残滓
「ようこそ、我が『ステラ・ノヴァ』の拠点へ。散らかってるけど、適当にくつろいでちょうだい」
案内されたのは、ギルド本部からほど近い路地裏にある、古い雑居ビルの地下室だった。 重たい鉄扉を開けると、魔導ランプの薄暗い灯りに照らされた空間が広がる。壁際には所狭しと本棚が並び、謎の鉱石や魔物の一部らしき標本、そして書き殴られた書類が机の上に山積みになっていた。 「超零細」という言葉に嘘はなかったらしい。マスターの執務室というよりは、マッドサイエンティストの実験室と呼ぶ方がしっくりくる。
「奥にシャワールームがあるわ。着替えは……昔のクランメンバーが置いていった服で悪いけど、そこの棚のものを使いなさい」
「ありがとうございます。お借りします」
リヒトは借りた衣服を抱え、逃げるようにシャワールームへと駆け込んだ。 温かい湯を浴びながら、こびりついたミノタウロスの返り血を洗い流す。
赤い飛沫が排水溝へと吸い込まれていくのを見つめながら、彼はふと自分の両手を見下ろした。
死の淵を見た恐怖は、もうない。代わりに、全身の筋肉の繊維一本一本に、今まで感じたことのないような熱と密度が宿っているのがわかった。
「ステータス」
湯気の中で小さく呟くと、見慣れた半透明のプレートが眼前に浮かび上がる。
【名前】リヒト
【ランク】F級
【レベル】1
【所持CP】0 / 100
【筋力】38(+26)
【耐久】42(+28)
【敏捷】24(+13)
【魔力】10(+0)
【感覚】18(+3)
【固有スキル】絶対適応、超回復
「……マジか」
思わず声が漏れた。 戦闘中、ミノタウロスの能力を【絶対適応】で強制的にコピーした際、筋力や耐久は間違いなく100を優に超える暴力的な数値に跳ね上がっていた。
あの巨体を素手のインファイトで圧倒できたのだから当然だ。 戦闘が終わり、極限の死の危機が去ったことで、ステータスは元に戻るものだとばかり思っていた。だが、違った。
爆発的な上昇は落ち着いたものの、敵から引き出した力の「残滓」が、確かな基礎値として彼の肉体に定着していたのだ。これだけでも、C級からB級の探索者に匹敵する破格の数値である。来る日も来る日も筋トレなど泥臭く体をいじめ抜いてきた基礎があったからこそ、肉体が急激なステータスの変化に耐えきれたのかもしれない。
身支度を整え、シャワールームを出ると、クロエがデスクの上で魔法コンロに火をかけ、二つのマグカップにコーヒーを注いでいた。
「さっぱりした? ほら、ブラックで悪いけど」
「あ、ありがとうございます」
差し出されたマグカップを受け取り、一口飲む。温かい苦味が、昂っていた神経を少しだけ落ち着かせてくれた。
「それで? 君のステータス、戦闘中と今でどう変わった?」
クロエは丸眼鏡を指で押し上げながら、探るような視線を向けてくる。リヒトが先ほど確認した数値を正直に伝えると、彼女は納得したように深く頷いた。
「やっぱりね。戦闘中のあの出力のままなら、君の肉体は自壊していたはずよ。命の危機というトリガーが引かれている間だけ、敵の能力を100%引き出して『適応』する。そして危機が去った後は、君の肉体が耐えうる限界値まで安全に調整されて『定着』する……。つくづく、悪魔的なスキルね」
「つまり、俺は死にかける度に、少しずつ強くなれるってことですか」
「少しずつ、なんて可愛いもんじゃないわ。相手が強大であればあるほど、君が得る見返りも跳ね上がる。……まあ、一歩間違えれば本当に死ぬ綱渡りだけどね」
クロエは薄く笑い、引き出しから皮袋を取り出してテーブルの上に放り投げた。 ゴトリ、と重たい音が鳴る。
「これは?」
「君が倒したボス個体のミノタウロスから回収した魔石と、換金用の角よ。私がさっきギルド本部でこっそり換金してきたわ。……信じられる? これだけで、うちのクランの半年分の家賃が払えちゃった」
ほくほく顔のクロエを見て、リヒトは目を丸くした。 第20階層以降のボス個体。
その素材の価値は、毎日下層で雑魚を狩り続けていたリヒトからすれば、想像もつかないような大金だった。
「マスター」
「クロエでいいわよ。うちみたいな零細で、マスターなんて堅苦しい呼び方は似合わないわ」
「じゃあ、クロエさん。俺は、次は何をすればいいですか?」
リヒトの眼差しは真剣だった。 生き残った幸運に浸るつもりはない。手に入れたこの力は、あくまでミノタウロスという偶然のイレギュラーから得た「借り物」だ。あのモニター越しに見た戦乙女のような、本物の強者たちが集う領域にはまだ到底及ばない。 這い上がると決めたのだ。休んでいる暇はなかった。
その問いに、クロエは残ったコーヒーを飲み干し、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「決まってるでしょ。君の実績を上げるのよ」
彼女は机の上に広げられた第一大陸ダンジョンのマップを指差した。
「今の君の基礎ステータスなら、安全地帯でくすぶっている必要はないわ。明日は一気に第10階層まで潜るわよ。F級の君が10階層の魔物を単独で狩り続ければ、ギルドの評価システムが異常を検知して、特例昇級の審査が入るはず」
「第10階層……!」
これまでは足を踏み入れることすら許されなかった中層への入り口。だが、今のリヒトなら、やれる確信があった。
「私の頭脳と、君の適応力。この二つがあれば、世界最速でダンジョンの底まで駆け抜けられるわ。覚悟はいいかしら、リヒト君」
「……望むところです」
薄暗い地下室で交わされた、底辺の青年と変わり者の研究者による反逆の誓い。 世界中がまだ誰も知らない「最強」への歩みが、いよいよ本格的に動き出そうとしていた。




