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第二十五話

「あーっ、花火めっちゃ良かったね!」

 花火大会が終わって周りの見物客が腰を上げる中、穂波も同じように立ち上がった。

 先ほどの涙がまるで俺の気のせいだったかのように振る舞う穂波を見て、俺は複雑な気持ちになりながら相槌を打つ。

「……あぁ、ちょっと感動したよ」

「なんだか上の空だなぁ、あんまり楽しくなかった?」

 花火に感動したのは本音だったけれど、上の空だったのも事実だった。穂波に指摘された俺は慌てて取り繕う。

「いやそんなことない。本当に感動したって」

「それなら良いけど……じゃっ、私の家行こっか」

 穂波の言葉を聞いて一瞬フリーズする。……そう言えば今日は元々穂波の書いた小説を読む予定だった。

「……そうだな」

「もしかして忘れてたー?」

「いや、こんなイベント挟んで忘れない方が無理だろ」

「それもそうかも。まあでもこっちがメインイベントだから」

「楽しみにしてる」

 陽気に喋る穂波の様子はさっきの涙が気のせいだったかのようで、俺は少しホッとする。杞憂ならそれが一番良い。

 俺たちは人の流れに乗って穂波の家に向かう。人混みで離れ離れにならないよう、二人の手は花火大会からずっと繋がれたままだった。




「散らかってるけどごめんね」

 穂波はそう言いながら部屋の照明をパチリ、とつけた。シーリングライトに照らされた部屋を見て、彼女の言葉が謙遜じゃなく事実であることを知る。

「……まあ、直前まで書いてたならこうもなるか」

 ダイニングテーブルにはシャーペンと消しゴムが無造作に転がっており、その横にまっさらな原稿用紙が散乱している。

 けれどテーブルの一角だけはその惨状が嘘のように整えられていた。そこには右上を綴じ紐で留められた一束の完成原稿が鎮座している。

「これが穂波が書いてた話か」

 手に取って表紙に書かれたタイトルを読む。


『ルヴァンシュ』


 それがこの小説のタイトルだった。なんとなくこれはフランス語なんじゃないかな、と思う。とは言え意味はわからないけれど。

「じゃあ、この原稿借りるよ。あ、コピー取った方がいいか」

 時計を見るともう夜の九時を回っていた。今から読んだら終電ギリギリになってしまう。

 だから原稿ないしそのコピーを借りて帰るというのは当然の思考の帰結で、それは穂波も同じだと思っていた。

 けれど俺の言葉に穂波は首を横に振った。

「ううん。今、ここで読んでほしい」

「え?」

 想定外の言葉に思わず間抜けな声が出てしまう。けれど穂波はそんな俺の反応こそ不思議だと言わんばかりに首を傾げた。

「明日は土曜日だよ? それとも悠希くんは何か用事でもある?」

「用事なんか、ないけど……」

 元々穂波の小説を読むために明日の予定は空けていた。だけど、まさかこんな時間から読むことになるとは考えていない。

 でも穂波は今から小説を読むことは決定事項として、俺の肩をポンポンと叩く。

「じゃ、決まりだね。終電過ぎたら泊まっていいから」

「は、はい……」

 本来、彼女の家にお泊まりなんて歓迎すべきイベントなんだろう。でも俺は安易に喜ぶことができなかった。

 穂波が今この小説を俺に読ませることに固執すること自体に、何か不穏なものを感じたから。

 でも俺の猜疑心は次の穂波の言葉で吹っ飛んでしまった。

「それじゃ、私先にシャワー浴びるね。出たら悠希くんも好きに使っていいから」

「あ……あぁ……」

 そういう状況じゃないとはいえ、女の子の口から放たれたシャワーという単語の響きに心拍数が跳ね上がってしまう。

「待ってる間に読んでてね」

 そう言い残して穂波はお風呂場に向かった。ひとりリビングに取り残された俺は、椅子に腰を下ろし原稿と向き合う。

「……とりあえず、読むか」

 廊下から聞こえてくる浴衣を脱ぐ衣擦れの音のせいで集中できる気は全くしないけれど。

 俺はそんなことを考えながら原稿用紙を一ページ、捲る。その直後から、俺の意識はしばらくの間活字の世界から浮上しなかった。

 穂波がシャワーから出たことにも、可愛いパジャマ姿でリビングに現れたことにも、反応のない俺を尻目に寝てしまったことにも、リビングに俺用の布団が敷かれていることにも、全く気づかず俺はページを捲り続けていた。

 それくらい、俺はその小説を読むことに集中していた。

 だから穂波の原稿を読み終わって意識が現実世界に戻ってきた時、俺は激しい渇きに襲われた。そこに至って俺はようやく長い時間水分を取っていないことに気付く。

「……っ……ハァ……ハァ……」

 けれどそれ以上に――俺は込み上げた吐き気を抑えきれず、思わずトイレへと駆け込んでいた。

「……うっ」

 なんとか吐いてしまうことは耐え、えずきが収まってからスマホで時刻を確認すると既に夜中の零時を回っていた。読み始めてからおよそ三時間が経った計算になる。以前穂波の作品を読んだ時の倍程度の時間がかかったが、体感で言えばむしろその半分ほどの時間しか感じられなかった。

 それくらい今回の小説は濃密で――この間読んだ穂波の小説からは感じられなかった、強烈な意志があった。

 そのこと自体は賞賛されるべきことなのだろうけれど、この話から伝わってきた意志の内容を考えると俺は素直に喜べなかった。

 穂波の新しい小説は、主人公を捨てた母親に復讐する少女の物語だった。主人公のモデルは考えるまでもなく穂波自身で、それ故にこの物語に込められた想いは直接的に伝わって来る。

「……怒り、憎悪、衝動」

 そこには普段の穂波からは想像することのできない、燃え上がるような負の感情があった。

 それが向けられている先は当然、彼女の母親なのだろう。

 作中のクライマックス、主人公が母親に復讐を遂げるシーン、こういうセリフがある。


『私は、お前のようには絶対にならない!』


 このセリフが、俺には深く深く突き刺さった。それは穂波の事情を知っていると言う理由もあったかもしれないが、作中における主人公の感情の変遷を踏襲した上でこの言葉には力があった。

 きっと、何も知らない読者にもこのセリフは刺さる。そんな無根拠な確信があった。

 創作物の価値が読者の心への訴求力の多寡で決まるのならば、この小説の価値は高い。売れる売れないとか、賞を獲れる獲れないについてはわからないが、少なくとも過去に穂波の書いていた話よりは遥かに読者を引き込む何かを持っている。

 俺はトイレの扉を閉じ、リビングに戻る。ダイニングテーブルの上に結露したコップが置かれていることに気付く。穂波が用意してくれたのだろう、俺はその中に入った麦茶を一気に飲み干した。渇きが一気に潤され、痛みにも似た刺激が喉に走る。

「……ぷは」

寝室から微かに聞こえる穂波の寝息を聞きながら、俺は葛藤していた。

 ……本当に、これでいいのか?

 負の感情を増幅させるような小説はよろしくないとか、そういう倫理的なことを言いたいんじゃない。

 もし仮にこの小説が賞を取ったりして穂波が成功体験を得てしまったら、彼女の作家としての方向性が決まってしまう気がする。

 ……怒り、憎しみ、そういうものを創作の燃料にする、苛烈な作家に。そしてその原動力である母親への憎悪を絶やさないために、穂波は二度と美知留さんと和解することはなくなるだろう。

 それは果たして、穂波にとって幸せなことなのだろうか。

 じゃあ穂波に「この小説は良くない。君らしくない」と伝えるか? ……それも俺にはできない。単純に嘘をつきたくないのもあるが、これは今まで己の作家性というものを見出せなかった穂波が、足掻いて苦しんで心を痛めて手に入れた掛け替えのない宝だ。それを彼女から取り上げてしまうなら、俺は別の宝を提示しなければならない。

 そして、今の俺は穂波に提示してあげるだけの何かを持ち合わせていない。

 深夜特有の静寂の只中で、俺は今日の――正確には昨日のだが――穂波を思い出す。

 なによりも不安だったのは、今日の穂波の雰囲気にいつもと違うものを感じたからだ。

 元気で明るい、いつも通りの穂波だったはずなのに、なぜか彼女の佇まいには儚さを感じてしまった。

 これが俺の杞憂なら全く問題ないけれど、そう簡単に割り切れない。

 なにか……とんでもないことをしでかしてしまうんじゃないか、そんな心配が尽きなかった。

 でも俺は口下手だから、思ってもないことで言いくるめたり吐き出させたりはできない。

 いったい俺に何が出来る? 穂波のために、何が出来るんだ?

 しばらくの間、己の無力さに頭を掻きむしった俺は、再び原稿用紙を一ページ目から捲り始める。

 少なくとも俺には本を読むことはできる。他に何もできないのなら、それをするだけだ。

 二回目が読み終われば三回目。三回目が読み終われば四回目。それを何度も何度も繰り返し……太陽が昇ってくる頃にあることに気づく。

「もしかしたら……」

 今の俺が持っている数少ない手札。それを、この原稿を利用して機能させられるかもしれない。

 そっと目線を廊下に向ける。まだ穂波が起きてくる様子はない。

 それを確認した俺はこっそりと、穂波の原稿にひとつ仕掛けをした。

 何の役に立つか、それとも機能するかすらわからない、小さな小さな仕掛け。

 そもそも俺の考えが全部杞憂で役に立たないことが一番だけれど、万が一の時はこの仕掛けが機能することを祈って俺は穂波が起きてくるのを待った。


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