A級昇格試験(4)
第35階層の深奥。開かれた暗闇から現れたのは、仕立ての良い漆黒のスーツを着流した、細身の男だった。
「やあ。まさか私の可愛いペットたちを、あんな乱暴に壊してしまう人間がいるとはね」
その男が一歩、空間に足を踏み出した瞬間。 第35階層の空気が、重力そのものが数倍に跳ね上がったかのように軋みを上げた。 A級に昇格したばかりのリヒトの研ぎ澄まされた感覚が、かつてないほどの最大警報を脳内で鳴らしまくっている。
黒竜の変異種など比較にならない。
この男がただ呼吸をするだけで、周囲の魔素が恐怖に震え、悲鳴を上げているのが分かるのだ。
「……嘘、でしょう。どうして、あなたがここ第一大陸にいるのですか」
リヒトの背後で、S級探索者であるエリーゼが、血の気を失った顔で後ずさった。 彼女の細剣を持つ手が、小刻みに震えている。
「知っているんですか、エリーゼさん」
「ええ……。第三大陸を拠点とする、世界トップ10のSS級探索者の1人。『千の鎖』のギデオン。……なぜ、他大陸の探索者がしかもこんな未踏エリアに」
「簡単なことだよ、お嬢さん」
ギデオンと呼ばれた男は、芝居がかった手つきで両手を広げた。
「この腐りきった国家を、内側からひっくり返すためさ。私は自身のスキルでこの空間をギルドの目から隠し、変異種の養殖と魔力溜まりの暴走を仕組んでいたんだが……まさか、あんな鈍器を持った坊やにすべて台無しにされるとはね」
国家転覆。その途方もない言葉を、ギデオンはさも「明日の天気が崩れる」程度の軽い口調で言い放った。
「さて、私の秘密のラボを知られた以上、生かして帰すわけにはいかないな。……死にたまえ」
ギデオンが指先を軽く振るった、その直後だった。
——ドガァァァァァンッ!!
「……ガ、ァ……ッ!?」
何が起きたのか、リヒトには全く見えなかった。 ただ、気づいた時には、自身の体が第35階層の分厚い岩壁に深々とめり込み、全身の骨という骨が粉々に砕け散っていた。
A級(筋力155、敏捷148)の領域に到達したはずのリヒトのステータス。
だが、SS級——四桁の数値を持つ本物の怪物からすれば、それは「止まっている案山子」と何ら変わらなかったのだ。
「リヒトォッ!」 「アイラ様、下がって! ——ハァッ!」
エリーゼが魔力を解放し、神速の刺突をギデオンへと放つ。しかし、ギデオンはそれを欠伸でもしながら二本の指で真剣白刃取りのように挟み止め、そのまま軽く弾き飛ばした。 「ゴハッ……!」 エリーゼの体が宙を舞い、地面を派手に転がる。S級とSS級の間にある、決して越えられない絶望の壁。
「さて、次は疫病神の少女か……おや?」
ギデオンがアイラに手を向けようとした瞬間、岩壁のクレーターから、バキバキと不気味な音を立ててリヒトが立ち上がった。
【超回復】と【絶対適応】
全身の骨折を数秒で繋ぎ合わせ、敵の力を適応しようと肉体が細胞レベルで沸騰する。
「アイラに……触るなっ!!」
リヒトは超質量の戦槌【アバランチ】を構え、全身全霊の力を込めてギデオンへと跳躍した。 だが。
「——遅すぎるよ」
ギデオンの足元から無数の黒い鎖が蛇のように飛び出し、空中のリヒトの四肢をいとも容易く絡め取った。
「ガ、アァァァッ!?」
「いい治癒能力だ。だが、圧倒的な力の差の前では、適応する速度が追いついていないよ」
ギデオンが指を鳴らすと、鎖がリヒトの体を締め上げ、再び全身の骨を砕く。
リヒトは血を吐きながら再生し、鎖を力任せに引きちぎろうとするが、次々と新たな鎖が巻き付き、地面に何度も何度も叩きつけられた。
肉が潰れ、骨が砕け、常人なら一度で発狂するほどの激痛。
それでも【超回復】によって無理やり蘇らされ、ただアイラを守るためだけに睨みつけるリヒト。
「ふむ……君、本当に面白いね。どれだけ壊しても蘇る」
ギデオンは空中に縛り上げたリヒトを見上げ、その手に漆黒の魔力で巨大な大鎌を創り出した。 冷酷な実験者のような、狂気に満ちた笑み。
「内臓や骨の破壊は適応できても、果たして『脳と胴体を切り離されたら』どうなるのかな?首を刎ねても再生するのか、ちょっとした実験といこうじゃないか」
「やめてぇぇぇぇっ!!」
アイラの悲痛な絶叫が響く。 ギデオンが容赦なく大鎌を振りかぶり、リヒトの首筋へとその刃が迫った。 (……ここまで、か) リヒトの意識が暗転しかけた、まさにその刹那だった。
——キンッ!!!!
空間そのものを凍てつかせるような、甲高く、美しい剣鳴。 ギデオンの放った大鎌が、横から割り込んできた「銀色の閃光」によって弾き飛ばされ、リヒトを縛っていた黒い鎖がガラスのように粉々に砕け散った。
「……なんだと?」
ギデオンが初めて驚愕に目を見開く中、解放されたリヒトの体を受け止めたのは、微かな花の香りと共に現れた、銀糸の髪をなびかせる少女だった。
「アリア……さん……?」
「遅くなってごめんなさい、リヒト。……よく耐えたわね」
ボロボロのリヒトをそっと地面に寝かせ、アリア・ヴァイスは立ち上がった。
彼女の背後からは、『戦乙女の剣』の重武装の精鋭たちが次々とゲートを抜けて現れ、瞬く間にギデオンを包囲する。
「まさか、第一大陸のSS級探索者が直々に来るとはね。ギルドの動きが早すぎるんじゃないかな?」
「ギルドの指示ではないわ。……偶然よ」
アリアは細剣を抜き放ち、極低温の殺気をギデオンへ叩きつけながら、一切の表情を変えずに言い放った。
「たまたまクランの散歩コースが第35階層で、たまたま精鋭を連れて歩いていたら、たまたまあなたが私の大切な人を痛めつけていた。……ただの偶然よ」
誰がどう聞いてもバレバレの嘘だった。 だが、その銀色の瞳に宿る怒りは誰がみても溢れ出している。
「他大陸のゴミが。塵一つ残さず氷漬けにしてあげる」 「ハッ、面白い!」
SS級同士の衝突。
アリアの細剣とギデオンの鎖が交錯した瞬間、第35階層の空間そのものがひび割れ、次元が歪むような凄まじい衝撃波が巻き起こった。
だが、数合打ち合ったところで、ギデオンはチッと舌打ちをした。
(この女、見た目以上の化物だ。それに、あの精鋭どもにS級の副団長までいる。……おまけに、あの殺しても死なない異常な坊やまで。分が悪いな)
「今日のところは退いてあげよう。私のラボはバレてしまったが——」
ギデオンの足元に巨大な転送陣が浮かび上がる。 アリアが追撃の魔法を放つが、ギデオンの姿はすでに黒い霧となって溶け出していた。
「計画の『種』は、すでに地上へ蒔いてあるからね。また会おう、死なない坊や」
狂気を含んだ笑い声だけを残し、第三大陸のSS級探索者は完全に姿を消した。
「……逃げられたわね」
アリアが細剣を納めた直後。
「あ、アリア……さん……」 糸が切れたように、リヒトの体がその場に崩れ落ちた。
「リヒトッ!」
アリアが慌てて抱きとめる。
【超回復】は肉体の欠損を修復できても、全身の骨を何十回も砕き割られた『筆舌に尽くしがたい激痛の記憶』までは消してくれない。
アドレナリンが切れた瞬間、脳の許容量を遥かに超えた痛覚の嵐が襲いかかり、リヒトの意識は限界を迎えていたのだ。
「うぅ……リヒト、リヒトぉ……っ!」
「アイラ様、泣かないで。肉体的な損傷は完全に塞がっています。ただ、ショックで意識が……」
エリーゼが駆け寄り診察する中、アリアは一切の有無を言わさぬ強引さで、気を失ったリヒトの体をひょいっと横抱き(お姫様抱っこ)にして持ち上げた。
「ア、アリア様!? さすがにそれは……」
「文句は聞かないわ。彼は私が連れて帰る。私のクランの特別医療室で絶対安静よ」
「えっ、でも、ステラ・ノヴァのマスターが……」 「事後報告で構わないわ。撤収!」
最強の戦乙女の強権発動。反論を許さない鋭い眼差しに、エリーゼもアイラもそれ以上口を挟めなかった。
アリアがリヒトを抱き抱え、帰還用のゲートを開こうとした、まさにその時だった。
——ビーーーーーーーーーーッ!!!
エリーゼの腰にあったギルド直通の通信機から、かつて聞いたこともないような、鼓膜を破らんばかりの最大級の緊急警報が鳴り響いた。
『緊急事態!! 第一大陸、探索者居住区にて正体不明の空間の歪み(ゲート)が複数発生!』
通信機から漏れ聞こえるのは、ギルド職員のパニックに陥った絶叫と、背後で響く地鳴りのような爆発音。
『繰り返す! 地上に直接ゲートが開きました! あふれ出しているのは深層級の魔物の群れ! 街が、第一大陸の首都が——火の海です!!』
ギデオンが最期に残した「計画の種はすでに地上へ蒔いてある」という言葉。
それが意味する最悪の絶望が、リヒトが意識を失い、主戦力がダンジョンの底に取り残されたこの最悪のタイミングで、地上を喰い破り始めていた。




