第二十六話
悠希くんが私の小説を好ましく思っていないことは、翌朝彼の表情を見てすぐにわかった。
悠希くんは自分のことを無表情で感情が伝わりにくいと思ってるみたいだけれど、私からすれば彼の心情を察することは台所から漂う匂いで夕食を予想するよりも簡単だ。
思ってもないことを言う時、悠希くんはくしゃりと目を強く瞑る。
彼と過ごした時間はそんなに長くないけれど、彼のことを考えていた時間はとても長い。
悠希くんが私のことを想って自分の考えを伝えあぐねていることすらも、わかる。
昔、私は悠希くんのことを『モモ』に出てくる亀のカシオペイアみたいと思ったことがあった。
カシオペイアは背中に文字を浮かべて意志を伝える。カシオペイアの言葉は毎回モモの疑問に直接答えてくれるものじゃないけれど、どの言葉にも嘘なく、そしてモモのためになる言葉だった。
それを私は、ひねくれてるように見えて真っ直ぐで、嘘をつけない悠希くんに似ているのと感じたのだ。
だから今の彼はどう伝えればいいのか悩んでいるのだろう。――私の、醜さを。
きっと私の小説は他人から見れば醜悪で、息苦しく、真っ暗闇な、絶望的なものに見えているのだろう。諌めたくなる気持ちもわかる。
でも、今の私の奥底にあるものはこれなんだよ。
きっとこの渇望を燃やして創作していれば、いつか悠希くんは私から離れて行ってしまうだろう。それでも、表現者としての私が囁くのだ。
これは人生を燃やし尽くしてでも世界に訴えかけるべき私の怒りだと。
そこまで考えて、私の思考の糸が認めたくない事実に結びつく。
これでは、私はその憎むべき母と同類だ。
「……血は争えない、か」
創作と天秤にかけられて切り捨てられた側の人間が、今度は自分が創作と他者を天秤にかけて後者を切り捨てようとしている。
笑い事ではないのに、寓話的なこの負の螺旋に苦笑してしまう。
「でも、私はそうはならない」
そう。お母さんと同じになんて、絶対になってやらない。
創作者としての自分か人間としての自分、そのどちらかを捨てなければいけないと言うのなら、私の選択肢はひとつだ。
どちらも捨てる。
それが、大切なものを何一つ切り捨てられない蒼井穂波に唯一残された切り札だった。
悠希くんは結局、私の小説について「これは、凄い小説だと思う。……少なくとも、俺にとっては」とだけ言ってくれた。彼は私のそばから離れることを少しためらっていたけれど、少し強引にお願いしたら早朝の電車で帰って行った。
徹夜だったみたいだから家に帰ったらきっとぐっすりだろう。ちょっと悪いことをしたな、と軽い罪悪感を覚える。
「さてと」
悠希くんを家に帰し、一息ついた私はリビングの惨状を眺めた。
「片付けますか」
午前中はいつも通り、家事をして過ごした。
しばらくの間出来ていなかった掃除、溜まっていた洗濯物、昨日着た浴衣の後始末。それらを丁寧にこなしていたらいつの間にか時計は正午を指し示していた。
時間を意識すると体が空腹を思い出したかのようにお腹がくぅと鳴った。
「洗い物作りたくないし、今日はウーバーでも使っちゃおうかな」
少し奮発してお寿司を注文する。
届いた中身を見たら私の好きなえんがわが入っていなかったのは残念だったけれど、お寿司自体は美味しかったのでペロリと平らげてしまった。
「ごちそうさまでした」
手を合わせて食事を終えた私は、棚から一枚の便箋を取り出した。
そこにつらつらと書くべきことを書き連ねる。書き上がった文面を三度読み返し、不備がないことを確認すると私はその便箋をダイニングテーブルの真ん中に目立つように置いた。
そして今度は昨日悠希くんに読んでもらった『ルヴァンシュ』を手に取る。
ここ二ヶ月ずっと一緒にいた小説だけれど、よく考えれば完成版を頭から最後まで通して読むタイミングはまだなかった。
一度くらいは、読んだ方がいいだろう。そう思った私はページを捲った。
一周目、思うような表現が出来ていなかったり、ストーリー展開に粗があったり、そういうところばかりに目がいって頭を抱えたくなった。
二周目、今度はなんだかんだ言ってもよく書けているんじゃないか、と自画自賛してしまう。
自分が自分の心情を書いたのだから当たり前だけれど、ひとつひとつの台詞が深く胸に刺さる。
この小説には私の想いがちゃんと正しく表現されていて、「私の作品」と呼ぶに相応しいと思った。これと比べたらなるほど、前までの小説は確かに無味無臭だったのだろう。
三周目、最後に悠希くんのことを想いながら読む。
『ルヴァンシュ』に悠希くんの存在は全く投影されていない。それは私にとって悠希くんがどうでもいいからなわけじゃない。
むしろその逆、この醜い私の想いで素直で純白な彼を汚したくなかったから。たとえそれが空想の世界であっても――当然、現実の世界であっても。
だから、私は心の中で悠希くんに謝る。
君と一緒に歩めない私を、許してほしい。
届くはずのないこの気持ちが届くことを祈って、私は原稿の最後の一ページを捲った。
三度目の読了を終えた頃には、窓の外はもう真っ暗だった。
「そろそろ、行きますか」
誰もいない家でそうつぶやいた私は、原稿を携えて家を出た。
この小説ごと、私をこの世から消し去るために。
それを思いついたのは今日の朝、悠希くんの顔を見てからだったけれど、なぜか自分の中で全てのピースがハマったかのような納得感があった。きっと、ずっと心のどこかでお母さんを憎む気持ちとお母さんに近づいてく私という矛盾を解消する方法がこれしかないことを理解していたんだと思う。
だから、恐怖もなかった。あるのはお父さんと友達、そして悠希くんへの申し訳なさだけ。
便箋には彼らへの謝罪を書いた。誰も悪くない、これは私の意志による決断だとそう書いた。
「だけど、やっぱり悠希くんには……」
一番最後の私の言葉は彼に送りたかった。私はスマホを取り出し、悠希くんにメッセージを飛ばす。
『ありがとう』
その一言だけ。すぐに既読がついたけれど、返信を待つことなく私はスマホの電源を切った。
ザザーン……という波の音が前方から聞こえてくる。
顔を上げるとそこは昨日の喧騒が嘘のように静まり返った、由比ガ浜海岸だった。
砂浜に降り立って周りを見渡す。花火大会の設備はすでに撤去されており、空と海と砂浜の境目がわからないくらいに真っ暗だ。
本来怖がるべきその暗闇も、私には体の輪郭が溶けてなくなってしまうような居心地の良さを感じていた。
一歩一歩私は海に近づいてく。するとあるタイミングで足にヒヤリとした感触を覚えた。
胸に抱えた原稿とともに私は闇と海に溶けていく。それを期待してさらに一歩踏み込んだ。
その時だった。
「きゃっ!」
痛いくらいの引っ張る力を肩に感じたかと思うやいなや、その直後私の体は宙に浮いていた。
いや、浮いているわけじゃなかった。それは勘違いで、正確には私の体は誰かに抱きかかえられていた。
数十メートル近い距離を抱きかかえられた状態で移動した後、街灯の明かりが届く距離まで来たところでようやくその人物の疲労困憊の顔が照らされる。
「悠希……くん……?」
彼は今ここにいるはずのない、一ノ瀬悠希その人だった。




