12#Blue Beginning
窓の外では十一月の冷たい風が吹き抜け、街路樹の葉もほとんど落ち尽くそうとしている。季節が冬の入り口を告げる中、『BlueMonday』の事務所内には、金属が擦れ合う微かな音と、機械油の独特な匂いが静かに満ちていた。
ロキの向かいで、心春は手慣れた動作でグロックを分解していた。かつては銃を握ることさえ躊躇っていた彼女だが、今ではスライドを外し、バレルを丁寧に磨き上げるその手つきに迷いはない。
心春の脳裏に、この一ヶ月の出来事が走馬灯のように駆け巡る。今月に入ってから、名無しの落神に襲撃されること二度。どちらもロキがそばにいたとはいえ、彼女自身もその銃火を潜り抜け、躊躇いなく引き金を引いた。
かつてのような恐怖に身を竦める姿は、もうそこにはない。グロックを肌身離さず持ち歩くようになったことで、心春の中で「日常」と「戦い」の境界線は、以前よりもずっと曖昧で、かつ強固なものへと塗り替えられていた。
作業の手を止め、ふと顔を上げた。
向かいに座るロキは、愛銃のメンテナンスに全神経を集中させている。無言のまま、一点を見つめて銃身を磨くその横顔は、彫刻のように硬質で、何者も寄せ付けない静謐さを纏っていた。集中しきったロキの横顔を眺めながら、心春は自分が銃を握っていることの重みを再確認する。
誰かの守護を受けるだけの存在から、共に立ち、共に銃を構える相棒へ。
この事務所で過ごす時間が、確実に二人を変えている。心春は再び視線を戻すと、滑らかに動く指先でボルトを拭き始めた。冷えた空気の中で、時計の針の音だけが一定の刻みで響いていた。
「そういえば、JINさんからは私のこと、何か言われてますか?」
心春が不意に問いかけた。グロックのスライドを拭く手を止め、少しだけ不安げに視線を向ける。JINからの干渉がないことは、日常に平穏をもたらしていたが、同時にどこか得体の知れない予感を感じさせるものでもあった。
ロキはレッドホークのシリンダーを丁寧に拭き上げながら、視線を落としたまま淡々と答えた。
「特に無いな。むしろ、不気味なほど静かだ」
その言葉通り、公安ZERO課のJINからの心春への発言は、出会ってから一度も無かった。
心春の特異な体質や、その身に宿る能力の可能性を考えれば、本来ならもっと頻繁に監視や呼び出しがあってもおかしくないはずだった。
心春は「それならよかった」と小さく呟き、再び清掃の作業に戻った。
JINからの干渉がないのは、心春にとってありがたいことではあった。しかし、ここまで動きがないと、かえって背筋が寒くなるような居心地の悪さも拭えない。
ロキが自分の保護者として上層部と折り合いをつけてくれているから、あえて何も言ってこないのだ――。心春はそう自分に言い聞かせて、不安を打ち消そうとした。
ロキがしっかりと管理しているから大丈夫だろう。
そう信じたい気持ちと、水面下で何かが蠢いているのではないかという微かな疑念が、心春の中で混ざり合う。
ロキは銃の作動を確認するように、カチリとハンマーを起こした。その硬質な音が、事務所の静寂の中に響いた。心春はその音を聞いて、自分の指先で再び銃の冷たさを確かめる。外の冷気と同じくらい冷たい金属の感触が、今はなぜか妙な安心感を彼女に与えていた。
「そういえば、親父さんから連絡はあったか?」
ロキが唐突に発したその問いに、心春は作業していた手を止め、小さく首を横に振った。まだ、父からの言葉は届いていない。
「そうか」
ロキは短く呟くと、メンテナンスの手を止めずに言葉を続けた。以前まではロキ自身が足を運んで様子を確認しに行っていたが、現在は公安ZERO課の人間が定期的に心春の家を訪れ、父親の容体を管理・監視しているのだという。
「……そうですか。ありがとうございます」
心春は心からの感謝を込めて、力強く微笑んでみせた。そして、少しだけ寂しさと期待を混ぜた声で付け加えた。
「気長に待ちます。いつかまた、普通に話せる日が来ると信じていますから」
そんな心春の健気な姿に、ロキはいつになく柔らかな表情で、小さく微笑み返した。
「ああ。早くよくなるといいな」
その穏やかなやり取りの傍らで、心春の思考は少しずつ内側へと深く沈んでいった。
もし父親が目覚め、日常を取り戻したとき――自分のこの生活は、果たしてどうなるのだろうか。
自分が傍にいることで、父にまた負担をかけ、倒れさせてしまうのではないか。そうであれば、自分はやはりこの『BlueMonday』で、ロキの相棒として生きていくことになるのだろうか。
考えれば考えるほど答えの出ない問いが、霧のように心の中に広がっていく。しかし、今の自分にはそれを決める権利も、運命を変える力もない。
その時が来たら、またその時に考えればいいだけ。
心春はふっと息を吐き出すと、迷いを払うように再びグロックの細かなパーツへと視線を戻した。事務所には二人の銃を磨く音だけが、心地よいリズムを刻み続けていた。
「もうすぐ、クリスマスですね」
心春が何気なく呟いた言葉が、メンテナンス作業で静まり返った事務所に小さく響く。
ロキは手元のレッドホークから視線を外さず、淡々とした声で「そういえば、そんな日もあったな」と返した。心春にとってのクリスマスは、街中がキラキラと輝く少し特別な一日。でも、ロキにとってはただの暦の通過点に過ぎないのだと、その無機質な響きが物語っている。
「ロキさんは、クリスマスはいつも何してるんですか?」
身を乗り出すようにして尋ねると、ロキは慣れた手つきでポケットからタバコを取り出し、火を点けた。「仕事だな」という短い返答を聞きながら、胸の奥が少しだけきゅっと締め付けられるのを感じた。
「せっかくのクリスマスなのに、勿体ないです!」
思わず口から飛び出した言葉に、ロキは「何がもったいないのか、さっぱり分からん」と呆れたように笑い、煙を細く吐き出した。その横顔を見て、心春は衝動的に一つの提案を口にしていた。
「どうせなら、レイラさんとシンヤさんも誘って、ここでクリスマスパーティーでもしませんか?」
どうせ「くだらない」と鼻で笑われるだろう。そう思いながら、心春はロキの顔色を窺った。彼が少しでも困惑した表情を見せれば、すぐに冗談だと撤回するつもりだった。
しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。
「それも、いいかもな」
え、と心春は思わず目を見開いた。ロキはそのまま椅子から静かに立ち上がり、窓辺へと歩いていく。窓枠に手をかけ、冬の冷たい空気が支配する街並みをただ静かに見下ろしながら、彼は再びタバコをふかした。
窓越しの淡い光を背負ったロキの背中は、いつもよりほんの少しだけ柔らかく見えた。心春は持っていたグロックのパーツを握りしめ、その背中をじっと見つめる。
今までずっと、自分を守るために戦ってきたこの人が、自分と同じように「誰かと過ごす時間」を肯定してくれた。その事実が、凍える季節の中で心春の胸を温かい何かで満たしていくのを感じた。
月曜日の朝。吐く息が白く色づく季節になり、心春は制服の襟元を正して校門をくぐった。学級委員としての役割を無難にこなした心春は、現在は図書委員としての仕事を無難にこなしていた。
教室までの廊下を歩く間、心春はすれ違う友人たちに努めて明るく挨拶を返す。
教室の扉を開け、いつもの席に座る。カバンから教科書を取り出す指先が、その奥に潜む冷たい感触に触れた。鞄の内ポケットに隠されたグロック。銃口の冷たさと重量感だけが、今の心春にとっての「リアル」であり、この平和な教室の中で唯一の非日常だった。
「心春ちゃん、もうすぐクリスマスだね! どうするの?」
一限目の授業が始まる前の穏やかな時間、後ろの席に座るクラスメイトが身を乗り出して尋ねてきた。心春は少しだけ考え込み、「うーん、まだ悩み中かな」と曖昧に微笑む。
「えー、嘘! 彼氏できたんでしょ?」
その言葉に、クラスメイトの瞳が好奇心でキラキラと輝く。彼女たちの問いかけには、文化祭でロキと一緒にいた心春の姿を思い出し、二人の関係を勘繰るような魂胆が隠れている。心春にはそれが痛いほど分かった。
「そんなのいないよ。本当に」
心春は苦笑しながら軽く手を振って否定した。だが、友人は諦めない。
「絶対嘘だよ! 文化祭に来ていたあの背の高いお兄さんでしょ? すごくカッコよかったし!」
彼女たちに背中をつつかれながら、心春は遠い目をした。ロキという存在は、心春の生活の中心に深く食い込んでいる。けれど、同級生たちが当たり前のように語る「恋愛」という言葉と、ロキとの間に流れる命のやり取りを含む奇妙な絆は、あまりにもかけ離れすぎていた。
心春にとって、ロキは守護者であり、相棒であり、世界で一番頼りになる背中だ。でも、クラスメイトが想像するような甘いクリスマスを過ごす相手かと言われれば、それはどうしても上手く結びつかない。
窓の外を見つめた。冬空の下で流れる学生たちの平凡で眩しい時間が、今の自分にはどこか遠い世界のもののように感じられた。
「本当にお兄さん的な存在なんだよ」
否定の言葉は、以前よりも少しだけ重みを増していた。
四谷の街並みを歩くロキの足取りは、どこかあてもない浮遊感に満ちていた。冬用のジャケットを深く羽織り、懐に忍ばせたデザートイーグルの硬質な重みを指先でなぞる。
ふと、郷愁にも似た感情が胸をかすめた。百年前、まだ世界が今ほど騒がしくなかった頃に口にした、あの和菓子の甘い記憶。現代の洗練された菓子とは違う、素朴で、それでいて強烈に心を惹きつけたあの味を、今の自分ならどう感じるだろうか。
ずいぶんセンチメンタルになったものだ、と
ロキは自嘲気味に口角を歪めた。百年という永い時を生き、数え切れないほどの死地を潜り抜けてきた男が、今さら昔食べた菓子一つを懐かしむなど、笑い話にもならない。
ポケットからタバコを取り出そうとして、ふと指を止めた。人通りのある通りで吸うのも悪くはないが、今はなんとなく、この冬の凍てつく空気を肺の奥まで直接吸い込みたかった。我慢を強いられた禁煙の窮屈さが、逆に今の自分の置かれた「人間としての制約」を強く意識させる。
灰色の空を見上げた。百年前の記憶と、現代の冷気。その二つの間で揺れ動きながら、彼は再び歩き出した。目的の店は見つかるか分からない。それでも、今の自分がこの街で何かを探そうとしているという事実が、少しだけ自分を「こちら側」に繋ぎ止めているような気がしていた。
目的の和菓子屋は、記憶の中にある古い看板とは異なり、現代風に洗練された洒落た佇まいに姿を変えていた。少しの戸惑いとともに暖簾をくぐると、店内には上品な白檀の香りと甘い餡の匂いが混じり合っている。
「いくつか貰おうか」
そう告げたロキの目に、店内の隅に設けられた数席のイートインスペースが映った。温かな空気が漂うその場所を見て、ふと旅路の休憩を重ねた。
「ここで食べていってもいいか」
「ええ、もちろんです」
店員の柔らかな笑顔に頷き、ロキは指定された席に腰を下ろした。ほどなくして、選んだ和菓子と、湯気を立てる緑茶が運ばれてくる。手渡された湯呑みの温もりが、冷え切った指先にじわりと染み渡る。
「お茶のサービスです。どうぞ」
感謝の会釈を返し、まずは和菓子を一口運んだ。
舌の上でほどける繊細な甘味。それは、百年前に確かに味わったものと変わらぬ、記憶の欠片そのものだった。
「……そうか、こんな味だったな」
口の中で溶けていく甘さを追うようにして、ロキは目を細めた。百年という時間は、多くのものを色褪せさせ、あるいは変貌させる。けれど、この味だけは、自分の魂の深淵に刻まれていた。熱い緑茶で後味を流し込み、心まで温まる感覚をじっくりと味わう。
店を出て、通りに戻った瞬間のことだった。
店内の柔らかな温もりに油断していた身体を、冬の冷気が容赦なく刺し貫いた。ジャケットの襟を立て、ロキは短く息を吐き出す。肺の中まで冷たさが入り込む感覚に、自分が今、確かにこの時「生きている」ことを思い知らされながら、再び家路へと足を向けた。
冬の日中は短く、新宿の街は既に薄暮の帳に包まれていた。路地裏には街灯のオレンジ色の光が、長く伸びた影を落としている。時刻は夕方。退勤する会社員や、夜の営業に備える店の気配が混じり合い、都会特有の喧騒が遠くで鳴っている。
BlueMondayの事務所へと続く、いつもの裏路地。
意識は、穏やかな回顧の余韻の中にあった。
しかし、その余韻は、路地の角を曲がった瞬間に空へと飛散した。
男が一人、背を向けて立っている。立ち尽くすその姿には、生きている者特有の呼吸の気配が驚くほど欠落していた。まるで最初からそこに風景の一部として存在していたかのような、異質な静けさ。
ロキは警戒心も露わにせず、淡々とその横を通り過ぎようと足を進めた。
近寄るにつれ、男の背中に背負われた異様なシルエットが視界に入る。物干し竿のように長く、無骨な塊。薄汚れてボロボロになった布切れが、冷たい夜風に頼りなく揺れている。
男が、ゆっくりとこちらを振り返った。
ロキの足が止まった。
男の背中にあったのは、物干し竿などではない。それは、人の背丈を優に超える巨大な鉄の塊――バカでかい包丁だった。使い込まれた刃には無数の欠けがあり、そこから染み出すような禍々しい殺気が立ち込めている。
だが、ロキの視線を釘付けにしたのは、武器の異様さではなかった。
振り返った男の顔。
百年もの間、殺意の炎で焼き付け、執拗に追い続けてきた、あの憎き男の顔。
肺の奥が焼けるように熱くなる。ロキの血管という血管を、煮えくり返るような怒気が暴力的に駆け巡った。それは単なる怒りではない。百年もの歳月、理性を食い荒らし、魂を焦がし続けてきた復讐の炎が、抑えきれない咆哮となって全身に爆発的に広がっていく。
懐のデザートイーグルに手が伸びる。手元が震えることはない。ただ、全身の細胞が、目の前の男を抹殺することだけを求めて悲鳴を上げていた。
「標」
凍てつく路地裏に、ロキの低く、そして殺意に満ちた声が響き渡った。復讐の炎は、いまやかつてないほどの熱量で、ロキという人間のすべてを支配していた。
夕闇が路地を濃く塗りつぶす中、男――標が完全に身体を旋回させた。無造作に背負われていた巨大な「クジラ包丁」が、錆びた音を立ててその右手に収まる。男の顔に浮かぶのは、百年前と変わらぬ、いや、より深く禍々しさを増した邪悪な笑みだった。
「久しぶりだね」
その軽い調子の挨拶が、ロキの理性の防波堤をいとも簡単に決壊させた。追い打ちをかけるように、標が楽しげに問いかける。
「――彩は、元気にしているかい?」
――お前がその名を、口にするな。
思考よりも先に、ロキの身体が反応した。怒気が全身の血管を焼き切りそうなほどの熱量を持ち、怒りを超えた激昂となって爆発する。迷いなくデザートイーグルの引き金を引いた。
乾いた銃声が路地裏に五連奏の残響を残す。標の心臓、喉元、眉間を正確に穿つはずの弾丸が、鉛の塊となって夕闇を切り裂く。
しかし、標はその五発すべてを、あろうことか巨大なクジラ包丁の面で受け止めていた。
金属質の硬質な悲鳴が重なり、弾かれた弾道は路地の壁を深く削り取って消える。標の肉体には掠り傷一つついていない。
「久しぶりの再開なのに釣れないな。もっと話そうよ」
標は嘲笑を浮かべたまま、包丁を肩に担ぎ直す。その余裕に満ちた仕草が、ロキの殺意をさらに純粋なものへと変えていく。
かつて彩の命を奪い、百年の逃亡を続けた男が、今、目の前で楽しそうに「彩」の名を弄んでいる。
ロキの瞳から、人間らしい感情が完全に消え失せた。そこにあるのは、獲物を狩る狩人の冷酷さと、復讐者としての底なしの憎悪だけだ。
「殺す」
短く、吐き捨てるような殺意を告げると同時に、ロキは再び銃口を標の額へと固定した。路地裏の空気は凍りつき、夕闇の中で二人の対峙が極限まで張り詰めた。
「ガッカリだよ、ロキ」
標がわざとらしく肩をすくめ、クジラ包丁の刃先を地面に引きずりながら嘲笑った。
「殺意が薄いよ。昔の君はもっと純粋に、僕を灰にするためだけに生きていたはずなのに」
その言葉は、ロキの胸の奥深く、最近自分でさえ認めたくなかった「揺らぎ」を的確に射抜いていた。怒りの中に、言いようのない動揺が混じる。図星を突かれた苛立ちと、核心を突かれた恐怖が、ロキの喉の奥を焼いた。
「君が僕を殺したいという恨みを忘れる……そんな理由でもできたのかな?」
標の口角が、獲物を弄ぶ獣のように吊り上がる。ロキの心臓が不自然に跳ねた。怒りの炎の裏側で、冷たい氷のような不安が混ざり合う。
冷静になれ。今のこの距離、このデタラメな包丁の捌きの前では、小細工は通じない。
もう一人の自分という名の理性が、耳元で狂ったように警鐘を鳴らしていた。
「きっと、いい人が現れたんだね」
標が、陽だまりのような、しかし底なしに邪悪な笑みを浮かべた。
「例えば……事務所で血まみれになっている、あの子とか」
その言葉が耳に届いた瞬間、ロキの思考は完全に断絶した。
引き金が二度、火を噴いた。心臓と眉間。標の最も急所を狙い澄ました二発。
ロキはその弾道を見届けることさえしなかった。
引き金を引く反動を利用し、路地の地面を蹴り飛ばす。全速力。かつてない速さで、ロキは夕闇の中を駆け出した。
脳裏に焼き付くのは、返り血を浴びて倒れている心春の姿。
事務所までの道のりが、まるで終わりのない泥沼のように果てしなく遠い。心臓が早鐘を打ち、焦りが酸素を奪う。銃を握る指先が白く変色するほどに力み、ロキはただ、心春の無事を祈ることも忘れて、ひたすらに駆けた。
身体は限界を超えて加速していた。路地の影が飛ぶように過ぎ去る。
事務所のドアを、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで吹き飛ぶくらいに開け放った。
「ロキさん?」
事務机に向かっていた心春は、突如現れた荒々しい来訪者に肩を跳ねさせ、ソファから立ち上がった。
心春の瞳には戸惑いと、何事かと案じる色が見える。しかし、そんな彼女の反応など耳に入っていないかのように、ロキは目を見開いたまま心春を凝視した。
そこに、確かに心春がいる。血に濡れることもなく、いつものように穏やかな表情で自分を見ている。
脳裏に焼き付いていた「血まみれの心春」という残像が、現実にいる彼女の呼吸の音と重なって霧散していく。
言葉を失ったまま、堰を切ったように距離を詰めると、心春の華奢な体を力任せに抱き寄せた。
「……ロキさん? どうしたんですか、なにかあったんですか……?」
心春の戸惑う声が、ロキの胸の奥で震える。彼女の体温、服の匂い、心臓の鼓動。すべてが確かに「生きている」証として、ロキの全身を突き抜けた。
あんなにも遠く感じられた事務所までの距離が、この瞬間に消滅する。標の言葉が、ただの脅しだったのか、それとも別の場所での惨劇の予告だったのか――そんなことはもうどうでもよかった。
安堵。あまりに深い安堵が、ロキの硬直していた筋肉を強制的に弛緩させる。返事すらできない。ロキはただ、腕の中の心春を壊れ物のように強く抱きしめ、自分の肺の中に満ちる酸素を彼女の髪の香りと共に深く吸い込んだ。
その時、静寂を切り裂くように、軽薄で愉悦に満ちた声が降ってきた。
「……それが、ロキの次の『大切な人』なんだね」
心春が抱きしめられたまま、はっとして視線を巡らせる。そこには、いつの間にか事務所のデスク――ロキの聖域であるはずの場所に、深々と腰を下ろした標の姿があった。
標は、まるで幼い子供がオモチャを見つけたかのような純粋な喜びを含んだ笑みを浮かべ、クジラ包丁を膝に乗せていた。
「いやぁ、いいものを見た。愛おしいねぇ、ロキ」
標の瞳には、ロキの安堵さえもが、次の惨劇をより彩るためのスパイスのように映っていた。ロキの腕の中で、心春の体が硬直する。心春はまだ事態を理解できていないが、標から放たれる圧倒的な「悪意」の匂いに、本能的な恐怖を覚え始めていた。
「下がれ、心春!」
ロキの張り詰めた声に、心春は瞬時に事態の重大さを察した。驚きを飲み込み、反射的にソファへと飛びついてカバンを掴む。
中にあるグロックの冷たい感触が、今の彼女にとって唯一の命綱だった。心春はロキの背後に身を隠すように立ち、震える手を慣れた動作で安全装置を解除し、銃口を標へと向けた。
「はじめまして、心春」
標はデスクに腰掛けたまま、この世のものとは思えないほど深く、昏い笑みを浮かべた。
その瞬間、心春を襲ったのは形容しがたいほどの悪寒だった。視界の端が黒く染まり、血液が逆流するような死の気配。心春は膝が震えるのを必死に堪え、標の瞳をまっすぐに見つめ返す。
「心春を殺したら、ロキはもっと俺のことを考えてくれるかな」
標の喉からこぼれた無邪気な殺意。その言葉が空間に溶け込んだ瞬間、ロキが地を蹴った。
殺気を纏わせた高速の前身。
ただ、この男をこの場で物理的に消去させる。
心春を背後に守り、ロキは標の懐へ――距離があり銃弾が防がれるのであれば、距離を無くしてしまえばいい。
ゼロ距離からの銃撃。
しかし。
ロキが標の喉元へデザートイーグルの銃口を押し当て、引き金を引こうとしたそのコンマ数秒のことだった。
殴られたのか、蹴られたのか。視認すら不可能なほどの速度で、強烈な衝撃がロキの脇腹を抉る。
身体は人形のように宙を舞い、事務所の外の廊下まで叩きつけられた。背中に走る激痛と、肺から強制的に空気が押し出される感覚が全身を巡る。
「焦るなよ、ロキ」
デスクの上に座ったままの標は、クツクツと喉を鳴らして笑っている。その動きの優雅さと、暴力の質の違いが、ロキの脳に致命的な絶望を突きつけていた。
心春の震える銃口と、薄ら笑いを浮かべる男。事務所の空気が、まるで死の淵に立つかのように張り詰めていた。
廊下に叩きつけられた衝撃で肺が軋み、視界が赤く明滅する。それでもロキは、心春を守るというただ一つの意志だけで、折れた肋骨を無視して立ち上がった。
事務所の扉枠に手をかけ、引きずるようにして室内へ戻る。そこには、心春の目前でなおも余裕を崩さない標の姿があった。
「ここでサクッとこの子を殺しても、ロキはまた忘れちゃうでしょ」
標は心春に向けていた不気味な視線を外し、にこやかにそう言い放った。
心春は震える手で握りしめたグロックを胸元から離さず、標の邪悪な気配を全身で受け止めながら、必死に呼吸を整えている。
標と心春の間に割って入り、デザートイーグルの銃口を標の眉間へと突きつけた。
「もっともっと俺のことを想ってほしいから、時間をあげるよ」
標はデスクから軽やかに飛び降りると、銃口を恐れるどころか、その先をじっと見つめながら獲物を品定めするように歩み寄る。ロキの指先には引き金に込める力がみなぎり、標がわずかでも動けば鉛を撃ち込む準備は整っていた。
「キリよく一月一日。君たち二人で、神戸岩までおいで」
「……行かなかったら、どうなる」
ロキの問いかけは、怒りさえも凍りついた氷のような殺意を孕んでいた。
その問いに対する標の答えは、あまりにも短く、そして決定的な宣告だった。
「そうしたら、心春は死ぬだけだよ」
不気味に、慈しむようにさえ見える笑みを浮かべ、標はロキの反応を愉しむように肩をすくめた。
ロキが引き金を絞る刹那、標は翻身してロキを背にし、窓へと歩み寄る。ガタリと音を立てて窓が外へ開かれ、冬の冷たい風が事務所に流れ込んできた。
「最期まで、二人の時間を楽しんでね」
言い終えるか否かのタイミングで、標の影が宙へと溶け出した。風に乗るように、あるいは重力という鎖を解き放つように、彼は逢魔が時の新宿へと跳躍する。
窓の外には、標の気配が急速に遠ざかっていく虚無だけが残されていた。
ロキは銃口を下げぬまま、窓辺に立ち尽くす。張り詰めていた糸が切れ、事務所に重苦しい静寂が満ちた。背後で、心春が荒い息を吐きながら床へ崩れ落ちる音がした。
一月一日、神戸岩。
復讐の幕引きと、心春の命を天秤にかけられた冷酷なカウントダウンが、静かに幕を開けていた。




