B級の壁と簒奪
翌朝、午前九時五十分。 探索者ギルド本部は、第一大陸の探索拠点において最も巨大で権威ある建造物だった。大理石で覆われたエントランスには、最新鋭の装備に身を包んだ高ランクの探索者たちがひしめき合っている。 その中を、白衣姿で欠伸を噛み殺すクロエと、飾らない軽装のリヒトが歩いていく。
「相変わらず無駄に広くて肩が凝る場所ね。リヒト君、緊張してる?」
「……少しだけ。でも、それ以上にワクワクしています」
指定された漆黒のカードをエレベーターの端末にかざすと、箱は静かに地下深くへと降下を始めた。 到着したのは、ドーム状の広大な空間だった。分厚い防護結界に覆われた修練場。
そのすり鉢状の底には、特別査察官のジンが、書類用タブレットを片手に待ち構えていた。 防弾ガラスで仕切られた観覧席には、ギルドの幹部らしき重役たちが数名、値踏みするような視線を見下ろしている。
「時間通りですね。お待ちしていましたよ」
ジンは眼鏡のブリッジを押し上げ、修練場の中央へとリヒトを促した。
「これより、F級探索者リヒトの特別昇級試験を開始します。……あなたの場合は特例中の特例だ。純粋な『戦闘能力の底』を測らせてもらいます」
ジンが指を鳴らすと、修練場の奥にある重厚なゲートがゆっくりと開いた。 地響きのような足音と共に現れたのは、全身を鈍色の重装甲で覆い、身の丈ほどもある大盾と戦槌を構えた大柄な男だった。
「彼はB級探索者のボルグ。ギルド直属の専属試験官であり、その鉄壁の防御力とパワーはA級にも引けを取りません。彼から一本取るか、あるいは三分間攻撃を凌ぎ切れば合格としましょう」
リヒトは武器ラックから一番重そうな黒鉄の訓練用大剣を手に取った。ずしりとくる重みだが、ミノタウロスとの戦いで得た【筋力38】なら十分に扱える。C級相当(50〜80)には届かないが、プロアスリートを遥かに凌駕するD級相当のステータス。やれるはずだ。
「おいおい、ジン。冗談キツいぜ」
兜の奥で、試験官のボルグが野太い声で笑った。
「昨日登録したばっかのF級のガキだぁ? こちとら暇じゃねえんだ。適当に撫でて終わらせてやるから、怪我したくなかったら早めに降参しな」
「油断しないことです、ボルグ。彼は——」
ジンの忠告が終わる前に、開始のブザーが鳴り響いた。
「そらよッ!」
直後、リヒトの視界からボルグの巨体がブレて消えた。 ——速い。 常人の反射神経では弾丸すら視認して躱すという、「超人」の領域であるB級。
その基礎ステータスは最低でも80から150に達する。D級相当である今のリヒトのステータスでは、そもそも次元が違う。
「よそ見してんじゃねえぞ、ガキ!」
左側頭部から聞こえた怒声。 反応する間もなかった。ボルグの大盾によるシールドバッシュが、リヒトの胴体を真横から撥ね飛ばした。
「ガ、ハッ……!?」
内臓がひっくり返るような衝撃。ミノタウロスから奪い取ったはずの【耐久42】の肉体が、いとも容易く軋みを上げる。 吹き飛ばされ、地面を無様に転がるリヒト。
だが、追撃はさらに無慈悲だった。 跳躍したボルグが、落下エネルギーを乗せた戦槌を、無防備なリヒトの胸座へと容赦なく振り下ろしたのだ。
——メチャァッ!!
修練場に、嫌な音が響き渡った。 肋骨が粉々に砕け、ひしゃげた胸郭が肺と心臓を同時に潰す。口から大量の鮮血が噴き出し、リヒトの意識は瞬時にブラックアウトした。
「あ……」
「や、やりすぎだボルグ!!医療班を早く!」
致命傷。間違いなく瀕死レベルの一撃。 ジンが血相を変えて叫び、観覧席の幹部たちが青ざめて立ち上がる。だが、クロエだけは観客席の最前列で、恍惚とした笑みを浮かべたまま修練場の底を見つめていた。
『——致命的損傷を確認』 『【超回復】が起動します。肉体の完全修復を開始』
暗闇に沈みかけていたリヒトの脳内に、無機質なシステム音声が鳴り響く。バキバキバキッ!と、砕けた骨が勝手に組み上がり、潰れた内臓が数秒で再生していく。
『——死の危険を検知したことにより、【絶対適応】が真の力を解放します』 『対象:B級探索者ボルグのステータスを適応中……筋力・耐久・敏捷が一時的に爆発的上昇』
「……な、なんだぁ!?」
戦槌を引き抜こうとしていたボルグが、戦慄の声を上げた。 死んだはずの少年の体が、急激に異常な熱と魔力を放ち始めたのだ。
【筋力】38 → 105
【耐久】42 → 112
【敏捷】24 → 98
超人の領域たるB級のステータスが、強制的にリヒトの肉体に上書きされていく。筋肉の繊維がさらに太く、密に編み込まれ、神経伝達速度が劇的に跳ね上がる。 ゆっくりと、リヒトは立ち上がった。 口の周りを血に染めながら、その瞳には底知れない狂気と、圧倒的な力が宿っていた。
「チィッ! 死に損ないが、奇跡でも起きたか!」
ボルグが再び戦槌を大上段から振り下ろす。 だが、先ほどまでは見えなかったその軌道が、今のリヒトには止まっているように見えた。
「……遅い」
極限まで引き上げられた【敏捷】。 リヒトは最小限の動きで横へ半歩ズレて戦槌を躱すと、手放さずに握りしめていた黒鉄の訓練用大剣を、下から上へとカチ上げた。 狙うは、鉄壁と称されるボルグの大盾の中心。
——ドッゴォォォォォンッ!!!
修練場全体を揺るがす、爆発のような轟音が響き渡った。 100を超えた異常な筋力から放たれる理不尽な運動エネルギー。A級の攻撃すら防ぐと言われた大盾が、まるで薄いガラスのようにひしゃげ、中心から放射状にひび割れていく。
衝撃は盾を透過し、ボルグの重装甲ごと肉体を吹き飛ばした。巨体が宙を舞い、数十メートル先の防護結界に激突して、ようやく停止する。 結界の表面に、バキバキと亀裂が走った。
「……あ」
リヒトの手の中で、B級の出力に耐えきれず、黒鉄の大剣が粉々に砕け散った。 砂埃が晴れた修練場には、白目を剥いて完全に気を失っているB級試験官の姿と、柄だけになった剣を持ってぽつんと立ち尽くすリヒトの姿だけがあった。
「…………」
観覧席は、水を打ったような静寂に包まれていた。 幹部たちは口を半開きにしたまま硬直している。クロエだけが、腹を抱えて愉快そうに肩を震わせていた。
ジンはゆっくりと息を吐き、額に浮かんだ冷や汗をハンカチで拭った。 F級の少年が、B級の専属試験官を正面から打ち破った。それも、一度殺されかけてからの、文字通りの『死に戻り』による一撃で。
「……試験、終了」
ジンの震える声が、静まり返ったドームに響く。
「リヒトさん。ギルドの規定に基づき、あなたの階級を再査定します。本来であれば段階を踏むべきですが……あなたのその異常な戦闘能力を、下位のランクに留めておくのはもはや不可能だ」
ジンは書類用タブレットに新たなデータを入力し、リヒトに向かって言い放った。
「特例昇級を承認。本日この瞬間をもって、あなたはF級からC級へと昇格します。……中層領域の単独探索権限を持つ、上位探索者として認めます」
B級を倒したとはいえ、実績のない彼に与えられるギリギリの特例措置。それでも、F級からC級への前代未聞の跳躍。 砕けた剣の柄を握りしめながら、リヒトは大きく息を吐き出した。 SS級の『戦乙女』がいる遥かなる高みへ。その長く険しい道のりの第一歩を、彼は今、己の死と引き換えに奪い取った力と共に踏み出したのだ。




