第二十二話
病院での検査の結果、体に特に異常はなく救急対応してくれた医師からは「血管迷走神経反射性失神」だと言われた。
病名はよくわからないが、強い精神的ストレスに晒された結果として失神などの症状が出てしまったらしい。注射の時に失神するのと同じものだそうだ。
数時間のうちには覚醒すると思います、と告げた医師はそのまま病室を後にした。
しんと静まり返った病室で穂波は静かに眠っていた。
俺自身、ようやく落ち着いたことで今まで見えていなかった周りの状況が脳内に流れ込んでくる。
鼻にツンとくる消毒液の匂い。
清潔感を示すために至る所に使われる真っ白な布地。
時折病室の外から聞こえる「ガチャン」という金属音。
そのどれもが非日常的でありながら、考えたくない何かを連想させるようで恐ろしかった。
日が傾き、西日がきつくなってきたので俺はレースカーテンを引いて穂波に当たる日光を和らげる。
「……そうだ」
少し薄暗くなった病室でまだ俺にはするべきことが残っていたことに気づく。
預かっている穂波のカバンの中から持ち物をひとつ拝借する。
「ごめん、緊急事態だから」
そう謝って穂波のスマホを手に病室を出て電話をかけていい場所に向かう。
幸いロックがかかっていなかったのでなるべく他の内容を見ないように電話帳を開く。
案の定というか、蒼井の電話帳はたくさんの連絡先で埋まっていた。検索フォームから彼女の保護者を探す。
「『蒼井』……ないな、『お父さん』……これか」
本来こういう時は母親に連絡すべきなのだろうがと思いつつ、『お父さん』のページを開く。俺は一瞬躊躇したが覚悟を決めて発信した。
娘からかかってきたはずの電話口で知らない男から、「娘が倒れて今病院にいます」などと言われた穂波のお父さんはさすがに動揺していた。
しかし俺がちゃんと名前を名乗り、穂波の状態、搬送された病院の名前、そして本屋で起きた出来事を知らせると、動揺は残しながらもしっかりとした口調で「わかりました。今すぐそちらに向かいます」と返してきた。
浮き足立っていた俺を落ち着かせるような言葉すらかけていたあたり、しっかりとした大人といった受け答えだった。
電話を切って病室に戻ってきた俺は、穂波が横たわるベッド脇の椅子に腰を下ろす。ひとまず今俺がすべきことはできたはずだ。
穂波の命や体に問題はないことは安心したが、正直こういう状況で彼女の父と会うことになるとは思っていなかったから少し複雑だ。
「スゥ……」
穏やかな眠りに落ちている穂波を見て心を落ち着ける。
その時だった。
ガララララ、とスライドドアが開く音が背後から聞こえた。
流石に穂波のお父さんが到着するには早すぎるから担当医が戻ってきたのだろうかと病室の入り口へと目線を向け、俺は驚愕する。
「あなたは……」
「あら。君は、さっきの」
俺の姿を捉えたその人物はこちらに向き直り、口を開いた。
「はじめまして。作家の盈、本名を今永未知留と言います。ペンネームと違って未だ知らないを留めると書いてみちると読むわ。あと穂波の母親ということにもなっています」
そこに立っていたのは医師でも穂波の父親でもなく――先ほど書店で遭遇した作家の盈、穂波の母親だった。
「それで――君の名前と、穂波との関係性を聞いても?」
まさか彼女の父に会う前に彼女の母、それも裏事情てんこ盛りな人と会うイベントが発生するとは思っていなかった。
「あの、サイン会は……? それに、なんでここが」
いきなりの出来事に呆気に取られた俺は、思わずどうでもいいような疑問を口から出してしまう。
「終わったからここに来たんじゃない。それにこの辺で休日の救急搬送を受け入れているのはこの病院くらいだろうし迷う余地はなかったわ」
理路整然と答えられて俺はぐうの音も出なかった。親なのであれば病室を教えてもらえるのも不思議ではない。
「それで、今度はあたしの質問に答えてもらっても?」
そう言って盈……未知留さんが俺の答えを促す。
「俺の……僕の名前は一ノ瀬悠希です。……一応、穂波とは交際させてもらっています」
相手が初対面の大人ということもあり、慣れない敬語で挨拶をする。
そのせいかどうかはわからないが、なぜか俺は「一応」などと枕詞をつけてしまった。自分の中でまだ他人に胸を張って蒼井穂波の恋人だと言える自信がないのかもしれない。
「そう」
けれど穂波の母――未知留さんは俺の内心などどうでも良さげ……それどころか娘の恋人という情報すらも全く気にした様子はなかった。
「それで、穂波の病状は?」
「……強い精神的ストレスが原因で失神したのだろうと医師の人は。迷彩神経反射? だとかなんとか」
「あぁ、迷走神経反射ね」
それなら特に問題なさそうね、と未知留さんは病室をUターンしようとする。それを見た俺は慌てて引き留めた。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
「ん? なにかしら」
「まさか帰るんですか?」
仮にも娘が倒れたというのにいくら何でも薄情すぎないだろうか。
しかし未知留さんは俺の問いに呆れたように嘆息する。
「はぁ。君も理解しているでしょう? 強い精神的ストレスとやらはあたしが原因。穂波の近くにあたしはいない方がいい」
彼女の言い分はきっと間違っていないのだろう。穂波が失神したのが未知留さんが原因であることは疑う余地はないし、そうであるのなら二人は遠ざけるべきだ。
でも……。
「それにしたって母親が娘の病状だけ聞いてそのままとんぼ返りなんて納得できないです。そもそも二人の間には何があったんですか」
あの誰にでも優しい穂波が唯一負の感情を見せた盈という作家。その正体が彼女の母親であったとなれば二人の間には何かしらの因縁があるんだろう。
それを知らないまま今永未知留を帰すことは出来なかった。
「穂波からは何も?」
「……盈という作家が嫌いだとだけ。あなたが母親であるということはさっき知りました」
穂波は盈という作家、そして自分の母親について頑なに教えようとしなかった。だから俺はこの人のことをほとんど何も知らないと言っていい。
「そう。それならちゃんと説明するわ。……さっき穂波の母ということになっている、って言ったけれど、厳密にはあたしに親権はないの。離婚した時に放棄したから」
「離婚……」
確かにパリで穂波の家を訪れた時、未知留さんはいなかった。どこかに出かけているのかとも思ったがあの時すでに離婚していたのであれば腑に落ちる。
でも不可解なことがひとつある。
「どうして……?」
そう、そもそもなぜ離婚したのかということ。
穂波の生活を見る限り彼女の父は社会的地位をある程度持っている人だろう。結婚相手として十二分のはずだ。
一度しか会ったことはないけど暴力を振るうような人間にも見えなかった。その見立ては穂波がどう育ったかを考えれば間違ってないはず。
逆にこの人が何か良くないことをして離婚に至ったのかもしれない、などと不躾なことを考えるが、未知留さんは俺の考えを見通したかのように先回りして否定する。
「あたしがね、穂波と颯斗――彼女の父を捨てたのよ。八年前にね」
「八年前……」
それは確か穂波がパリに引っ越した時期と合致する。
一瞬穂波の父親の仕事の事情で海外赴任になるのを嫌がったのかもと思ったが、作家なんてむしろ最も自由に活動できる仕事のひとつだ。海外居住が経験にもなると考えると嫌がる理由としては薄い。
となると俺の中で考えられる可能性は一つだった。
「もしかして……不倫ですか?」
後から考えればとんでもなく失礼なことを聞いていたが、未知留さんは怒った様子もなく否定する。
「いいえ。穂波の父と離婚してから今に至るまであたしはずっと独身よ。交際経験もない」
形式的には円満離婚だしね、と付け加える。
「じゃあ、なんで……」
俺の足りない脳みそでは他の原因には辿り着けなかった。
「そうね、何から説明したものか」
未知留さんは顎に拳を当てて少し考える。その姿はついこの間見たことがある気がして、なんだか落ち着かなかった。
考えがまとまった未知留さんは再び口を開く。
「君、創作活動をしたことは?」
突然飛んできた想定外の質問に俺は思わず鼻白んだが、正直に答える。
「……いえ、本は読みますが自分で創作はしません」
「そう。ならわからないかもしれないけれど、創作活動というのは想像を絶するエネルギーが必要になる」
それは、何となくわかるかもしれない。創作活動はしたことはないが、小説を読んでいて「ここはこういう展開の方が自然なんじゃないか?」「このキャラはそうじゃなくてこう動くだろう」なんてケチをつけた事は何度もある。しかしそれを一次創作なり二次創作なりに落とし込もうとはほとんど考えたことがなかった。
それが如何に難しいことか、俺は肌感覚で理解できていたから。
「売れて大金持ちになりたいでも、自分の考えを世に知らしめたいでも、頭の中に広がる世界が勝手に溢れてしまうでも、何でもいいけれど、そういうエネルギーが必要になる」
未知留さんは俺に話を飲み込む時間を与えるため一呼吸おいてから話を続ける。
「創作の動機、モチベーションは人それぞれあると思うけれど、あたしのそれは『渇望』から来てるの」
「渇望?」
渇くほどの望み、それが自分の創作意欲の源泉だと?
「ええ。何かが足りない、何かが欠けている。そういう状態でその何かを求めることこそがあたしにとって創作であり、生き甲斐」
ある意味、俺にとって興味深い話だ。本物の作家、それもサイン会を開催できるくらいに売れている作家が目の前で自分の創作論を語ってくれている。
本読みにとって貴重な機会ではあるが、今この時に限ってはどうでもいい内容だった。俺は少し苛立ちながら口を挟む。
「それと、穂波を捨てたことに何の関係が?」
「……穂波を産んだ時、あたしは彼女のことが本当に愛おしいと思った。そして、穂波を育てていく過程でその気持ちはどんどん大きくなっていったわ」
「ならなんで……」
そんな大切なものを、なぜ捨てたりしたのか。
「穂波が愛おしい、その感情は本物。……でもね、同時にあたしの中の『創作者』としての声が囁くの。『満ち足りた人生に、何の意味がある?』って」
「それは……」
大袈裟だ、とは言えなかった。
歴史上の文豪たちは揃いも揃って執筆から逃げ回るくせに、最後の最後にはみな作家でなければならない場所まで自らを追い込んでいた。
彼らは才能があったから作家になったのではなく、魂まで作家だったから作家であるしかなかっただけなのだ。
それはきっと、目の前の作家も同じなのだろう。
「穂波が大きくなっていくうちにあたしの中で『母』としての割合がどんどん大きくなって『創作者』としての私が小さくなっていくのがわかった」
家事育児が忙しくて創作する時間もなかったしね、と未知留さんは遠い目をする。
「きっと、百パーセント母親になれたなら迷うことなくあの子のために生きられたんだと思う。……でも、創作者としてのあたしはどんなに小さくなっても消えはしなかった」
この人は母親である自分と作家である自分、それを分けることができず、どちらかを消すしかなかったのだ。
そこを上手くやっている作家ももちろん大勢いるだろう。でも、この人は上手くやれなかった。そして上手くやれないことに苦しんでいた。
その苦しみは俺にはわからない。わからないからこそ目の前の作家を哀れに思った。
けれどその気持ちは、次に放たれた言葉で吹き飛ぶ。
「満ち足りるっていうの確かに幸福なこと。でも創作者としてのあたしにとって、それは創作意欲を減衰させる害悪だったわ」
「……なんだと」
今まで心を落ち着けて話を聞いてきたが、その一言で俺の頭にキューっと血が上る。直接的には表現していないが、彼女の言葉はその実、穂波のことを指している。
自分の娘を言うに事欠いて害悪だと? 寝ているとはいえ本人の目の前で……!
「撤回しろよ……! 害悪なんて言葉、自分の子供に対して使っていいわけないだろ!」
怒りに支配された俺にはもはや敬語なんて使える余裕はなかった。
俺は人生最大級の怒りを視線に籠めるが、盈という作家はそれをまるでそよ風かのように真正面から受け止める。俺の視線を吸収したその瞳は、どこかで見たことのある意志の強さを持っていた。俺はそれを認めたくなくて思わず目を逸らしてしまう。
「あたしは表現者として、言葉は正しく使っているつもり。他の単語で代用したらそれは正しくない言葉になる」
正直なところ、この人には俺の穂波を繋げた本を書いてくれた恩義があった。だから穂波が彼女を恨んでいたとしても俺にはそこまで強い負の感情を抱く理由がなかった。
「……あんたは小説家としては一流かもしれないが、人間としてはド級のクズだ」
けれど感じていた恩義ももう既に消え去っていて、俺は相手を侮辱する言葉を放った。
しかしこいつは馬耳東風と言った様子で俺の怒りを受け流す。
「それはね、作家からしたら褒め言葉よ。凡人になるくらいなら底辺まで落ちる。それくらいの気概じゃなきゃ創作なんてやってられないもの」
あくまであたしの持論だけれどと、こいつは宣う。
そんな悪びれない言葉を聞いて俺は確信する。こいつはもはや母親じゃない。未知留さん、などと呼ぶ価値もなかったし、自分でも既に今永未知留という個人など捨てていて作家である盈でしかないのだろう。
俺は収まらない怒りをぶつけずにはいられず再び口を開こうとする。
その時、ビュン、と俺の頬を何かが掠めた。
それは俺を狙ったわけではなく、もう一人目掛けて投げつけられた物だった。
未知留さ……盈は流石に少し慌てた様子で体を捻り飛来物を躱す。病室の壁に衝突したそれはカコン、と軽い音をして地面に落ちた。
それはコップだった。病人が水を飲むために用意された、落としても割らないようにプラスチックで出来ているコップ。
それが置かれているのは当然病人の手の届く範囲で。
ベッドに視線を戻した俺が見たのは、見たこともないような憤怒の形相で母親に物を投げつける穂波の姿だった。
財布、手鏡、リップクリーム。カバンから取り出した小物を手当たり次第投げつけるが、盈はその全てを避ける。
「ふざけるな! 何が作家としてだ! 何が表現者としてだ!」
「やめなさい、穂波」
「気安く名前を呼ぶなァ!」
自分より怒っている人間を見ると我に帰る、という言説は本当らしい。
俺なんかよりも遥かに圧倒的な熱量で怒りを爆発させている穂波の姿は俺を冷静にさせるのに十分だった。
「私とお父さんを捨てたくせに! それでさも作家として大きなことを成し遂げたみたいな顔をして! 新作を出すたびに送り付けて、馬鹿にしてるのか! ふざけるな! お前は人間の皮を被った悪魔だ!」
空っぽになったカバンすら投げつけた穂波は盈をにらみつける。
射殺す、という表現が相応しいほどの質量がこもったまなざしを叩きつけながら穂波は叫ぶ。
「私は絶対お前みたいにはならない……! 絶対にお前を否定してやる!」
そう叫ぶ穂波の前で、俺は一歩も動くことが出来なかった。あの優しい穂波が我を失ってしまう程の怒り。それに気圧されてしまった俺は両手をグッと閉じていることしかできなかった。
点滴などでうまく動かない体をうごめかせてベッドから這い出ようとする穂波。その目的はきっと彼女の母親で、もしベッドから抜け出てしまったら盈を本当に殺してしまうのではないかと思う程、穂波は鬼気迫る顔をしていた。
点滴の針が抜けるかどうかのタイミングで、バンッ! と病室のドアが開け放たれる音が響いた。
今度は誰だ⁉︎
「穂波!」
分厚い体を持った男性が病室に飛び込んでくる。中の惨状を見て状況を察したその男性は――ベッドを出ようともがく穂波を抱きしめた。
「うああああああぁぁぁぁ!」
「落ち着け! 父さんだから!」
「フーッ……! フーッ……! フー……」
錯乱状態にあった穂波がだんだんと息を落ち着けていく。穂波の体から力が抜けたのを確認した彼女の父は、こちらを見ずに言葉を紡いだ。
「……未知留。事情は概ね彼から聞いている。本屋で遭遇してしまったことまで咎めるつもりはないが……病室まで来るのは話が違う。帰ってくれないか」
「心外ね。あたしは穂波の状態が大したことないことを確認したら帰ろうとしたのよ。彼が引き留めたからいただけで」
「そうかもしれない。でも……帰ってくれ」
「……わかったわ」
盈はそう告げると振り返ることなく病室を後にした。
それを確認した穂波の父――颯斗さんは
「大丈夫か? 穂波」
「……うん……うん。……ごめん、お父さん」
「いいんだよ。いきなりで少し驚いたよな。落ち着いたか?」
「うん……もう、大丈夫」
「よかった」
そう言って彼は穂波を抱きしめていた体を離す。
「じゃあ、彼とちょっと話してくるよ」
颯斗さんは穂波にそう告げると俺に向けていた大きな背中がくるりと回り、こちら側を向く。
「一ノ瀬くんだったね。外で少し話そうか」




