第二十四話
穂波と会えない期間が始まって俺は凹んでいたかというと……そんなことはなかった。そんな余裕がなかった、という方が近いか。
なぜか。高校に入って初めての中間試験があったからだ。
それなりの進学校に入った手前、試験勉強はまあまあキツかった。それでも現代文だけはノー勉でどうにかしたけど。本読みの特権だ。
そうやってなんとか乗り切った試験終了直後の土曜の昼下がり、俺はリビングのソファでボーッとしていると自室から起き出してきたパジャマ姿の桜が目に入る。
「……ずいぶん遅いお目覚めだな」
「うるさいなあ、別にいいじゃんテスト明けなんだし。あーあ、中学生はもっと自由だと思ったんだけどなぁ」
桜は冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注ぎながら愚痴る。コップ片手にキッチンから出てきた桜は俺を見ると何かを思い出したように口を開いた。
「そう言えば悠ちゃ……お兄ちゃん、今日は家いるんだ」
「別に、いつもいるだろ」
そんなに頻繁に出かけてるつもりはないが。けれど桜は俺の返答に納得いかない様子で激しく首を横に振った。
「いやいや、ついこの間までは週末なんていつも部屋に篭って本を読むかそうじゃなければ本屋で買い込んでくるかのどっちかだったじゃん。最近はよく出掛けてるし、帰ってきても本買ってきてないこと多いし」
「あぁ……まあ、そうか」
会場となっている場所は由比ヶ浜海岸そのもので、多くの見物客が既に陣取っていた。
俺たちは人混みの間にわずかな隙間を見つけ、スペースを確保する。とは言え砂浜に直接腰を下ろすのは気が引けるな、と思っていたら穂波がどこからか小物入れを取り出した。
「小さめのレジャーシート持ってきたんだ」
はにかむ穂波は出来る限り周りの人の邪魔にならないよう、砂浜の上にシートを広げる。
自分の隣のスペースをポンポンと叩き、「はい、どうぞ」と俺を手招きした。
「ありがとう」
お礼を言ってから俺は腰を下ろす。まだ花火大会の開始まで時間があるようで会場は喧騒に包まれていた。
ワクワクとした気持ちを隠す様子もなく隣に座る穂波も口を開いた。
「私も観るのは初めてなんだけどね、鎌倉花火大会の名物は水中花火なんだそうだよ」
「水中花火?」
単語を聞いてもあまりピンとこない。水の中で花火が開いても地上にいる俺たちには見えないのではないだろうか。そもそも水の中では消えないのか?
俺の疑問を読み取ったかのように穂波は解説を入れる。
「水中花火っていうのはね、文字通り水上の船から水中に向かって花火を打ち込むものを言うらしいよ。花火は燃焼剤を使ってるからちゃんと爆発して花が開くんだって」
「ふーん」
「あー、今悠希くん普通に打ち上げれば良いのに、って思ったでしょ」
「いやまあ……どんな花火がわからないからわざわざ水中に打ち込む意味がよくわからないとは思ったけど」
「ロマンないなあ、まったく」
俺の退屈な意見に呆れたように言葉を零す穂波だったが、なぜだかその表情は少し嬉しそうだった。
しばらく待っていたら会場のスピーカーから花火大会開始のアナウンスが響き、それまで思い思いに喋っていた観衆が一つの意思を持ったかのように静まり返る。
その静寂が維持されたのを確認するだけの時間が経った後、ひゅうという聞き馴染みのある音が風に乗って耳に届く。最初の花火は普通の打ち上げ花火のようだ。
海上から一筋の明かりが天空へと伸び――やがてドン、という打ち上げ花火特有の重低音とお腹の底に響くような衝撃を感じる。同時、薄暗くなった湘南の空をキャンバスに色鮮やかな菊が花開いた。
「綺麗だねぇ」
「あぁ、綺麗だ。本当に」
今まで花火に何かしらの感傷を覚えたことはなかったけれど、穂波と二人で見る花火はお世辞抜きで美しかった。
お互いに示し合わすことなく俺の左手と穂波の右手は、いつの間にか結ばれていた。
花火が打ち上がる衝撃が来るたびに、穂波の右手がぴくりと動くのが繋いだ手を介して伝わってくる。
幸福というのは、こういう時間を言うのだろう。俺は天に昇る花火の数々を見ながらぼんやりとそう思った。
しばらく花火が打ち上がった後、昼の余韻が残っていた薄暗い空は今や完全に闇に染まっていた。
「あっ、次水中花火やるみたいだよ」
プログラムを見た穂波は小声で俺にそう伝えてきた。
どんなもんだろうか、と品定めする目線を海に向けた直後、パンッという破裂音が鳴り響く。ほぼ同時、橙色の半円が突然相模湾に現れた。打ち上げ時特有の音がなかったから少し驚いてしまう。空に打ち上げない分、花火までの距離が近く感じられた。
驚きが冷める間もなく、次々と花火が水中に撃ち込まれ絶え間なく夜を照らしていく。
本来暗闇でわからないはずの空と海の境界線。花火が炸裂するたびにその境界線がくっきりと目に映り、極彩色の花火とその輝きを淡く反射する海面、そして漆黒の空が色彩の三重奏を表現していた。
「凄いな……」
初めて観る光景に、思わず俺の口から本音が漏れる。穂波はどうなんだろうか、と気づかれないようにこっそりと彼女の方を向いて、すぐに顔の位置を元に戻す。
穂波は、泣いていた。
一瞬だったから彼女の表情をちゃんとは捉えられなかったけれど、ポジティブな感情からくる涙のようにはどうしても思えなかった。
いつもは力強い存在感を放つ穂波が、今日は今にも消え去ってしまいそうに感じる。俺はそんな考えを打ち消すために穂波と繋いだ手を強く握った。
けれどその後、向こうから握り返してくる力を感じることは、なかった。
穂波と会いに出かけている時のことを言っているのだろう。言われてみれば確かに四月以降家から出る休日が増えたかもしれない。
「高校で遊びに連れてってくれる友達でもできた? まさかお兄ちゃんに限って彼女作ったなんてことはないだろうけど」
「……」
そのまさかなんだがいろいろ面倒くさいので黙っておく。うっかり口を滑らせた暁には根掘り葉掘りどころか温泉を掘り当てる勢いで質問攻めにされるのは必至だ。
それでなくとも今現在一方的にあれこれ言われている状態になんだかムカついてきた俺は、ふと頭に浮かんだ質問を桜にぶつけてみる。
「なあ桜……頼りになる男、ってどんなやつだと思う?」
「ぷはぁ……何、急に」
ごくごくとコップを傾けて麦茶を飲み干した桜は訝しげに俺を見る。
「いや、女子の目線からどういう男が頼りになるのかちょっと気になって」
「えー、もしかして好きな子でも出来た〜?」
「……お前に聞いた俺がバカだった、寝る」
茶化してくるバカ妹に愛想が尽きた俺は自室に帰ろうとする。その様子を見た桜は慌てて俺の服の裾を引っ張って引き留めた。
「わー! 待って待って、ちゃんと答えるから」
「……初めからそうしろ」
俺は軽くため息をついてソファに戻る。
「ごめんって。でも頼りになる男の人、ねえ……」
しばらく腕を組んで唸っていた桜は、不躾に俺の体をジロジロと眺めて口を開いた。
「うーん、どういう男の人が頼りになるかは人によると思うけど……とりあえずお兄ちゃんは頼るにはヒョロすぎるよ」
「あぁ?」
「凄まないでって。自分だってわかってるでしょ、体の線が細いこと。インドアだから〜なんてのは言い訳だよ?」
「それは……そうかもしれない」
確かに頼りになるかどうかという観点でヒョロガリは大きなマイナスだろう。なんなら肥満の方がマシかもしれない。
「ま、お兄ちゃんなら身体鍛えるより本読んでる時間を優先するんだろうけど。根っからの読書バカだもんねー」
俺のことを煽り散らかした桜は、パタパタとパジャマの袖を揺らしながら自室に帰っていった。
「頼るにはヒョロすぎる、ね……」
男らしさなんて言葉が禁句になりつつある今でも、人の心中はそう簡単には変わらない。
ヒョロい男よりガタイのいい男の方が頼りになる、なんてのはどんな人だって思うことだろう。
とは言ったものの今更運動部に入れるほど厚顔無恥じゃないし、かと言って独学でやるには知識不足だし、頼れる人もいない。
「……いや、ひとりいると言えばいるか」
いやでもこんなくだらないことで連絡とっていいのか? 怒られない?
俺は小一時間悩んだ挙句、結局チャットアプリを開いてとある連絡先にメッセージを打ち込み始めた。
あの本屋での出来事から二ヶ月が経ち、七月も半ばに突入したある日、穂波からメッセージが飛んできた。
『久しぶり。今週の金曜日、会えない?』
『執筆は終わったの?』
『大体は。少なくとも金曜日には書き終わってるかな。だから悠希くんに読んでほしいなって』
『ぜひ読ませて欲しい』
『ありがとう。それでさ、十八時頃に鎌倉駅に来て欲しいんだ』
『十八時? 結構遅めだね』
『無理そう?』
『いや、多分大丈夫』
母さんにはなんか言われるかもしれないが、まあ前もって言っておけば大丈夫だろう。
それにしても土日じゃなくて金曜日なのはなぜだろうか。週末は予定でも入っているのかもしれない。
当日、学校から一度帰ってラフな格好に着替えた俺は電車に揺られていた。
鎌倉へ向かう横須賀線の車内は、なんだか前に乗った時よりもずっと混雑しているように感じた。それに浴衣を着てる人がチラホラといる。
どこかで花火大会でもやっているのかな、なんていう疑問が如何に間抜けだったかは鎌倉駅で降りた時に明らかになった。
『本日開催! 鎌倉花火大会』
道理で電車が混んでいたわけだ。穂波はなんでわざわざこんな混雑する日に呼んだのだろうか?
既に穂波には連絡を入れていたが駅前にはまだ彼女の姿はなかった。この混雑だ、人の流れに逆らって駅前まで来るのは一苦労だろう。
以前来た時に穂波の家の位置は把握していたので直接向かえばいいと思ったが、穂波からは駅前で待っているように言われていた。
花火大会へ向かっていく人たちの流れを手持ち無沙汰に眺めながら邪魔にならないよう隅の方で数分待っていたら、視界外から聞き覚えのある声をかけられる。
「悠希くん。お待たせっ」
「ああ、穂波。久し……ぶり……」
穂波の姿が目に入った瞬間、俺は思わずフリーズしてしまった。彼女が纏っていたのは稲穂の意匠が施された薄橙色の浴衣だったから。
「……っ」
「悠希くん?」
驚きと見惚れるあまり絶句していた俺の顔を穂波は下から覗き込んでくる。
ようやく我に帰った俺は、穂波に確認する。
「今日は、穂波の書いた小説を読ませてくれるんじゃ……?」
「そうだよ、そうなんだけど……せっかくだし花火大会を二人で楽しみたいなって思って。……ダメ?」
「ダメなわけない」
ダメなわけあるはずがない。
「よかったっ!」
そう言って弾むように喜んだ穂波に、なぜか俺は言葉にならない不安を覚えてしまう。
彼女の明るい笑顔に、普段は感じない儚さを見てしまったのは俺の勘違いだっただろうか。
「……悠希くん、なんか変わった?」
穂波の様子に不穏さを感じていた俺をよそに、ジロジロと俺のことを頭のてっぺんから足のつま先まで眺めていた穂波はなんだか気になった様子で聞いてきた。
す、鋭い……。でもまだ言いたくないんだよなあ。どう誤魔化そう。
「ま、まあ男子、三日会わざれば刮目して見よって言うしな」
「いやなんかそういう雰囲気的なことじゃなくて……」
「それより早く行かないと良い位置取られちゃうんじゃないのか?」
「えっ、うん……そうだね、行こっか!」
穂波はなんだか納得いかないように首を捻っていたが、結局よくわからなかったのか俺の腕を引っ張って移動を促す。
海岸が会場になっているとのことで、俺たちはそこに向かって歩き始めた。
以前訪れた時は夕方には観光客の数も落ち着いていたのに、今日はむしろ
若宮大路がこんなに人で溢れているのは初めて見た……まだ三回目だけど。
制服で遊びに来ている高校生や、浴衣姿のカップル、意外にお爺ちゃんお婆ちゃんなんかもいたりして、老若男女が楽しそうに笑っていた。
人混みは得意な方じゃないけれど周りの人たちがみんな特別なイベントに浮き足立っている中、その高揚感に身を委ねるのは案外と悪い気持ちではなかった。
隣で背伸びした穂波が何かを見つけたように正面に向けて指を差した。
「あっ、あの屋台たこ焼きと焼きそばどっちも売ってる! 買おうよ」
「穂波って意外に食いしん坊だよね」
お祭りに来ていきなりたこ焼きと焼きそばの二刀流はよほどの健啖家だろう。まだ十八時回ったところだし。
けれど穂波はきょとんとする。
「だってお祭りの屋台といえばたこ焼きと焼きそばでしょ」
「ホントか……?」
それはお祭りというより大阪では……?
「むぅ……そんな言うなら悠希くんはお祭りで何買うの?」
「そう言われると、なんだろう」
穂波の問いに少し考えて、最初に頭に浮かんだをそのまま口に出す。
「……わたあめ、とか」
「ふふっ」
俺の答えを聞いた穂波はなぜか笑いを漏らした。なんだか妙に恥ずかしくなった俺は顔を赤くしながら穂波に突っかかる。
「なんで笑うんだよ」
「意外に子供っぽいなって思って」
「……あの装置で作る工程が面白いんだよ」
「後付けっぽーい」
「そんなことないって」
そういう、取り留めもない会話をしながら俺たちはゆっくりと周りに合わせて歩を進める。
人混みの進む速度は牛歩もいいところだったけれど、この時間に居心地の良さを感じていた俺にとってちょうどよかった。
途中で買ったたこ焼きと焼きそばを持って道脇に避難する。
プラスチック容器を開くと中に閉じ込められていた湯気がふわっと広がり、鼻をソースの匂いがくすぐった。
少し大きめのたこ焼きに爪楊枝を刺し、そのまま口に持っていく穂波を見て俺は少し慌てる。
「それ丸々食べるのか? 熱くない?」
「うーん……まあ、大丈夫でしょ」
どんな根拠があるのか全くわからないが自信満々な穂波はパクッとたこ焼きを頬張り、案の定熱さに悶える。
「あふっ! あひひ!」
「言わんこっちゃない。今日来る途中に買った水あるから飲んで」
そう言ってペットボトルの水を差し出す。
はふはふしながら身悶えしている穂波の姿は愛おしかった。
俺が考えていることを見抜いたのか、穂波は熱さに表情を歪めながら頬を膨らませた。
「なんだか私だけ苦しんだの納得いかないな。……悠希くんも食らえ」
なんとも理不尽な言い分で穂波は二個目のたこ焼きを俺の口に突っ込んで来た。
「えっちょっ、モゴゴゴゴ……あっふ!」
外はカリッと中はドロっと、完璧な具合で焼かれたたこ焼きは、その完璧さ故に中身の流動性ある生地が絡み付いて俺の喉を焼き尽くしてくる。
あっつ!
喉を抑えて苦しむ俺を見た穂波はしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべてこう言った。
「目には目をってこういうことだよね」
穂波からひったくった水でたこ焼きを流し込んだ俺は息を荒くしながら反論する。
「……ハァハァハァ。いや俺は穂波の口にたこ焼き突っ込んでないし違うだろ、ハンムラビ法典に謝れ……」
「あははっ」
そんなこんなで俺たちはあっという間に食べ終えてしまう。買った時は量が多いかなとも思ったが、二人で食べると一瞬だった。俺たちは仮設のゴミ袋に容器を捨て、再び歩き始めた。
普段二十分も歩けば着く海岸に今日はまだ半分も近づいていない。
道中で時折、射的やヨーヨー釣りの屋台で足を止め、二人でお金を払ってチャレンジする。
不器用な俺は有り金を巻き上げられただけだったが、穂波は射的でうまいことラムネ菓子を撃ち抜いていた。店の前から立ち去った後、穂波からひとつお裾分けをもらう。
「おいし?」
穂波は繋いだ手とは反対側の手を使い、ヨーヨーで手遊びしながら俺の顔を覗いてきた。
「……まあ、美味しいよ」
ただの市販品のお菓子だったから正直美味しいも何もないはずだったけれど、なんだかいつもより甘く感じた。




