A級昇格試験(3)
【敏捷148】
人類の限界をとうに超え、戦術級兵器(A級)の領域にすら深く踏み込んだその数値は、物理法則を容易く置き去りにした。
「ギ、チ……?」
透明な鎌を振り抜いた姿勢のまま硬直していた『影の暗殺者』は、目の前から標的が「消失」したことに気付き、その複眼を不気味に揺らした。 だが、それが暗殺者の生涯最後の思考となった。
「——遅いよ」
真横から響いた、氷のように冷酷な声。 暗殺者が振り向くより早く、極限まで最適化されたリヒトの筋肉が、超質量の漆黒の戦槌【アバランチ】を真横に薙ぎ払っていた。
アリアの教えである「脱力」と、インパクトの瞬間にのみ叩きつけられた【筋力155】の爆発的な運動エネルギー。
——ゴシャァァァァァァァァッ!!!!!
断末魔すら上がらなかった。 音速を超えた黒星鉱の一撃は、暗殺者の透明な外殻を紙くずのように粉砕し、その肉体を周囲の岩盤ごと文字通り「原子レベルですり潰して」吹き飛ばした。 巻き起こった凄まじい暴風が、谷底の瘴気を一瞬にして吹き飛ばす。
「グルルォォォォォッ!!」
同胞を一瞬で塵にされた残る二体の『アビス・トリニティ』が、三つの首から同時に漆黒の雷撃と火炎のブレスを放つ。 六条の死の奔流が交差し、谷底全体を飲み込む極大の破壊の渦となってリヒトに襲いかかった。
「リヒトッ!!」
アイラが悲鳴を上げる中、リヒトは回避する素振りすら見せなかった。 彼はアバランチを両手で力強く握り締めると、迫り来る魔力の渦の「中心」に向かって、真っ向から踏み込んだ。
「邪魔だ」
下段から上段へとカチ上げられた戦槌が、空気を圧縮し、巨大な真空の刃を生み出す。 超質量と絶対的な筋力が生み出したただの「風圧」が、A級上位の変異種が放った極大魔法を真っ二つに引き裂いた。
「な……ッ!?」
後方で見ていた監査官のエリーゼが、信じられないものを見るように目を見開く。魔法を物理でカチ割るなど、S級の力技でしかない。
魔法を引き裂かれた変異種たちが驚愕に動きを止めたその一瞬、リヒトの姿はすでに二体の巨体の頭上に跳躍していた。
「これで、終わりだ」
空中で体を捻り、遠心力を極限まで乗せたアバランチが、二体の変異種の脳天を同時に捉える。
大気が悲鳴を上げた。
隕石の衝突にも等しい一撃が直撃し、巨大な三つ首の竜たちが、頭蓋から尾の先まで一瞬にしてひしゃげ、ひび割れ、そして——爆散した。 谷底の地形がすり鉢状に陥没し、凄まじい地鳴りが第35階層全体を揺るがす。
圧倒的な破壊の余波が収まると、そこには特大の魔石の山と、降り注ぐ光の粒子の中で静かに佇む一人の青年の姿だけが残されていた。
「…………」
エリーゼは、声を発することすらできなかった。 心臓を貫かれたはずの肉体が、死の淵から蘇り、敵の力を奪い取って瞬時にA級の限界を突破する。 それは探索者の「成長」などではない。
死という絶対のルールをねじ伏せるこの世の理から外れた『バグ』。
我が主であるアリアが、初見で彼に異常なまでの執着を見せた理由が、今ならはっきりと理解できた。
(この少年は……間違いなく、S級に至る器だ)
「ふぅ。服、穴開いちゃったな……」
ふと、張り詰めていた殺気がフワリと霧散した。 リヒトは胸元にぽっかりと開いた服の穴(肉体は完全に修復されている)を指で弄りながら、いつもの間の抜けた、人の良い青年の笑顔で振り返った。
「アイラ、エリーゼさん。ご心配おかけしました! 魔力溜まりの核、全部討伐完了です!」
「リヒトぉぉぉぉっ!!」
アイラが弾かれたように駆け出し、リヒトの胸に泣きながら飛び込んだ。 「も、もう絶対死んだと思ったのにぃ……!」とポカポカ胸を叩くアイラを、リヒトは「ごめんごめん、ちょっと痛かったけど大丈夫だから」と苦笑しながら宥めている。
その圧倒的なギャップに目眩を覚えながら、エリーゼはゆっくりと歩み寄った。
「……リヒト様。一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
エリーゼの知的な眼鏡の奥の瞳が、かつてなく真剣な光を帯びていた。
「あなたのその、死から蘇り、力を底上げする能力……。ギルド本部の連中は、この事実を知っているのですか?」
「え? いえ、マスターとアイラしか知りません。あ、それと今日エリーゼさんに見られちゃいましたけど……」
「ならば、絶対に隠し通してください」
エリーゼは周囲を警戒するように視線を鋭くし、声を潜めた。
「そんな理外の能力を知られれば、ギルドの暗部や国家の研究機関が、あなたを『実験動物』として解剖しようと嗅ぎ回るでしょう。……今日の記録には、私の監査権限において『B級探索者リヒトが、優れた技術とアバランチの質量で変異種を撃破した』とだけ記載します」
「エリーゼさん……。いいんですか? 監査なのに、嘘の報告をして」
「我が主の恩人を、モルモットにされるわけにはいきませんからね」
エリーゼがフッと口角を上げて微笑んだ、その時だった。
『——ピピッ。A級への特別昇格試験、クリア条件を満たしました』
リヒトのギルドタグが青く発光し、無機質なシステム音声が鳴り響く。
『これより、リヒトを正式にA級探索者として認定し、深層の自由探索権限を付与します。……なお、魔力溜まりの消失に伴い、第35階層の空間ロックが解除されました』
無事にA級へと昇格した喜びに、リヒトとアイラが顔を見合わせて笑い合おうとした、まさにその瞬間。 ズズズズズ……と。 先ほどリヒトの規格外の一撃によって崩落した谷底の岩壁の奥から、冷たく、酷く人工的な機械音が響き渡った。
「……なんだ? 岩壁の奥に、何かあるぞ」
リヒトがアバランチを構え直し、土煙の晴れた奥を凝視する。 そこにあったのは、ダンジョンの自然な岩肌ではなく——明らかに「人間の手」によって精巧に作られた、黒鋼の巨大なゲートだった。
ギルドのマップには存在しない。
S級探索者のエリーゼすら見たことがない未知の人工建造物。
『——生体認証を確認。A級以上の魔力波長を検知しました』
黒鋼のゲートの中央めがけて走る、血のような赤いライン。
『未踏ルート【第0(ゼロ)セクター】。封印指定エリアのゲートを開放します』
ギィィィィィン……と、重々しい音を立てて、未知の扉がゆっくりと内側へと開いていく。 中から溢れ出したのは、深層の魔物すら逃げ出すほどの、圧倒的で、そしてどこか「人間臭い」狂気を孕んだ魔力の奔流だった。
「未踏ルート……まさか、これがS級への昇格条件の一つ……『誰も見つけていない新階層の発見』!?」
エリーゼが戦慄の声を上げる中、開かれた暗闇の奥から、コツ、コツ、と『誰かの足音』が近づいてくる。
「……やあ。まさか私の可愛いペットたちを、あんな乱暴に壊してしまう人間がいるとはね」
闇の中から響いたのは、モンスターではない。明らかに知性を持った「人間の男」の声だった。
A級への昇格という喜びに浸る間もなく、リヒトたちはダンジョンの、いや、この世界の根幹に関わる底知れぬ狂気へと直面することになる。




