心春もまた歩幅を少し広げた。


 標という怪物が待ち受ける神戸岩まで、あとわずか。


「結局、クリスマスパーティーはできなかったね……」

 心春は吐き出した息を白く染めながら、少しだけ残念そうに呟いた。本来ならば街中が光の装飾に彩られ、温かな喧騒に包まれるはずだった季節。

「この一ヶ月、心春の訓練ばっかりだったからな。……そんなにいいもんなのか、そのクリスマスパーティーとやらは」

 素朴な問いかけに、心春は吹き出した。

「もう、ロキさんったら! 一度やったらヤミツキですよ。ケーキを食べたり、プレゼントを交換したり……そういう積み重ねが、次もまた頑張ろうって思わせてくれるんです」

「ただ飯食って騒いでるだけじゃないか」

 ロキは呆れたように笑ったが、その瞳にはどこか楽しげな色が宿っている。

 前方の木々の隙間から、神戸岩の重々しい影がぼんやりと浮かび上がってきた。標が指定した、終着点だ。

 燻らせていたタバコを指先で弾き、後ろへと投げ捨てた。

「じゃあ、今年はクリスマスパーティーをやらないとな」

 心春はパッと表情を明るくし、歩幅を強めた。

「それなら、レイラさんもシンヤさんも呼んで、盛大にしましょうね! 荒波さんも呼んでご飯作ってもらうのもありですね!」

「楽しみにしてるよ」

 ロキが短く応えたその瞬間、冷徹なまでの静寂が周囲を支配した。

 近づくにつれ、一人の男の姿が鮮明に浮かび上がってくる。それは、間違いなく標だった。

 巨大なクジラ包丁を背負い、悠然と立つその姿を見た瞬間、二人の間にあった穏やかな日常の会話は、戦場の空気へと一変した。


 標はクジラ包丁を地面に引きずりながら、楽しげに歪んだ笑みを二人に向けた。

「どんな最期のひと月を過ごしたのかな、おふたりは? 素敵な想い出作りはできたかい?」

 その問いかけに、心春は即座に応じた。

 流れるような動作で懐からグロックを抜き放ち、銃口を標の眉間に正確に据える。それはもはや躊躇いなど微塵も感じさせない、研ぎ澄まされた洗練そのものだった。

「あんたのせいで、訓練ばっかで最悪だったよ」

 冷徹な響きを帯びた声が大気を震わせる。

 心春の瞳には、標への恐怖ではなく、対等に相対する者としての決意が宿っていた。

「せっかく時間をあげたのになぁ。もったいないことだ」

 標は芝居がかった仕草で肩をすくめ、嘲笑う。だが、ロキは標の戯言を一顧だにせず、重厚なデザートイーグルをホルスターから引き抜いた。鍛え上げられた右手で銃を構え、その照準が標の心臓を射抜く。

「……すまんな。お前を殺すための準備に、存分に使わせてもらったよ」

 ロキの声は驚くほど静かだった。かつて標の名を呼ぶたびに胸を焼いていたどす黒い憎悪の炎は、今や冷徹な理性の下で「覚悟の炎」へと姿を変えている。復讐という呪縛は、今この瞬間のためにこそあったのだ。

「 やっと彩の復讐ができるね、ロキ。ずっと、ずっと待ちわびていた復讐!」

 標は頬が裂けんばかりの、悍ましいほどに邪悪な笑みを浮かべた。殺意を剥き出しにしたその顔が、月光を反射して青白く光る。

 ロキはデザートイーグルの引き金に指をかけ、一歩、標との距離を詰めた。

「そうだな。……やっと、花を手向けてやれるよ」

 二人の気配が、凍てつく冬の山間に重なり合う。

 もはや標を嬲るための復讐ではない。大切な日常を奪った過去を清算し、これからの未来を守り抜くための――これがロキと心春にとっての、新たな日常へと続く戦いの幕開けだった。

 標の体が、大気を切り裂くようにして突進してきた。

 その速度は人間離れしているが、今の心春にはその挙動が奇妙なほどスローモーションのように感じられた。


「ッ……!」

 ロキの背後から半歩横へ。心春は直感的に重心を後ろへ移し、バックステップを踏む。

 標の振るった巨大なクジラ包丁が、心春の鼻先を掠めるように横薙ぎに空を切った。鋭い風切り音が鼓膜を打つ。間一髪、という言葉さえ生ぬるいほどの極限の回避だった。

 心春が標の懐から引いたその一瞬、今度はロキが動いた。

 人間業とは思えない、氷の上を滑るようなスライド。標の死角、完全に真横へと瞬時に位置取りを終え、ロキのデザートイーグルが咆哮を上げた。


「――仕留める」


 放たれた弾丸は、確実に標の脳天を狙い撃っていた。

 凄まじい衝撃波が空気を揺らす。しかし、標は首をわずかに傾け、その攻撃を回避した。いや、回避というよりは、紙一重で身を逸らしたのだ。

 銃弾は標の額を切り裂き、鮮血が夜風に舞う。

 これまで一度も捉えることのできなかった標の身体に、確かに「掠り傷」をつけたのだ。


「なるほどねぇ……」

 標はクジラ包丁を担ぎ直すと、頭に流れる血を指で拭い、ニタリと歪んだ笑みを浮かべた。

「彩とは違うね、その子は。泣くだけじゃない……強さがある。教え方が上手いのか、それとも才能か。心躍るねぇ、ロキ!」

 標は狂気的な愉悦を滲ませながら、ふわりと後ろへと後退し、心春たちとの間に一定の距離をとった。

 先ほどまでの「嬲る」ための間合いではない。獲物を認めた獣が見せる、より深淵な殺意が、その瞳に宿り始めていた。

 標が額の傷を指先でなぞりながら、獣のような眼光で二人を値踏みしている。その沈黙の間に、心春の脳裏にはこの一ヶ月の記憶が走馬灯のように駆け巡った。

 冷たい新宿の夜風の中で何度も繰り返した、標の攻撃パターンへの対策訓練。

 ――あのバカでかいクジラ包丁に惑わされるな。あれだけデカいと攻撃は単調だ。振り下ろす。払い切る。突き刺す。小回りがきかないぶん、必ず隙が生まれる。絶対に目を離すな。

 ロキの低く、冷静な教えが心の中で鮮明に響く。標の身体能力は確かに脅威だが、その動きはロキの言う通り、物理的な法則に支配された「予備動作」を伴っていた。


 心春の中で、恐怖が論理的な確信へと変わる。今の一撃を回避したことで、標の攻撃の「重さ」と「軌道」が身体に刻み込まれた。

 心春はグロックを握り直す手に、より一層力を込める。掌に汗は滲んでいない。ただ、静かな闘志だけが血液のように循環していた。


「私には、できる」


 心春は心の中で小さく、しかし強く呟いた。今の自分は、ただの「餌」ではない。ロキと背中を預け合い、標という死神と渡り合えるだけの力を確かに掴んでいる。

 標が再びクジラ包丁を高く掲げ、地面を蹴った。先ほどよりも鋭く、重い踏み込み。しかし、心春の瞳は標の肩のわずかな沈み込みを逃さない。

「ロキさん!」

 心春が短く声を掛ける。それは作戦の合図であり、二人が一つに重なった瞬間だった。ロキは心春が標の動きを完璧に捉えていることを確信し、わずかに口角を上げた。

 心春が引き金を引いた瞬間、火薬の爆発音が神戸岩の空気を切り裂いた。

 彼女が思い描いた通りの弾道。

 標の心臓を一直線に貫く、完璧な流線だった。

 時を同じくして、ロキが低空を滑るようにして標の懐へと飛び込む。

 二人で行うことによる、導を中心とした十字の攻撃。

 挟撃の構えだった。

「――退屈だよ」

 標は鼻で笑うと、心春の脳天を断ち割るはずだったクジラ包丁の軌道を、刹那で変更した。

 標の腕が唸りを上げる。心春の弾丸と、肉薄したロキを同時に薙ぎ払うための、横薙ぎの一閃。

 それは二人の連携に対する、最も合理的で最も残酷なカウンターだった。

 甲高い硬質な音が響き、心春が放った一発の弾丸が宙で真っ二つに裂かれる。

 ロキは標の圧倒的な刃の軌道を悟るや否や、瞬時に地を蹴り、膝を折って滑り込んだ。斬撃の風がロキの頭上をかすめる。紙一重の回避。

 だが、その回避で体勢を崩したロキに、銃口を標へ向ける余裕はなかった。

 標の目元に、余裕の笑みが浮かぶ。勝負あったと確信したその刹那。

 標は、自身の死角で「もう一つの気配」が動いていたことに気づいた。……いや、気づくのが遅れたのだ。ただの守られるべき存在としてしか認識していなかったから。

 心春は、自分の弾丸が標に届くよりも早く、標の懐へと飛び出していた。

 標がロキを屠るために横薙ぎの一閃を放ち、その大振りの刃が標自身の視界を塞ぐその瞬間。

 振り払った武器が次の連撃に繋がらないこの瞬間。

 標が最も無防備になるコンマ数秒の空白。


「――ッ!!」


 心春は、喉の奥から絞り出したような獣じみた叫びと共に、標の懐深くへと踏み込んだ。距離はゼロに近い。

 もはや弾丸の軌道計算など必要ない。

 心春は標の心臓――その確かな鼓動が感じられる至近距離で、再びグロックの引き金を引き絞った。


 至近距離から放たれる、確かな殺意の奔流。標の驚愕に目を見開く顔が、心春の瞳に焼き付いた。


 グロックの咆哮が、静寂を切り裂く。

 一発。二発。

 硬質な銃声が標の肉体に食い込み、その存在を内側から削り取っていく。標の背中から鮮血が噴水のように舞い上がり、標の体躯が衝撃に押されて宙を舞った。


 しかし、心春の意識の中で時間は急激に引き伸ばされ、奇妙な静寂が支配していた。


 ーーまだ生きてる。


 心春がトドメの三発目を撃ち込もうと引き金に指をかけた瞬間、標の瞳が射抜くように自分を捉えた。吹き飛び、身体の自由を失っているはずの標の瞳には、死の気配どころか、なおも膨れ上がる圧倒的な殺意が渦巻いている。


 どこかで、ロキの叫び声が聞こえた。

 だが、その言葉は鼓膜に届く前に霧散する。

 世界は琥珀色に沈み、心春の思考だけが、極限まで加速して回転を続けた。


 標の右腕が、痙攣するように跳ね上がる。

 吹き飛びながら、クジラ包丁を心春の喉元へ叩きつけようとする執念の一撃。


 足に力を込め、死線から逃れようと踏ん張る。しかし、筋肉の反応速度が標の狂気に追いつかない。心春の眼前に、冷たく鈍色に光る包丁の刃が迫る。


 ――避ける? いいえ、間に合わない。銃を撃つ?


 撃てば、この至近距離での斬撃を食らう。

 撃たなければ、ただの死。


 心春の高速回転する思考は、刹那の間に幾千ものシミュレーションを繰り返した。標の殺意が風となって頬を撫でる。


 この死の一撃を、どう切り抜ける。心春の心臓が、早鐘を打つどころか、逆に凍りつくような冷たさで鼓動を刻んだ。


 心春の脳内で、死の予感が警鐘を鳴らす。

 足に込める力を更に込める。


「間に合わない」


 ――その絶望が脳裏をよぎった瞬間、視界の端で黒い影が弾丸のごとき速さで交差した。


「ッ――心春!!」


 心春が耳にしたのは、先ほどまで聞こえなかったロキの悲痛な叫びと、空気を引き裂く風の音。

 庇うようにして、標と心春の間に身を投げ出したロキが目に入った。

 ロキは銃を構えていたはずの右手ではなく、あえて空いた左腕を標の包丁の軌道上へと突き出す。


 鈍い、肉を切り裂く嫌な音が神戸岩の境内に響いた。


 標のクジラ包丁が、ロキの左腕を深々と断ち切っていく。肉が裂け、血が霧となって宙に舞った。

 ロキの顔が苦悶に歪むが、彼はその痛みに微塵も怯まない。むしろ、その左腕を標の包丁の腹に力任せに押し付け、強引にその軌道を天へと逸らした。


 骨を断つ感触が伝わっているはずだ。それでもロキの左腕は、心春の命を守るための盾として、その役割を全うすべく力強く踏ん張っていた。


 咆哮が響く。

 標の放った必殺の斬撃は、ロキの犠牲によってわずかに道筋を逸らされ、心春の肩先をかすめて後方の岩壁を砕いた。


 ロキのちぎれ掛けている左腕から溢れ出す鮮血が、心春の頬を熱く濡らす。こちらに振り返ったロキがフラリと倒れるその時まで、心春には何が起きたのか理解出来なかった。






 心春の動きは完璧だった。あの距離、標が動けない瞬間の刹那を見抜き、迷いなく引き金を引き標へと前進した。

 だが、標もまたバケモノだった。

 吹き飛ばされながらも、右腕はクジラ包丁を握りしめたまま、心春の喉元を狙って蛇のようにしなっていた。

 体は、思考よりも速く反応していた。

 思考するまでもない。あいつを守る。それ以外の選択肢が、俺の中に存在するはずがなかった。


「ッ――心春!!」


 叫びと共に、標と心春の間に身を割り込ませる。銃を持つ右腕じゃ間に合わない。俺は、銃を持たぬ左腕を死線に突き出した。

 肉が断ち切られる感覚。骨を削る鈍い衝撃。

 激痛が脳髄を駆け巡るが、力は緩めない。切られながら、刃の軌道をねじ伏せる。心春には、指一本触れさせるわけにはいかない。

 斬撃は逸らした。心春の肩をかすめ、包丁は彼方へ消えた。


 守り抜いた事を確信した瞬間、自分の肺と心臓に異様な冷たさを感じた。

 武器を持たぬ標の左腕が、俺の体を貫いた結果だけがわかった。


 心臓が停止する感覚が、驚くほど静かに全身を巡る。

 視界が歪む。

 振り返って心春の無事を確認しようした。

 言うことを聞かない体から力が抜け、膝が地面へと付き、崩れ落ちようとした体を、寸前で誰かが受け止めてくれた。


 心春だ。

 受け止めてくれたのか、ありがとう。

 口を開こうとするが、喉は血で満ちていて声が出ない。

 零れるのは鮮血だけだ。

 右手だけは、かろうじて動いた。

 震える指先が、心春の頬に触れる。

 お前の笑顔が好きだった。

 目が霞む。

 心春が何か言っている。

 もう耳もよく聞こえない。

 クリスマスパーティーできなくてごめんな。

 最後まで守ってやれなくてごめんな。

 でも俺は


 お前と出逢えてよかった。


 そこでロキの意識は途絶えた。








「ロキさん、ダメ! 死なないで!!」

 心春の叫びは、山間に引き裂くような音を立てて響いた。

 頬を伝う熱い雫が涙なのか、ロキの胸から溢れ出る鮮血なのか――もはや判別もつかない。

 心春は震える手で、ロキの胸に空いた致命的な穴を必死に押さえた。だが、彼を繋ぎ止めるべき生命の奔流は、心春の指の隙間から容赦なくこぼれ落ちていく。

「お願い……止まって、お願いだから……!」

 心春は瞬時に判断した。

 ロキの右手が自分の頬に触れたその感触を、左手で優しく、しかし切実に包み込む。

 彼女の中に眠る「神の寵愛」。人ならざる力。

 心春の瞳の奥で、淡く、それでいてこの世のものとは思えないほど神々しい光が灯る。血を止めるために。彼の命を繋ぐために。

 光は心春の手のひらから溢れ出し、ロキの胸元を包み込んだ。

 癒やしの奇跡を。死の淵から彼を引き戻す力を。


 しかし――光は、ロキの肉体をただ透き通るように通過していくだけだった。

「どうして……っ、どうしてっ!」

 どれだけ光を注ぎ込んでも、ロキの胸の穴は塞がらない。肌は冷たさを増し、心春の手をすり抜けるように、彼という存在がこの世界から希薄になっていく。


 神の力は、死してなお高潔な彼の魂を、もう現世には留め置けなかった。

「死んじゃ、ダメだよ……。嘘でしょ……ねえ、ロキさん……」

 叫びはいつしか、自分自身に言い聞かせるような弱々しい呟きへと変わっていた。心春は、彼の胸に両手を押し当てたまま、光が消えていくのを見守ることしかできない。


 やがて、頬に触れていたはずのロキの右腕が、重力に従うように力なく地面へと落ちた。

 戦場の冷たい空気が、心春の怒りで震えていた。

 ロキを奪ったその男の存在が、心春の視界を真っ赤に染め上げる。膝をつき、肩で息をしながらなおも嘲笑う標の姿は、心春にとってこの世で最も排除すべき穢れとなった。


「しるべ――ッ!!」

 心春は震える手でロキのホルスターからレッドホークを抜き放った。それはロキが最期まで大切にしていた、絆の象徴。

 グリップの冷たさが、ロキの死を冷酷に告げる。心春は力任せに引き金を引いた。

 銃声が轟く。だが、心春の手は激情に震え、狙いはわずかに狂った。

 グロックよりも遥かに重く、暴力的で、ロキ以外の人間には扱いにくいレッドホーク。その反動に抗うように放たれた弾丸は、標の心臓を外れ、その左肩を貫いた。

 標の肩から肉片が弾け飛び、血飛沫が闇に舞う。致命傷ではない。しかし、標は痛みなど感じていないかのように、その傷口を歪に動かして立ち上がった。


 瞳には、怒りに燃える心春を見て、言いようのない恍惚が浮かんでいる。

「素晴らしい……。あのロキをも超える、純粋で淀みのない殺意だ」

 標は垂れ下がる肩も構わず、心春にゆっくりと歩み寄る。

 その足取りは先ほどまでの疲弊した様子が嘘のように、獲物を見つけた獣のそれだった。

「……ロキを殺してしまって絶望していたけれど、ちゃんと引き継がれていたんだね、その殺意は」

 標は背を向け、まるで夜の闇に溶け込むかのようにゆっくりと遠ざかっていく。

 その背中は、勝利の余韻に浸る獣の如く揺れていた。


 心春は、震える手でレッドホークを握り直す。その重みに、再び引き金を引く。だが、その弾丸は標の影さえ捉えることなく、虚しく空を切り裂いた。

「心春、死ぬまで、しっかりと俺を想ってね」

 風に乗って届いたその残酷な言葉を最後に、標の気配は完全に消え失せた。

 残されたのは、血に塗れた神戸岩の静寂と、冷たくなりゆくロキの亡骸だけだった。


 心春は血まみれの震える手で携帯を取り出し、縋る思いでレイラの番号を押す。

「もしもし、心春ちゃん? 無事なの?」

 レイラの切迫した声が、ワンコールで耳に飛び込んでくる。

「……レイラ、さん……。ロキさんが……ロキさんが、死にそうで……っ、助けて、レイラさん……っ!」

 搾り出すような心春の声に、受話器の向こうのレイラが「今すぐ向かう!」と力強く叫んだ。その時だった。

 心春の腕の中で、ロキの身体がかすかに震えた。

 ……いや、違う。身体が、光の粒子のように細かな灰となって、風に舞い始めたのだ。

 それは落神が最期を迎えた時に見せる特有の現象。その現象がなぜロキにも起こったのか、ロキが不老不死の体を持っていたこと、そして人ならざる力に触れ続けていたからなのかはわからなかった。

 わかったのはロキの命が確実に散っていくことだけだった。

 心春は言葉を失い、携帯電話が手から滑り落ち、岩場に音もなく着地したことすら気づかなかった。

「嫌、ダメ……! 消えないで、ロキさん……っ!」

 心春はロキの身体を、灰にさせまいと必死に抱きしめた。

 腕の中に広がるのは、もはや確かな肉体の感触ではない。指の間からこぼれ落ちていく、サラサラとした灰の感触。

「いかないで……ロキさん、置いていかないで……」

 心春の悲痛な叫びは、冷たい冬の夜空に虚しく消えていく。抱きしめていたはずの腕の中の質量が、まるで砂時計の砂のように、ゆっくりと、しかし確実に崩れ去っていく。


 心春の胸元から肩へ、そして風に乗って冬の寒空へと、ロキの存在のすべてが還っていく。

 最期の温もりさえも灰となって空へ溶けた。

 気がつけば、岩場にはロキの衣服と、持ち主を失った愛銃のデザートイーグル、そして膝をついて震える心春だけが、独り残されていた。







 どれくらいの間、そうして座り込んでいたのかは分からない。

 ただ、冬の冷気と、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていったあの灰の感触だけが、異常なほど鮮明に残っていた。

 周囲が騒がしくなる。足音、怒号、無線機から流れる無機質な電子音。視界の端を、公安の人だと思われる大人たちの影が忙しなく行き交っている。

 ふと、誰かが私を強く抱きしめた。その温もりで、ようやく自分以外の人間がここにいることを理解する。レイラさんだった。彼女の瞳が潤んでいるのが分かった。

「心春ちゃん……心春ちゃん、聞こえる? 大丈夫?」

 レイラさんが何かを必死に問いかけてくる。でも、私の頭の中は真っ白で、思考という機能が完全に停止していた。何を聞かれているのかすら分からない。ただ、この状況でロキさんならどうするだろう――そのことだけが、意識の底で微かに明滅していた。

 ロキさんなら、きっとこう言うはずだ。

「……大丈夫です」

 言葉は、掠れた吐息のように零れた。それが今の私に出せる精一杯の返答だった。


 その後、何がどうなったのか、私は言われるがままに大人たちに運ばれていった。気がつけばヘリコプターの狭い座席に押し込まれていた。

 機体が轟音と共に浮き上がる。胃の奥がせり上がるような浮遊感。

 あぁ、もう神戸岩には戻れないんだな、とぼんやりと思った。

 隣に座るレイラさんが、また私を抱きしめてくれた。

 ロキさんの匂いがしない。あのタバコの匂いもここには無い。

 レイラさんの体温は、不思議なほどに温かかった。その温もりに包まれていると、ロキさんが灰になって消えてしまった事実が、夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。

 このまま、この暖かさに身を任せていれば、またロキさんが「おい、起きろよ」って呆れ顔で声をかけてくれるんじゃないか。

 そう期待しながら、私は抗うすべもなく深い眠りの中に落ちていった。

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