暴食の戦槌
第11階層。中層の入り口に足を踏み入れた瞬間、空気に混じる魔力の密度が跳ね上がったのをリヒトの肌が感じ取っていた。
岩肌が剥き出しだった第10階層までとは異なり、壁面には発光する不気味な苔が群生し、迷宮の構造自体が複雑に入り組んだ自然洞窟の様相を呈している。
「いくぞ……」
リヒトは両手で漆黒の魔導機槌【アバランチ】を握り直し、ゆっくりと奥へ進んだ。 C級の領域に達した【筋力65】の肉体。それでも、この武器は重すぎた。ただ持ち上げるだけならできるが、実戦で「振る」となれば話は別だ。
A級の筋力特化型探索者ですら匙を投げたという超質量の塊。それをどうにか制御しようと神経を尖らせていたリヒトの前に、岩壁を砕きながら最初の獲物が姿を現した。
体長三メートルに達する、鋼のように硬い外殻を背負った中層の定番モンスター『鋼殻熊』。 その巨体が、リヒトを見つけるなり猛烈な速度で突進してくる。
「ハッ!」
リヒトは鋭く息を吐き、アバランチを大上段から振り下ろした。 だが——その瞬間、リヒトは自身の致命的なミスに気づいた。
(体が、持っていかれる……!)
打撃点に向かって振り下ろされたアバランチの圧倒的な遠心力と運動エネルギー。それをブレーキし、軌道を微調整するための「敏捷」と「体幹の筋力」が、リヒトの肉体には決定的に不足していた。
空を切ったアバランチは、そのままリヒトの体勢を強引に前傾させ、地面に深々と突き刺さる。 完璧な隙(硬直)。 そして、鋼殻熊の丸太のような腕が、無防備なリヒトの側頭部を無慈悲に薙ぎ払った。
「ガ、ハッ……!!」
首の骨がへし折れる嫌な音が響き、視界が横倒しに回転する。 岩壁に激突し、血反吐を吐きながらリヒトは意識を失いかけた。C級の【耐久】をもってしても、中層魔物のフルスイングを無防備に受ければタダでは済まない。 薄れゆく意識の中、あの無機質なシステム音が脳内に響き渡る。
『——致命的損傷を確認』 『【超回復】が起動します。肉体の完全修復を開始』 『死の危険を感知したことにより、【絶対適応】が真の力を解放します』 『対象:鋼殻熊のステータスを適応中……筋力・耐久が一時的に上昇』
バキバキと首の骨が繋がり、爆発的な熱と共に新しい筋肉の繊維が編み込まれていく。
息を吹き返したリヒトは、驚愕に目を見張る鋼殻熊の懐へと飛び込み、今度は横薙ぎにアバランチを振り抜いた。 だが、やはり止まらない。
敵の脇腹を浅く削ったものの、凄まじい慣性に振り回され、リヒトの体は独楽のように一回転してしまう。そこに、怒り狂った熊の牙が肩口に深く食い込んだ。
「ぐ、ァァァァッ!!」
肩の肉を抉り取られながらも、リヒトは決してアバランチの柄から手を離さなかった。 死にかけるたびに、敵の力が己に流れ込んでくる。筋肉が、骨格が、神経が、この理不尽な超質量兵器を振るうために最適な形へと、強引に作り変えられていく感覚。
『——致命的損傷を確認』 『【超回復】起動。適応を継続します』
そこから先は、地獄のような死の舞踏だった。
第12階層、第13階層と深く潜るたびに、リヒトはアバランチを振り回し、その遠心力に体勢を崩しては、中層の凶悪な魔物たちから致命傷を浴び続けた。 猛毒を持つ巨大蜘蛛に腹を貫かれ。 岩石のゴーレムに両足を叩き潰され。
その度に【超回復】が発動し、【絶対適応】が敵のステータスを簒奪し、己の基礎数値を暴力的なペースで底上げしていく。
A級探索者が使いこなせなかった理由は明白だった。彼らは「完成された肉体」を持っていたからこそ、この規格外の武器の重心と重量に合わせることができなかったのだ。
だが、リヒトは違う。 彼は、死をトリガーに己の肉体構造すらもアップデートし続ける異常者だ。武器に合わせるために、幾度となく命を投げ出し、その度に強くなって蘇る。
そして、第15階層の広大な広間。 群れを成す十数体の『ブラッド・オーク』に取り囲まれた時、ついに「その瞬間」は訪れた。
【筋力】65 → 84
【耐久】72 → 88
【敏捷】55 → 71
限界点を超え、B級の領域へと片足を踏み入れた基礎ステータス。 オークたちが一斉に血走った目で襲いかかってくる。リヒトは深く息を吸い込み、アバランチを真横に構えた。
「……馴染んだぞ。相棒」
踏み込みと共に、漆黒の戦槌を全力で薙ぎ払う。 今度は、遠心力に体が持っていかれることはなかった。進化した筋繊維と研ぎ澄まされた体幹が、超質量が生み出す暴威を完全に支配下に置いたのだ。 空気が爆発するような破裂音。
アバランチの打撃面が先頭のオークを捉えた瞬間、その肉体は風船のように弾け飛んだ。それだけではない。衝撃を逃がさず100%伝達する黒星鉱の特性により、発生した衝撃波が後続のオークたちをまとめてミンチに変えていく。
「グギャ、アァァァッ!?」
残ったオークたちが恐怖に顔を引き攣らせるが、もう遅い。 リヒトはピタリとアバランチの軌道を止めると、今度は手首の返しだけで強引に逆方向へ振り抜いた。
重力を無視したかのような、あり得ない連撃。 暴風雨のような黒い槌の軌跡が広間を駆け抜け、ものの数秒で十数体のブラッド・オークはすべて、光の粒子と魔石に変わって消滅した。
返り血一つ浴びていないリヒトは、一切のブレなくピタリと止まったアバランチを見つめ、口元に狂気じみた笑みを浮かべた。 幾度もの死線を越え、ついに『失敗作』を完全に己の牙として屈服させたのだ。
「聞こえるかしら、リヒト君」
耳に仕込んだ小型通信機から、クロエの弾んだ声が響く。
「生体モニターの数値がデタラメなことになってるわよ。まさか数時間で、アバランチの重量ペナルティを相殺するまでステータスを引き上げるなんてね」
「クロエさんの言う通りでした。これ、最高の相棒です。何発全力で殴っても、壊れる気がしない」
「ふふっ、頼もしいわね。でも、ここからが本番よ。中層の真の脅威は、その階層から下にいるわ」
リヒトは戦槌を肩に担ぎ直し、迷宮のさらに深い闇へと視線を向けた。 死ねば死ぬほど強くなる。この泥臭くも確実な成り上がりの螺旋を、彼はもう止める気はなかった。




