第二十三話
エレベーターホールに設置された椅子に二人並んで腰掛ける。
颯斗さんは自動販売機で微糖の缶コーヒーを二つ購入してからひとつを俺に差し出した。
「コーヒーは飲めるかい?」
「はい……」
俺は受け取った缶コーヒーを開けるのに何回か失敗してからやっと成功し、口をつける。
糖分がじんわりと頭に回っていく感覚を覚える。そこで初めて自分自身が極度の緊張状態にいたことに気づく。
ずっと握りしめていた拳を開くと、そこは手汗まみれだった。少し落ち着いた俺は、おずおずと口を開く。
「は、じめまして。一ノ瀬悠希です。すみません……俺があの人を引き留めたりしなければこんなことには」
引き留めるにしても今のように外で話すなり他にやりようはあったはずだ。正直この人に殴られたって文句は言えない。
けれどこの筋骨隆々の偉丈夫は、その威圧的な肉体とは裏腹にとても優しかった。
「それはいいんだ。君は事情を知らなかったんだろうし、あの状況だ。そこまで考えが回らなくても仕方がない。それよりも……初めましてでは、ないだろう?」
颯斗さんは一呼吸置いて続ける。
「パリで一度会ったことがある」
「……覚えていたんですね」
たった一度だけ顔を合わせただけの俺のことをこの人は覚えていたらしい。
「パリにいた頃穂波は良く君の話をしていたからね。それに日本に帰ってから絶対送ると言われていた手紙が届かなくて、かなり落ち込んでいた。あの子は優しい子だから表立っては見せてなかったけれど」
「それは……すみません」
この人からすれば俺は穂波を落ち込ませるわ、母親との諍いに誘導するわでクソ野郎もいいところだろう。俺にも事情はあったとはいえ今は言い訳する気力もなかった。
けれど颯斗さんは穏やかな口調で言葉を続ける。
「いや、今君が穂波の隣にいるということはそういうことなんだろう。わたしから特に言うことはないよ」
「ありがとう……ございます……?」
「お礼を言われることじゃない。……穂波とは毎週一回は会うようにしてるんだけどね。ここ最近、週末に予定が入ってると言われることが増えた。彼氏でもできたのかとは思っていたが……まさかそれが君だとは思わなかったよ」
俺が電話した時に動揺が少なかったのは。交際相手の存在を薄々認知していたからだったのか。離れて暮らしているのに随分鋭い観察眼だと感心する。
「それで……君にひとつお願いがあるんだ」
襟を正してそう言ってきた颯斗さんの姿に、俺は思わず身構えてしまう。……別れてほしいとでも言われるのだろうか。
しかし颯斗さんの言葉は俺の予想とは真逆の答えだった。
「これからも穂波のことを支えてくれないかい?」
「それは……もちろんです」
言われるまでもないことだ。ずっとそうしたいと思っている。……俺にそれができるかはわからないけれど。
颯斗さんは悩ましい顔をしていた。それは娘のすべてを知りたいと思いながらそれが不可能であることを頭では理解している親の顔のようだった。
「穂波は優しい子だ。度が過ぎるくらいに。でもそれはたぶん元からじゃなく、彼女の母への当てつけからなんだ」
「……! そうか……」
颯斗さんの言葉を聞いて気づく。
誰からも嫌われたくない。誰もを好きでいたい。穂波は過去にそう言っていた。
それは創作者としての自分を守るために穂波と颯斗さんを捨てた盈に対する当てつけからと考えれば納得できる。そしてそれは小説を書いていることすら当てはまるのだろう。
穂波は誰もを切り捨てない自分のまま、盈を超える小説を書くことで自分の母親を否定したいのかもしれない。
「わたしが未知留と別れてから、穂波は誰かのことをからかうなんてことすらしない子だった。からかうって行為は一歩間違えれば他人を傷つけるからね。でもある時期以降、食卓での会話でよく君の話をするようになった。からかうとムッとした顔をして面白いだとかね」
確かに当時よく穂波にからかわれた。でもそれが気にならないくらい、俺は穂波のことが好きだった。
「だからきっと君には穂波はもっと根っこのところを見せてるんじゃないかって思ってる。わたしにも見せてない根っこをね。……だからわたしが見れないところは君に守っていてほしいんだ」
「……はい。俺に出来ることなら、なんでも」
果たして今の俺に穂波を守るなんてことができるのだろうか。そんな情けない心持ちは胸に閉まったまま、答えた時だった。
「お父さん、悠希くん。ちょっといい?」
俺と颯斗さんは同時に声の方向へ顔を向ける。そこには病衣を纏った穂波が佇んでいた。
「穂波! 寝てないとダメだろう」
颯斗さんが少し語気を強めて穂波を叱るが、当の本人はどこ吹く風だ。
「問題ないよ。ちゃんと看護師さんの許可も取ったから」
「そういう問題では……」
「ちょっと、お願いがあって」
「……?」
颯斗さんの言葉を遮った穂波はなぜか俺の方をチラッと見る。その後ゆっくりと父親に視線を戻し、こう言った。
「お父さん、悠希くんと少し話をさせて」
「え……?」
思わぬ言葉に俺は面食らった。颯斗さんも渋い顔をしている。
「しかし……」
穂波の願いを聞いた颯斗さんは難色を示していた。少なくとも今日のうちはこれ以上余計な刺激を娘に与えたくはないだろう。その気持ちは痛いほどわかる。
でも穂波はあの真っ直ぐな瞳で父親を見つめ、訴えかける。
「大丈夫だから」
しばらく黙って二人は目を合わせていたが、やがて颯斗さんは諦めたように「はぁ」とため息をついた。
「……わかった。ただし病室で横になって話しなさい。お父さんは外にいるから」
それが颯斗さんの譲れないラインだった。颯斗さんの言葉を聞いた穂波はこくりと頷き、今度は俺に視線を向けた。
「ありがとう。……いこっか、悠希くん」
「あ……あぁ……」
あれだけ精神的ショックを受けたはずの穂波の足取りは、なぜか軽かった。その様子に困惑している俺の足取りはむしろ重く、はたからみたらどちらが病人か分からなかっただろう。
病室に戻ってくると太陽はすっかり沈んでいて室内は真っ暗だった。パチリ、と照明のスイッチを入れる。
「よいしょ」
のそのそとベッドに戻ろうとする穂波に声をかける。
「手を貸そうか?」
「いいよ。……全く二人とも心配性だなあ」
ベッドに収まった穂波はしばらくもぞもぞと体をくねらせてたけど、やがてポジションを見つけると動きを止めポツリと呟いた。
「……見苦しいところを見せちゃったね」
「そんなことない! 穂波が嫌いだって言ってた理由がわかったよ。きっと穂波の気持ちの一パーセントもわかってないんだろうけど……俺もあいつは嫌いだ」
「……」
俺の言葉を聞いた穂波の顔が曇る。俺にそんなことを言わせてしまったのを心苦しく思っているのか――それとも、俺に母親を悪く言われたことに思うところがあるのか。
気まずくなった俺は本来の話題に立ち返った。
「それで、話って?」
「あぁ……うん……それね……」
穂波はしばらくの間言いにくそうにしていたけれど、意を決して口を開いた。
「……しばらく、会うのを控えたいなって」
穂波の言葉を聞いた俺の頭は真っ白になった。
「それは、距離を置きたい……ってことか?」
恋愛事情に疎い俺ですら「距離を置く」というカップルは破局寸前であることくらいは知っている。
けれど俺の不安を他所に穂波はブンブンと顔を横に振った。
「違う、違うよ。やりたいことが、できたんだ」
「やりたいこと?」
「うん……新しい小説を書きたい」
つまり俺と会いたくないわけじゃなく、しばらくの間小説を書く時間を作りたいってことか。それを聞いて少し安心した。
でも……。
「それなら別に今まで通り会いながらでもいいんじゃないか?」
さっき颯斗さんから穂波を頼まれた手前、俺は見苦しく食い下がるが穂波は被りを振る。
「三……いや二ヶ月間、集中して書きたいんだ。できるだけ一人で。……今なら殻を破れる気がする」
穂波は笑みを浮かべながらそう呟いた。
その発言は前向きなもので、本来なら不幸中の幸いと喜ぶべきなのだろう。
それでも俺が手放しで喜べなかったのは、穂波の笑顔が凄絶と表現するべき代物だったから。
「……そっか。じゃあ待ってるよ。書き終わったら読ませてくれ」
けれど俺にはこれ以上穂波を止める材料は持ち合わせていなかった。穂波が書く新しい小説が気にならないと言えば、嘘になるし。
「うん、一番にお願いするね」
だから俺は穂波のその言葉を胸に病院を後にするしかなかった。そこには、一抹の不安が添えられていたけれど。




