10#Muggy Midnight
八月の終わり、重苦しい湿気を帯びた空気が夜の静寂にまとわりついている。夏休みという特別で甘い時間は終わりを告げようとしていた。
宿題に追われるという苦行をこなしていたのは心春にとって、金色夜叉明王という抗いがたい災厄との死闘を終えた代償のようなものだった。
今はその余韻に浸る間もなく、終わりの見えない宿題という別の闘いへと対峙させられている。
ようやく積まれたプリントの山に出口が見え始めたその夜、心春はベッドに転がり込んでいた。
しかし、窓から流れ込む生暖かい風は、心春の思考を冷静にさせない。熱帯夜の不快感に、少しだけ神経が苛立っていた。
真夜中の零時を少し回った時刻。
静寂を切り裂くように、事務所の扉が荒々しくノックされた。叩きつけるようなその音は、尋常ならざる切迫感を孕んでいる。深夜の訪問者など、ロクでもないトラブルの予兆に他ならなかった。
心春は溜息を呑み込み、ベッドから這い出し靴を履いた。足が床に踏み締めて行く感触で、自身の覚悟を確かめつつ事務所の扉へと静かに歩み寄り、慎重にそのノブに手をかけた。
扉の向こうから放たれる荒々しいノックの音が、事務所の空気を硬質に変えていた。
緊張を孕んだ面持ちで事務所への扉を開けると、そこには既に戦闘態勢を整えたロキの姿があった。
重厚なデザートイーグルの金属光沢が、事務所の薄明かりを鈍く反射している。心春は、寝巻き姿で硬直していた自分とは対照的なロキの頼もしさに、胸の奥から安堵の吐息が漏れるのを感じた。
扉を叩く音は依然として絶え間なく続いている。心春は不安を隠せず、ロキの方を振り返った。その瞳で「どうしますか」と無言の問いを投げかける。
ロキは短く、けれど力強く頷いて応えると、銃口を扉から逸らすことなく、低く硬い声で問いかけた。
「誰だ?」
ロキの問いかけに、それまでドアを打ち鳴らしていた音がふっ、と止んだ。
「俺だ、シンヤだ」
扉越しに届いた声は間違いなくシンヤのものだった。ロキは警戒を解くことなく、デザートイーグルを構えたまま静かに歩み寄る。慎重な動作で鍵を回し、少しだけ扉を開けた。その隙間からも、鋭い眼光は扉へと注がれている。
泥にまみれたアロハシャツといういつもの出で立ちを汚した姿で、シンヤがゆっくりと室内に足を踏み入れた。肩で息をしながら、彼は申し訳なさそうな表情で口を開く。
「すまなかった。こんな夜更けにいきなり来てしまって」
ロキは無言のまま、背後の玄関ドアを静かに閉め、二重に鍵をかけた。
デザートイーグルを構える腕は未だに引き絞られた弓のように硬い。緊張を保ったまま、ロキは低く問いかけた。
「構わないが、何があった?」
シンヤはロキの警戒を意に介する様子もなく、そのまま事務所の奥へと歩を進めると、使い古されたソファにどっかと身体を投げ出した。
泥のついた服が事務所の調度品を汚していく様を、心春は眉をひそめて見つめる。本来なら注意したくなるような無作法だが、シンヤの背負うただならぬ空気に、心春はこみ上げる苛立ちをぐっと奥歯で噛み殺した。
ソファに深く沈み込んだシンヤは、心春の姿を流し目で見て、ふにゃりと笑った。
「お嬢ちゃん、その寝巻き可愛いね」
グレーのスウェットに身を包んだ心春の姿をからかうような言葉。心春は平静を装い、「ありがとうございます」と事務的に返すにとどめた。
ようやくロキが、デザートイーグルをゆっくりとホルスターへ収める。かわりに事務所の冷えた空気が少し暖かくなる。ロキはシンヤの前に立ち、逃げ場のない視線を投げかける。
「さっさと要件を言え」
「あぁ、わりぃ」
シンヤはソファの背から背中を離し、それまでの気安い態度をかなぐり捨てて姿勢を正した。
泥に汚れたアロハシャツの中で、彼の表情が硬質なものへと変わる。
「ちょっと、しくじった」
彼が口にしたその言葉には、ただならぬ重みが乗っていた。
心春はロキとシンヤの間に流れる、どこか澱んだような空気を肌で感じ取っていた。
二人の間に、厚い信頼関係と呼べるようなものが存在しているとは言い難い。普段はBAR『gimlet』で顔を合わせる程度の希薄な関係で、任務中に「名有りの落神」を共同討伐する時ですら、どこか互いを測り合うような距離感があったはずだ。
そんな男が、深夜の探偵事務所へ転がり込み、ロキに救いを求めている。
言葉以上に雄弁なシンヤの切迫した様子から、これが単なるトラブルの範疇を超えた、一刻を争う緊急事態であることを即座に理解した。
事務所の空気は急速に冷却され、静寂の中、ロキの視線がシンヤの深淵を鋭く射抜く。
「それで、何をすればいい」
ロキの短く吐き捨てた言葉には、余計な追及を省き、即座に行動へ移る覚悟がすべて込められていた。シンヤはその言葉の真意、すなわち「ただの相談ではなく、実力行使が必要な案件なのか」という問いかけを瞬時に汲み取る。
「俺が狙っていた落神を、殺してくれ」
シンヤの口から出たのは、同業者に対する討伐依頼というにはあまりに異質な願いだった。ロキは眉間に皺を寄せ、即座に問い返す。
「……何故だ」
落神を討伐することは、彼ら公安ZERO課にとって日常の一部であり、当然の義務だ。
同業者がわざわざ他者に頭を下げて依頼するなど、本来であればあり得ない。ロキがその動機を怪しむのは至極当然のことであり、そこにはシンヤが隠しきれない何らかの重大な瑕疵や、あるいは「普通ではない」障害が潜んでいることを示唆していた。
シンヤは淀んだ瞳でロキと心春を見据え、事の顛末を説明し始めた。
ターゲットは名もなき女の落神であり、現在その所在は新宿にあるラブホテル『vacation』の一室であるという。
「その落神は、触れたものを腐敗させる」
シンヤが告げたその特殊な能力に、ロキは即座に要点を絞った問いを返す。
遠距離からの干渉が可能か、あるいは直接接触のみか。シンヤは首を横に振り、物理的な接触が条件だと答えた。
ロキの脳裏には、少し前に目にした新聞記事の記憶が蘇る。ホテルの一室で発見された、腐敗した男の変死体――。シンヤの持ち込んだ情報と、その凄惨な事件が線となって繋がり、ロキの中で状況が鮮やかに整理されていく。
「シンヤ、お前はここにいろ」
冷徹な響きでそう命じると、心春へと視線を向けた。
「心春、俺が戻るまで警戒を怠るな」
重厚なデザートイーグルを握り直し、音もなく事務所の扉を開けた。荒々しい夜の闇の中へ、彼の背中が吸い込まれていく。残された事務所には、シンヤの荒い息遣いと、心春の張り詰めた緊張感だけが静かに澱んでいた。
自室へと戻り、グレーのスウェットを脱ぎ捨てると、黒のタクティカルジャケットを羽織り、動きやすいカーゴパンツの戦闘用装備へと身を包んだ。
金色夜叉明王との死闘を経た今、彼女の日常には常に銃という緊張感が寄り添っている。
ホルスターを体に固定し、手慣れた仕草で愛用のグロックを装着する。訓練を重ねてきたその所作には、少女の面影を打ち消すような冷徹な機能美が宿っていた。
準備を終え、心春は静かに自室の扉を開けた。事務所の中央、ソファに座るシンヤの背中が、細かく、しかし激しく震えているのが目に飛び込んでくる。
思わず足を止めた。普段のシンヤといえば、何を考えているのか読めないほど飄々としており、どこか掴みどころのない男だった。
その彼が、まるで凍えるような恐怖に支配されている。
心春は警戒を解かぬまま、ゆっくりとシンヤの傍らに歩み寄った。
「シンヤさん、大丈夫ですか?」
心春が膝をつき、そっと寄り添うように問いかける。シンヤの表情は青ざめ、その歯は止める間もなくガチガチと音を立てていた。
「す、すまねぇ……怖くて、仕方が無いんだ……」
絞り出すような声で、シンヤは心春に告げた。
「俺は、元はただの人間だ」
シンヤの絞り出すような声が、事務所の重たい静寂に溶け込む。あの二人とは違うと、呟いている。彼が言う「あの二人」とは、おそらくロキさんとレイラさんのことだろう。
眼前にいるのは、落神を宿し、戦場を渡り歩く強者ではなく、恐怖のあまり自らの殻の中にうずくまる、脆く弱き一人の男だった。
心春は、シンヤの肩を掴み、その瞳を真っ直ぐに見据えた。
「しっかりしてください」
その強い言葉に、シンヤはびくりと肩を震わせ、虚を突かれたように目を丸くした。やがて、彼は気まずげに視線を落とし、「す、すまん」と小さく謝罪の言葉を漏らす。
シンヤに対する印象がガラリと塗り替えられていく。これまで目にしてきた、周囲を煙に巻くような飄々とした態度は、彼なりの精一杯の擬態だったようだ。
落神という異質な存在をその身に取り込みながら、人間としての境界線を見失わないように、強がることで己を戦場へ繋ぎ止めていた仮面。それは彼が自分自身を守るための、痛々しいまでの防壁に過ぎなかった。
「……ロキさんもレイラさんも、こんなシンヤさんを知らないんですか?」
純粋な問いかけに、シンヤは自嘲気味に口角を歪めた。その笑顔はあまりにも脆く、投げやりな響きを含んでいる。
「アイツらの前だと、強がるしか出来ないだろ。……俺には、それしかねぇんだよ」
誰よりも強くあろうとする二人と、人間であることを手放せずにいる自分。その拭いがたい隔絶が、シンヤを孤独な恐怖へと追い込んでいるのだと、心春は痛いほど理解した。
事務所の時計の針が刻む音だけが、今の彼らの不安定な心境を代弁するように、淡々と響き続けていた。
ロキが事務所を後にしてから、すでに半刻以上の時間が経過していた。
不安を振り払うように携帯端末を開き、着信履歴を確認したが、ロキからの連絡は一通も届いていない。一瞬、自ら連絡を入れて安否を確かめようという考えが脳裏をよぎったが、もし今この瞬間にロキが命懸けの戦闘を繰り広げているのなら、己の不用意な連絡が致命的な隙を生むことになりかねない。
その手を止め、ただ静かに待つ道を選んだ。
ソファに沈んでいたシンヤも、ようやく激しい震えが収まり、幾分か落ち着きを取り戻していた。依然としてその表情には深い絶望が張り付いているが、先ほどのような取り乱した様子は見られない。
シンヤの状態を確認し、最悪の事態は免れたと内心で安堵の息を漏らす。
その時だった。事務所の扉が、音もなくゆっくりと開いていく。
一瞬、心春の脳裏に「ロキの帰還」という希望が過った。しかし、扉の隙間から滑り込んできた空気が、その期待を鋭く切り裂いた。
それは、事務所という日常の空間に混ざり合うはずのない、異質で不吉な「何か」の気配だった。心春は直感的にロキではないと悟り、迷うことなくホルスターからグロックを引き抜いて構えた。
その殺気立つ気配を感じ取ったシンヤもまた、絶望に満ちた表情のまま、反射的に戦闘態勢へと移行する。
事務所の扉の隙間から現れたのは、場違いなほどに華やかな装いをした、心春と同年代か、あるいは少し年上に見える可愛らしい女の子だった。
身体のラインを強調するタイトなショート丈のトップスに、脚を大胆に見せる短いボトムスを合わせ、大ぶりなアクセサリーが目立つその姿は何処にでもいるギャルにしか見えなかった。
真夜中の探偵事務所という殺伐とした場所に似つかわしくないその姿に、心春は一瞬、思考の行き場を失い困惑する。
しかし、その場に漂う空気が一変したのは、シンヤの反応を見てのことだった。シンヤは表情に貼り付けたような笑顔を崩すことなく、じりじりと一歩後ずさる。
「……俺を、追いかけてきやがったのか」
その言葉は、絶望を仮面で必死に包み隠そうとする、彼なりの精一杯の強がりだった。
そのギャル――正体不明の落神は、シンヤを見据えたまま、濡れたような妖艶な笑みを浮かべる。
「愛し合おうよ。二人で、溶け合お」
その甘ったるい言葉とは裏腹に、彼女から放たれる気配は死の予感そのものだった。
落神がシンヤへ向けて足を踏み出そうとした、その一瞬の隙を心春は見逃さなかった。
迷いを捨て、無言でグロックの引き金を引き絞る。乾いた銃声が事務所内に響き渡る。弾丸は一直線に落神へと向かったが、わずかに狙いを外し、彼女の右肩を掠めるようにして弾け飛んだ。
激痛を伴うはずの銃撃にも、落神は表情一つ変えない。彼女は素早い動きで玄関のドアを盾にするように隠れると、事務所の死角へとその姿を消した。
「ここ、神殺しのロキの住処でしょ? なんでこんなとこに逃げ込んでるの。早く愛し合おうよ、シンヤ」
落神は玄関のドアに身を隠しながら、妖艶な色香を漂わせる声でシンヤを誘い続ける。死の臭いを纏ったその甘い誘惑に、シンヤは即座に吐き捨てるように応じた。
「逃げ込んでねーよ。可愛い声でバカ言ってんじゃねぇ」
張り付いた笑顔の下に、先ほどまでの激しい動揺を完全に抑え込んだかのような、いつものシンヤの口調。その変化を確認した心春は、胸を撫で下ろす。シンヤが恐怖に飲まれず、戦士として意識を繋ぎ止めていることに、わずかな希望を見出したからだ。
落神がドアに隠れ、視界から外れているこの隙を突く。心春は手早く携帯端末を操作し、ロキの番号へ発信した。呼び出し音が鳴り始めたことを確認するやいなや、心春は迷わず携帯端末を床へと落とした。
端末が床にぶつかる無機質な音を立てた。着信音を鳴らし続ける端末は、ロキへの確実な信号だ。
グロックのグリップを握り直し、再びドアの影へ神経を集中させる。これでロキが異変に気づき、戻ってきてくれるはずだと信じて。
「神の寵愛なんかよりも、もっと気持ちよくしてあげるから」
落神の甘美で毒々しい囁きが、事務所の狭い空間を侵食していく。
その言葉が心春の神経を逆撫でする一方で、シンヤは戦意を維持したまま、隣に立つ心春へ低く告げた。
「俺に遠距離の攻撃は無い。悪いが、力になれん」
その告白に、心春はシンヤが何故これほどまでにロキを必要とし、深夜の事務所まで転がり込んできたのかを悟った。
自分にはない「遠距離」という手段をロキが持っているからこそ、彼はこの怪物に立ち向かえる唯一の希望としてロキを求めたのだ。
シンヤの言葉は、事実上の宣告でもあった。この場において、落神の脅威を直接排除できる遠距離火力を持つのは、自分しかいない。
その事実が、心春の華奢な両肩に「ロキの代わりを務めなければならない」という重圧としてずしりと沈み込む。
落ち着け。ここで震えていたら、全てが終わる。
焦りが引き金の指に伝わり、無意識に呼吸が浅くなっていることに気づく。
今のままでは、狙いも定まらずに弾丸を浪費するだけだ。心春は深く息を吸い込み、鼓動をゆっくりと制御していく。死地において最も必要なのは、技術以上に自分を律する冷徹な心だと、ロキの教えを胸に刻み込んだ。
「なんでこんな変なアロハ着てる男、執拗に追いかけてるの。趣味悪いよ」
グロックを構えたまま、わざと冷ややかな声を響かせた。挑発することで相手の冷静さを削ぎ、わずかな隙を作り出すための策でもあった。
その言葉に、背後にいるシンヤが即座に反応する。
「俺のお気に入りを貶すんじゃねぇよ」
シンヤの返答を聞き、心春は内心で苦笑した。極限状態であっても、相変わらずの調子だ。
しかし、落神もまた余裕を崩さない。
「神殺しと神の寵愛者のコンビの方が、よっぽど趣味悪いんじゃない?」
その声はどこまでも軽やかで、戦場というよりもまるで洒落た談笑の場にいるかのような錯覚を抱かせる。
今まで相対してきた落神たちは、暴力的な衝動を剥き出しにするタイプが多かった。しかし目の前の相手は、言葉と精神を揺さぶることで戦況を支配しようとしている。
心春は思考を高速回転させる。物理的な強さだけで圧倒できる相手ではない。無理に突撃すれば、触れたものを腐敗させるその能力の餌食になるだけだ。
距離を保てば、こちらが有利……。このまま拮抗した状態を維持できれば、ロキさんが戻ってくる。そうなれば、勝てる。
グロックのグリップを握り直し、額に滲む汗を無視して、玄関越しに潜む影を睨みつけた。心春にとっての勝利条件は、ロキの帰還。それまでの時間を、どれだけ長く、そして正確に繋ぎ止められるかが勝負の分かれ目だと考えた。
「神殺しはいないみたいね」
その言葉が投げかけられた瞬間、心春は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
しまった、と心春は唇を噛む。
会話によって時間を稼ごうとしていたが、逆に会話からロキがいないことを勘づかれた。
落神にとって、最大の脅威であるロキの不在を確信した今、この事務所という閉鎖空間はもはや安全な場所ではない。
隠れていた落神の気配が、がらりと変貌した。それまでの余裕を湛えた戯れのような空気は消え失せ、飢えた獣のような殺気が、玄関のドアの向こう側から濃厚に漂い始める。
突入してくると直感した瞬間、心春はグロックを構える両手に力を込めた。指先をトリガーに添え、呼吸を極限まで殺す。
シンヤもまた、心春の緊張を察知し、その青白い顔に硬い決意を宿して一歩横へと踏み出した。二人の視線は、扉の影から飛び出してくるであろう「腐敗の怪物」をただ一点、見据えている。
心春の鼓動が、自分の耳の中で鐘のように鳴り響いた。今、トリガーを引く指がわずかに沈む。すべては、次の刹那に懸かっていた。
隠れていた落神は風のように身を出すと同時にこちらに突進してくる。落神の突進は、ロキの洗練された神速には遠く及ばない。心春は己の視界の中にその軌道を完全に捉えた。
仕留められる
確信と共に、心春は三発の弾丸を立て続けに放った。照準は確実に眉間。接近される前に仕留める、その一心で絞り出した連射だった。
しかし、次の瞬間、心春の思考は凍りついた。
落神が掲げたその手に弾丸が接触した刹那、金属の鉛弾が、まるでおぞましい灰に変わるかのように崩れ去ったのだ。
弾道が死に、威力は無に帰す。
その手には、皮膚を貫くはずの穴一つ開くことはなかった。
「そんな……っ!」
絶望が心春の全身を駆け巡る。接近されたら、触れられたら最後、身体が腐り落ちる。
死が目前まで迫り、心春の指が焦燥で震えた。
狙うべきは足か、腕か、それとも――思考が混乱する。その思考すら許さないほど、落神との距離が急速に零へと収束していく。
その時だった。
「ーーーーーーー!!!!!」
事務所の空気が爆ぜた。背後から放たれたシンヤの咆哮は、獣のようであり、また神の怨念そのもののような凄絶な響きを帯びていた。
シンヤの全身から溢れ出したのは、底知れぬ邪悪さを孕んだ圧倒的なエネルギーの奔流だった。彼はその禍々しいオーラを鎧のように纏い、心春を庇うようにして、落神と心春の間に割って入った。
心春は咄嗟に、シンヤの背中へと手を伸ばした。これが今の状況を打開する唯一の手段だと、本能が告げていたからだ。
シンヤは迫り来る落神に対し、一切の躊躇を見せなかった。
シンヤの右拳が凄まじい爆発的な力を宿して落神の顔面へと叩き込まれる。
鈍い肉の破裂音と共に、美しいはずの落神の顔は無惨にひしゃげ、その衝撃で彼女の体は玄関の扉の先へと吹き飛んだ。背後の廊下の壁に激突する音が、事務所内に乾いた余韻を残す。
「やったか……!」
シンヤの胸に一瞬、勝利の確信が過ぎる。しかし、それと同時に左腕に走った異様な感触が、彼の現実を現実に引き戻した。
先ほどの一撃を繰り出した際、左腕を落神に掴まれていたのだ。
皮膚が、肉が、そして骨が、急速に黒ずみ、泥のように腐り落ちていく感覚。
自分の中を駆け巡っていた先ほどの熱気の裏側で、冷徹なまでの「死」が浸食してくるのをシンヤは確かに感じていた。腐敗という名の永劫の静寂が、自身の存在を塗りつぶそうとする。その悍ましい感触に、シンヤの背筋は氷柱に貫かれたかのように凍りついた。
その時心春の手のひらから眩い光が溢れ出し、シンヤの左腕を蝕んでいた腐敗の黒ずみを光の粒子で洗い流していく。
シンヤは信じられないものを見るような眼差しで、腕の腐敗の侵食が跡形もなく癒えていく様を見つめ、背後にいる心春へと顔を向けた。
廊下では、壁に叩きつけられた落神が、無残にひしゃげた顔を引き攣らせながら、震える手で体を起こそうともがいていた。
彼女の身体には先ほどの一撃が深い爪痕として残り、その瞳には死の恐怖が宿っている。近づいてくる足音に顔を上げ、落神は涙を流しながら懇願した。
「お願い……見逃して。もう、悪いことなんてしないから……っ!」
その泣き言に慈悲を示す者は誰もいなかった。
冷徹な眼差しでその哀れな姿を見下ろすと、躊躇うことなくデザートイーグルの引き金を絞る。
「しっかり悔い改めろ」
銃声が轟き、落神の額を正確に射抜く。脳天に風穴を開けられた落神は、糸が切れた人形のように崩れ落ち、やがてその身体は灰となって静かに散っていった。
宿っていた神の魂が、小さな光となって宙へ浮かび上がり、ロキの中へと消えていく。
事務所の廊下には、ただ静寂だけが取り残された。
『BlueMonday』前の路地裏、朝の気配が混ざり始めた夜空の下で、3人は静かに言葉を交わしていた。
シンヤはロキに向かって深く頭を下げた。
突然の厄介事を持ち込んだことへの謝罪と、助けてくれたことへの感謝を込めたものだった。ロキは呆れたように肩をすくめ、「まったくだ。次からは先に電話しろ」と告げると、探偵事務所『BlueMonday』の黒い名刺をシンヤへと手渡した。
その名刺を、シンヤは少し照れくさそうに受け取り、ポケットへとしまう。
続いてシンヤは心春に向き直り、はにかんだような素直な笑顔を向けた。
「お嬢ちゃんもありがとうな。お嬢ちゃんがいなかったら俺は死んでたわ。命の恩人だな」
その言葉に対し、心春は丁寧にお辞儀を返した。
「お互い様ですよ。こちらこそ、助けてくれてありがとうございました」
二人の間には、死線を共に潜り抜けた者同士にしか分からない静かな連帯感が流れていた。
ふと、シンヤが心春に顔を寄せ、誰にも聞こえないような小声で耳打ちをする。
「……あんな情けない姿は、みんなには内緒だからな?」
シンヤの必死な表情と耳打ちの様子に、心春は堪えきれずに小さく笑みをこぼした。
「わかりました」
心春の答えに満足したのか、シンヤは短く頷くと、明け方の淡い光に包まれ始めた街並みの中へと歩き出していった。
その背中を見送りながら、心春は自身の内側に芽生えた新しい責任と、ロキの仲間との距離が少しだけ縮まった時間を噛み締めていた。
「さて、俺らも戻るか」
ロキの言葉に、心春は小さくあくびを噛み殺しながら頷いた。「そうしましょう。もう、朝になっちゃいますね……」と、眠気に滲む瞳を指先でそっと擦る。長く、そして心身をすり減らすような過酷な一夜が、ようやく終わりを迎えようとしていた。
『BlueMonday』の扉を開け、事務所の静寂の中へと戻る。それぞれの自室へ向かおうと背を向けたその時、ロキが心春の名前を呼んで足を止めた。
「心春。……今日は、ほんとによくやった。ゆっくり休めよ」
その短い言葉には、任務を遂行した一人の戦士としての労いと、彼女を案じる確かな温もりが籠もっていた。思いがけない称賛に心春は頬を緩め、柔らかな笑みを返す。
「……こちらこそ、助けてくれてありがとうございます」
心春が「おやすみなさい、ロキ」と告げて自室の扉を開けると、ロキも短く「おやすみ」と応じ、それぞれの安息の地へと消えていった。
布団に潜り込むと、張り詰めていた神経が一気に緩んでいくのを感じる。
あの悍ましい腐敗の気配が支配していた熱帯夜は、今や嘘のように遠い記憶となった。
心春は、ロキから直接認められたという静かな充足感を胸の内に抱きながら、やがて抗いがたい深い眠りの中へと落ちていった。




