第二十話
「おまちどおさま」
食卓に現れたのはアンチョビとキャベツのペペロンチーノだった。
真ん中だけちょこんとくぼんだお皿に綺麗にパスタが巻かれている。
こういう皿を見るたびに思うけど食器としての機能を満たしている部分が少なすぎないだろうか。
「……おしゃれすぎない?」
料理も食器も盛り付けも。
「そう? まあ中学生の頃からやってるから最近は凝っちゃうんだよね」
……むしろ長年やっていると盛り付けとかは適当になっていくような気がするんだが、と母さんがよくやる大皿数枚に料理をどかっと載せて自由に取っていく形式を思い出す。
ビュッフェ形式と言えば聞こえはいいが、あれは一皿一皿に盛り付けたくないだけだ、絶対。残ったのはそのまま冷蔵庫にぶち込んでるし。
最後にパセリまで散らした穂波は微笑みながら食事を促す。
「冷めないうちにどうぞ」
「いただきます」
「召し上がれ」
召し上がれって言葉、なんだか扇情的だよな、と思いながら俺はフォークをパスタに突き刺した。
「……ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
「美味かった、また食べたいくらい」
「ふふっ、お世辞でもありがと」
お世辞ではなく、ちゃんとニンニクが効いていてかなり好みの味だった。……ぶっちゃけ母さんのより好きかもしれない。
二人分の食器を俺が洗っている最中に穂波の入れてくれた紅茶を飲むため、俺たちは再び食卓についた。
「じゃあ、本題に入ろうか」
穂波はそう言うと、ガサガサと先ほどのダンボールを漁り紙束を一つ取り出し、机の上に置く。
「これって……」
「……私の書いた小説」
その紙束を手に取ってパラパラと中身を確認し、俺は愕然とする。
「手書きだよなこれ……」
それは一文字一文字が鉛筆で書かれた手書きの原稿だった。今日日スマホですら小説を書けると言うのに手書きとはちょっと信じがたい。
「初めて書いた時、小学四年生でスマホもまだ持ってなかったんだよね。その頃の癖でいまだに手書き」
投稿サイトや公募に出す時はスキャンとかして電子データに落とし込まなきゃいけないから面倒くさいけどね、と穂波は笑う。
「それでね、本題っていうのは……」
しかし笑っていた穂波は次の瞬間には真面目な顔で姿勢を正していて、こう言葉を続けた。
「……これを、悠希くんに読んでほしいんだ」
「読んでほしいって? 俺に?」
「うん。読んで、悠希くんの率直な感想をもらえたら嬉しい」
冷静に考えて人に小説の原稿を差し出してやってもらいたいことと言えば、読んでもらうことだろう。驚くことは何もない。
けれど直接そう頼まれるとなんだか責任重大な気がして原稿を触る手が覚束なくなった。とはいえ小説を読むのは俺の十八番ではあるので断る理由はない。
「じゃあ、読ませていただきます」
「よろしくお願いします」
俺は穂波に見守られる中、神妙な面持ちで原稿用紙を捲り活字の世界に飛び込んだ。
「……」
「……」
原稿用紙を捲る。
静寂の中、置き時計が時を刻む音と俺たちが紙を捲る音だけが響く。穂波は穂波で去年星雲賞を受賞した、海外の分厚いSF小説を読んでいた。
原稿用紙を捲る。
そちらの内容を端的に説明すれば宇宙人が地球に攻めてくるという陳腐に聞こえる小説だが、その実わかりやすい設定と飽きさせない展開が評判で俺もこの間読破している。
原稿用紙を捲る。
六年前はお互いSFはあまり読んでいなかったから、この六年間で彼女の本の趣味も変わったということだろうか。それとも趣味じゃないけれど経験として読んでいるだけか。
原稿用紙を捲る。
どちらにしろ会っていなかった間に読んだ本についてまた昔のように話したいな、読み進める手を止めずにそんなことを思う。
原稿用紙を捲る。
穂波と一緒に本を読んでいた時はいつもあっという間だったけれど、今回は時間の進みがゆっくりに感じていた。
最後の一ページを、捲る。
「……ふ〜〜〜〜」
最後の一ページを読み終えた俺は大きく息を吐いた。それに気づいた穂波は自分の読んでいた本をパタリと閉じて俺の様子を伺う。
「どう、だった?」
穂波の言葉に一瞬逡巡してから口を開く。
「……よく、書けてると思うよ」
両目をパチパチと瞬かせながら俺はそう答えた。
豊富な語彙力、正しい文法、破綻のない物語、読みやすい文章。たくさん本を読んでいる俺から見ても小説としての要素は必要十分に備えていると思った。
それでも俺が奥歯に物が挟まったかのような感想しか言えなかったのには理由がある。
けれど、穂波はそれすら見抜いていた。
「……ほんと、嘘が下手だね」
俺の全てを見透かすかのような穂波の目線が、痛い。
「ちゃんと感想を教えて欲しいな」
「……ちょっと、考えをまとめるから待ってて」
そう言った俺は、長時間酷使した目を軽く揉みながら自分の所感を言葉に落とし込み始める。
この小説には、ひとつ欠陥があった。
「登場人物が誰一人傷つかない」という、一見何の問題もないような、その実致命的な欠陥が。
誰一人傷つかない、というのは誰もが救われるという意味ではなく、登場人物はみな最初から最後まで幸福なままであるという意味。
作中には凄惨な過去を持つヒロインも、他人を害する悪役も、主人公と喧嘩するライバルも存在しない。
そこにあるのはひたすらに善良なキャラクターたちと平穏な……真っ平らな日常だけだった。
日常系が悪いと言ってるんじゃない。俺の趣味ではないけれど、そういう作品が好きな人だってたくさんいるだろう。
けれどそういう作品だって大なり小なり主人公がピンチに陥る展開はあるはずだ。
友達と喧嘩したり、お遣い中に財布を無くしたり、ライブ中にギターの弦が切れたり。
そういうピンチに機転を効かせて切り抜ける。そこに感じるのがカタルシス。上げて落とす。落として上げる。物語の基本構成だ。
穂波の小説にはそれがない。ただ幸せな箱庭がそこにあるだけ。そんな世界、読者にとって他人事でしかない。
「……」
そこまで考えて顔を上げると、そこにはジッと答えを催促するかのように俺を見つめる穂波の顔があった。
……ここまで考えた全てをそのまま伝えてしまうほど俺も馬鹿じゃない。だから一言、穂波に伝える。
「……前にも言ったけど、穂波は優しすぎるよ」
穂波が誰かを傷つけること、嫌われることを極端に怖がっていたことは覚えている。けれどまさかここまで根が深い物だとは思っていなかった。
きっと、他の物語も同じなのだろう。原稿用紙が詰まっているダンボールを目の端で捉えながら思う。
「もっと自分勝手になったほうがいいと思う、創作の世界でくらい」
俺は小説を書いたことはないけれど、たくさん読んできた自負はあるし、作家のインタビュー記事もたまに読む。
だから一つ知っていることがある。イキイキと登場人物を虐めるような作家の作品の方が輝いていることを。
人格破綻者こそ作家に相応しいのであれば、蒼井穂波はその対極にある存在だろう。
「それが出来れば、苦労はしないんだけどね……」
穂波の言葉も、よくわかる。
太宰治が更生できないまま命を絶ったように、生来染みついた人間性はそう簡単に変えられる物じゃない。それは逆方向だって同じだ。わがままで傲慢で不真面目な穂波なんて、俺にだって想像できない。
「投稿サイトでも公募でも鳴かず飛ばずだったからなんとなくわかっていたけど、面と向かって言われるのは……やっぱりキツイね」
「ごめん……」
「あぁ、違う違う。悠希くんは悪くないよ、感想をもらうのは私が望んだだけだし……」
何でもできる穂波が肩を落としているのはある種新鮮で……同時に俺は胸を締め付けられた。
「提案があるんだけど」
「ん? 何?」
「来週は、本屋に行こう」
「本屋……? なんで?」
「困ったら本を読む。……それが俺たちじゃないか?」
俺の思い付きは全くの無根拠で、何の解決策にもならないかもしれない。そもそも俺は物書きでもなければ編集者でもない。だから俺に言えるのは、俺が穂波にどうしてほしいかだけだ。
俺と穂波はずっと本で繋がってきた。だから俺の意図は穂波にならわかると思った。
俺の言葉をしばらく咀嚼していた穂波は、俯いていた顔をゆっくりと俺に向けて微笑む。
「それも、そうだね」
その笑みに力はなかったけれど、でも穂波が前
向きになったのは感じることが出来た。
「それに、穂波と本屋に行ったことないし」
「……後付けみたいに言ってるけど、もしかしてそれが本音?」
「そんなことはなくもなくもなくもないかもな」
「あれ? どっち?」
辛い時は、本を読む。楽しい時も、本を読む。本が好きな俺がずっと続けてきたこと。たぶん穂波もそうだったんだと思う。
何かが見つかるかもしれない。何も見つからないかもしれない。でも間違いなく本は読める。そこに価値を見出せるのは本を拠り所にしてきた俺たちにしかわからない感覚で――その感覚を穂波と共有できることに俺は至上の喜びを感じたんだ。
本屋にあるのは本だけじゃない。そんな当たり前のことは、この時俺の頭の片隅にもなかった。




