首都奪還
ギルド本部地下三百メートル。核攻撃すら耐えうるとされる『シェルター』の分厚い隔壁が、重々しい音を立てて完全にロックされた。
その瞬間、生き残った数十人の探索者とギルド職員たちの間に、張り詰めていた糸が切れたような嗚咽が広がった。 真っ白な無機質の空間に、血の匂いと絶望が充満していく。
分厚い岩盤と特殊合金の壁を隔てているというのに、地上から降り注ぐ変異種たちの咆哮や、街が崩壊していく地鳴りが、腹の底を嫌なリズムで揺らし続けていた。
「……私の、せいだ」
シェルターの片隅。壁に背を預けて座り込んだアリア・ヴァイスは、自らの両手を見つめながら微かに唇を震わせた。
彼女の銀色の髪は煤に塗れ、その瞳にはかつてないほどの濃密な後悔が渦巻いている。
第一大陸の防衛を担うべきSS級探索者でありながら、彼女は戦わずに逃げた。
腕の中で意識を失っていたリヒトと、非戦闘員に等しいアイラを守るためという大義名分はあった。だが、地上で戦っていたA級探索者たちを見捨てて扉を閉ざしたその手の感触が、アリアの心を氷のように冷たく締め付けている。
「アリア様。ご自身を責めるのはおやめください」
血まみれの生存者たちに応急処置を施し終えたエリーゼが、静かに歩み寄ってきた。彼女の眼鏡にはヒビが入り、S級探索者である彼女でさえ、極度の疲労の色が隠せない。
「あのまま地上に留まっていれば、私たちも間違いなく魔物の波に飲まれ、全滅していました。主力部隊が不在の今、王都は事実上、陥落したのです。……ここは耐える時。他大陸へ送った緊急SOSが届き、援軍が到着するのを待つしかありません」
「援軍が来るまでに、地上にいる何十万の人間が死ぬと思っているの、エリーゼ」
アリアの声には、血を吐くような痛みが混じっていた。 彼女の視線の先には、簡易医療ベッドの上で横たわるリヒトと、その冷たくなった手を両手で包み込みながら、声も出さずに泣き続けているアイラの姿があった。
「マスター……マスターぁ……っ」
アイラの小さな呟きが、静まり返ったシェルターに響く。 通信が途絶したクロエ。
ステラ・ノヴァの拠点は路地裏にあり、防衛線が突破された今、絶望的としか言いようがない状況だった。疫病神と呼ばれた自分を拾い、初めて居場所をくれた恩人が、今この瞬間にも魔物に喰われているかもしれない。
その想像が、アイラの心を完全に壊しかけていた。
アリアは目を伏せ、強く拳を握りしめた。 あの狂気じみた他大陸のSS級探索者ギデオン。彼からリヒトを救い出したまでは良かったが、結果としてリヒトには激痛による精神崩壊の危機を背負わせ、その相棒からは大切なマスターを奪うことになってしまった。
無力だ。生ける伝説や勇者などと持て囃されても、たった一人の少年すら満足に守れない。
絶望が、シェルター内の空気を黒く塗り潰していく。 誰もが下を向き、地上の終わりをただ待つしかないと思っていた、その時だった。
「……アイラ。泣かないで………」
ひどく掠れた、けれど、ひだまりのように温かい声が響いた。 ハッとしてアリアとエリーゼが顔を上げる。 医療ベッドの上で、リヒトがゆっくりと、本当にゆっくりと体を起こしていた。
「リヒト……? リヒトっ!!」
アイラが弾かれたように抱きつく。 リヒトは全身の筋肉を痙攣させ、顔を歪めながらも、震える手でアイラの背中を優しく撫でた。
骨を粉々に砕かれ続けた激痛の記憶が、まだ彼の脳髄を焼き焦がしているはずだった。常人であれば発狂し、二度と立ち上がることすらできないほどの精神的負荷。
だが、この青年は、肉体だけでなく「精神の死」すらも適応し、乗り越えようとしているのだ。
「状況は……?」
リヒトが虚ろな、しかし確かな意志を宿した瞳でアリアを見据えた。 アリアは息を呑みながら、淡々と、残酷な事実を告げた。
突如として王都に複数のゲートが開いたこと。主力が不在で防衛線が崩壊したこと。自分たちが地下へ撤退したこと。そして——クロエが地上に取り残され、生死不明であること。
それを聞いた瞬間、リヒトの瞳から「人の良い青年」の空気が完全に抜け落ちた。
「……そっか。マスターが」
リヒトは医療ベッドから両足を下ろし、冷たい床に立った。 膝が笑い、立っていることすらやっとの状態で、彼は真っ直ぐに部屋の隅へと歩いていく。そして、そこに立てかけられていた漆黒の戦槌【アバランチ】の柄を、両手で力強く握りしめた。
——ズンッ。
黒星鉱の超質量が床を叩く、重く頼もしい音がシェルターに響き渡る。 絶望に俯いていた生存者たちが、ビクッと肩を震わせて顔を上げた。
「リヒト、何を……! まだ動ける状態じゃないわ!」
アリアが慌てて立ち上がるが、リヒトはその静かで、氷のように研ぎ澄まされた眼差しで彼女を真っ直ぐに射抜いた。
「行きます。地上へ」
「正気!?上には深層のモンスター何万と溢れているのよ!他大陸からの援軍を待たないと、今の戦力じゃただの犬死に——」
「援軍が来る頃には、マスターは間違いなく死んでしまいます。他の地上の人たちも」
リヒトの言葉は、酷く静かで、一切の揺らぎがなかった。
「俺は、俺をどん底から拾ってくれたマスターを助ける。それだけじゃない。……俺はあの日、アリアさんに誓ったはずです。あなたの『隣』に立つと」
リヒトは重いアバランチを肩に担ぎ上げ、アリアの目の前まで歩み寄った。
かつて瓦礫の下で震えていた少年はもういない。そこにあるのは、理不尽な世界を暴力で叩き潰す、極限まで磨き上げられた狂戦士の姿。
「俺が、アリアさんにそんな絶望した顔をさせたままにするわけにはいかない」
その屈託のない、けれど圧倒的な強者の笑みを見た瞬間。 アリアの胸の奥で、トクン、とこれまでで最も大きな音が鳴った。凍りついていた戦乙女の心に、鮮烈な熱が灯っていくのが分かる。
「アイラ」
「……うんっ!」
リヒトに呼ばれ、アイラは涙を乱暴に拭い、黒いローブの裾を握りしめて彼の隣に並び立った。最強のサポーターの瞳にも、もはや絶望はない。
「エリーゼさん。シェルターの隔壁、開けられますか?」
「……本当に、正真正銘の狂人ですね、あなたたちは」
エリーゼは呆れたように大きなため息をついた後、パチンと指を鳴らしてひび割れた眼鏡を外し、冷徹なS級探索者の顔でコンソールパネルへと向かった。
「アリア様。副団長として、撤退の進言は先ほど却下されました。……よってこれより、本クランは生存者の救出および、王都の『奪還』を開始します」
アリアはふっと、久しぶりに年相応の、けれど酷く好戦的な笑みを浮かべた。 腰の細剣を抜き放ち、リヒトの隣——彼が宣言した通りの「隣」へと並び立つ。
「ええ。私たちの街をめちゃくちゃにしてくれたモンスターどもを、塵一つ残さず氷漬けにするわよ」
ギギギギギ……ッ!!
何万トンもの重さを持つシェルターの隔壁が、反撃の産声を上げるようにゆっくりと開いていく。
待ち受けるのは、数万の深層魔物と、空を覆う黒竜の群れ。 人類の敗北が決定的となった絶望の王都へ、たった数人で反逆の狼煙を上げる。




