16#Primavera Prelude
コーヒーメーカーから立ち上る湯気が、朝の冷え切った空気に混ざり、静かな探偵事務所を満たしていく。心春は手慣れた手つきでマグカップを並べ、黒い液体を注いだ。
温かいカップをデスクに置き、深く腰を下ろした安楽椅子は、ロキが好んで座っていたものだ。
以前まで当たり前のように漂っていた、彼が吸うタバコの残り香は、今ではほとんど消え失せている。その事実を肌で感じた瞬間、心春の胸の奥で、鋭く小さな痛みが走った。それは寂寥感というにはあまりに重く、けれど日常の風景に深く溶け込んでいる喪失の棘だった。
三月の朝は、窓から差し込む光こそ明るいが、まだ冬の気配を色濃く残している。心春はマグカップを両手で包み込み、その温もりに身を委ねた。指先から伝わる熱が全身を巡り、強張っていた心がわずかに解けていく。
今日は平日だ。登校の準備という、かつては当たり前だったはずの日常が、今の心春には少しだけ重く感じられる。安楽椅子に深く背を預け、朝の静寂の中でただ時間を浪費したいという甘美な誘惑が頭をもたげる。
デスクの上の時計に目をやる。長針はすでに七時を大きく回り、容赦なく学校への時刻を告げている。
いかんいかん、と心春は自分を叱咤するように小さく首を振った。安楽椅子から跳ね起きるようにして立ち上がり、小さなキッチンへ向かう。冷たい水で顔を洗うと、ようやく思考が覚醒し始める。
朝という時間は、どうしてこうも夜の倍の速度で過ぎ去っていくのだろうか。そんなとりとめのない疑問を抱きながら、鏡に向かって歯を磨く。洗面台の鏡に映る自分は、どこにでもいる普通の女子高生に見えた。
全ての支度を終え、心春は静まり返った探偵事務所を後にした。重い扉を閉める音だけが、ビルの廊下に寂しく響いた。
電車に揺られる時間は、生活の一部となり、今では慣れ親しんだ日常の光景へと変わっていた。駅のホームから学校へと続く道は、心春にとって少し特別な道だった。
以前まで父親と住んでいた家から向かう道とは、方角も風景もまるで違う。曲がり角の先に見える植栽の並びや、朝日に反射するアスファルトの質感、すれ違う人々の顔ぶれ。
何もかもが異なるこの道でも、結局は「学校」という同じ目的地に辿り着く。
そのことが心春には希望に思えた。
正門を抜け、校舎へと足を進める。
すれ違う顔見知りの生徒たちと会釈を交わし、友人と交わす何気ない挨拶に声を乗せる。
そうして自分の席に収まると、周囲からは春の足音が聞こえてきた。
「ねえ、来年のクラス替えどうなるかな」
「また一緒だといいね。離れるの寂しいし」
窓際の席で飛び交う、とりとめのない会話。
進級を控えた季節特有の、どこか浮き足立った空気が教室を包んでいる。離れ離れになることへの不安や、新しい環境への期待。
そんな、誰もが通り過ぎるはずの甘く切ないやり取りが、心春の耳に自然と滑り込んできた。
その会話に小さく相槌を打ちながら、視線を窓の外に向けた。自分には、クラスメイトたちが語るような「当たり前の明日」が、これからも当たり前に約束されているのだろうか。
ふと脳裏をよぎった疑念を振り払うように、心春は机の上に教科書を広げた。
放課後の静かな廊下を通り抜け、足早に我が家『BlueMonday』へと戻る。
友人からの誘いを断り続けてきた結果、今では教室で心春を呼び止める者は誰一人としていない。孤独が加速していることを自覚しつつも、どこか安堵している自分がいた。その冷めた感情に、自分はもう以前のような普通の日常を捨ててしまったのではないかという不安が、影のように心春に寄り添う。
ロキが命を懸けて守り抜いてくれた日常。今はレイラがその重責を一身に背負い、守ってくれている。
その庇護の深さを、心春は骨身に染みるほど感じ取っていた。
事務所に入り、自分の部屋へ入ると同時に重いカバンを机に放り出した。制服のまま、吸い寄せられるようにベッドへ身体を投げ出す。今日一日の張り詰めた緊張が糸のように切れて、深い眠りの淵に沈みそうになるが、心春は意地のようにして身体を起こした。
「まだ寝ちゃダメ……」
自分に言い聞かせるように呟く。
疲労で重たい瞼をこじ開け、意識を強引に繋ぎ止める。
本当は、街外れの銭湯へ行って、湯船に浸かって何もかもを洗い流してしまいたい。
けれど、今日は来客の予感があった。
それまではしっかりしないと、と心春は乱れた髪をかき上げ、眠気を頭から追い出した。
夜の帳が下りきり、新宿の喧騒が遠くのノイズへと変わる時刻。心春は『BlueMonday』の屋上で、冷たい夜風を肌で受けていた。視線を上げれば、煌々と輝くネオンの隙間に、かすかな星空が広がっている。
かつて、この場所でロキが紫煙をくゆらせていた姿を、心春は今も鮮明に思い出す。私との会話はいつも少しだけ斜に構えているようだったけれど優しかった。
何も無い路地裏にも、何も無い空にも、目をこらすと路地裏の可愛い猫や、空の綺麗な星がある。
彼と一緒に過ごしたこの半年間という異常な日常も、すべてが心春にとってのかけがえのない記憶となっていた。
カツ、カツ、と乾いた足音が、夜気を切り裂いて屋上の階段から響いてくる。
やがて、屋上の重い扉を押し開いて姿を現したのは、二十代半ばの男だった。センター分けの髪に、どこにでもいそうな流行りの服装。
男は心春を少し見つめ、足早に心春に近付いてくる。
「何か用ですか?」
心春は唇を弧を描かせ、甘い声で問いかける。
男が心春との間合いをさらに縮めようとしたその瞬間、空気の振動が変わった。
いつの間にか心春の右手にあったグロックが火を噴いていた。
鈍い肉を裂く音と、男の喉から漏れた短い悲鳴が重なる。心春が撃ち抜いたのは、男の右足だった。狙いは正確無比。膝の関節を的確に破壊された男は、慣性に従って無様に崩れ落ち、自身の足を両手で抑えてその場でのたうち回った。
「ぐっ、あぁ……っ!」
響く呻き声を聞きながら、心春は表情を変えることなく、苦悶する男をただ見下ろしている。
「ダメですよ、女の子だと思って油断したら」
心春は先ほどまでと変わらない、鈴を転がすような愛らしい声でそう呟くと、迷いなく銃口を男の額へと照準をあわせた。
男が痛みに喘ぐ隙すら与えず、次々と引き金が引かれる。硬質な銃声が五回、夜空に連続して打ち上げられ、男の身体から鮮やかな飛沫が散った。
動かなくなった男の死体は、ゆっくりと輪郭を崩し始めた。男の肉体は黒い灰となって夜風に舞い、新宿の闇の中へと消えていく。
やがて、その灰の中からぼんやりとした丸い光が浮かび上がり、重力に従うことを拒むかのように、ゆっくりと夜空へと昇り始めた。
心春はその光をじっと見つめ、まるで旅立つ友人を見送るかのような穏やかな眼差しを向けた。
「次は、もっとちゃんとした神様になってくださいね」
彼女の言葉は夜気に溶け、光は星々の彼方へと帰っていく。
心春は慣れた手つきでグロックをホルスターへと収めると、重い靴音を響かせて屋上の扉を開いた。
殺気も、興奮も、彼女の中にはもう残っていない。まるで日常の些事を確認しただけのような足取りで、心春は静まり返った事務所へと戻っていく。
扉を閉める音は、再びこの場所に訪れる平穏を象徴するように、低く重く夜の静寂に溶け込んだ。




