A級昇格試験(2)
第35階層『嘆きの谷』。 その名の通り、岩肌を通り抜ける瘴気の風が、亡者の怨嗟のような不気味な音を奏でる広大な渓谷だった。
「リヒト、おかしいよ……!魔力溜まりの規模が、事前情報の何倍もあるっ!」
「うん、俺も肌で感じる。……アイラ、絶対に俺の背中から離れないで」
アイラが『死神の領域』を最大出力で展開し、周囲の瘴気を強引に相殺していく。 二人の背後を歩く監査官のエリーゼも、知的な眼鏡の奥で鋭く目を細めていた。
S級探索者の直感が、渓谷の奥底で渦巻く異常な気配に警鐘を鳴らしている。
ギルドの事前情報では、魔力溜まりの核となっているのは『深層の門番』と呼ばれる単一のボス個体と、その取り巻きの群れだったはずだ。
だが、谷の最深部に辿り着いた瞬間、最悪の「想定外」が牙を剥いた。
——ズゴゴゴゴォォォンッ!!
谷底の岩盤が吹き飛び、現れたのは一体の門番ではなかった。 異常膨張した魔力を食い破って産み落とされた、巨大な三つ首の骸骨竜『アビス・トリニティ』
それが、なんと三体同時に姿を現したのだ。 さらに最悪なことに、頭上の岩壁が崩落し、退路が完全に塞がれてしまう。
「A級上位の変異種が、三体同時……!?馬鹿な、ギルドの観測網がここまで狂うなんて!」
冷静沈着なエリーゼが、思わず悲鳴のような声を上げた。 三体の変異種が一斉に放つ死のプレッシャーに、アイラの『死神の領域』すら押し潰されそうになる。
「アイラ、デバフの維持だけお願い!」
リヒトは超質量の漆黒の戦槌【アバランチ】を構え、絶望的な物量の前へ単身飛び込んだ。 【筋力108】の全てを解放し、迫り来る極太の尾を弾き返す。だが、相手は三体。一体の攻撃を防いでも、残り二体の牙と魔法による十字砲火がリヒトを襲う。
(くそっ……重い……!)
連日の激戦と、アバランチの遠心力に振り回されまいと全身を力ませているせいで、リヒトのスタミナが急速に削られていく。 三体目の変異種が放った漆黒の雷撃がリヒトの肩をかすめ、肉が焦げる嫌な臭いが立ち込めた。
「そこまでです!これ以上の試験続行は不可能!」
たまらず、エリーゼが細剣を抜き放ち、ギルドの規約を破ってでもリヒトを救出しようと地を蹴った。我が主・アリアの想い人を、こんなところで死なせるわけにはいかない。 だが、エリーゼが介入する寸前。
(——リヒト。あなたはいつも、力みすぎよ)
不意に、リヒトの脳裏に今朝のアリアとの稽古の記憶がフラッシュバックした。 木剣を交える中、アリアは静かに告げたのだ。 『超質量の武器を扱う時、無理に筋力でねじ伏せようとしないで。頂点の瞬間にだけ力を込め、あとはあえて力を抜きなさい。武器の質量そのものに、軌道を導かせるの』
「……力を、抜く」
限界まで張り詰めていたリヒトの筋肉から、ふっと余分な緊張が消え去った。 脱力。 その瞬間、リヒトの体はアバランチの異常な重量に「引かれる」ようにして、あり得ない角度へと滑り込んだ。変異種の牙が空を切り、リヒトの体は流れるようなコマの動きで敵の懐へ入り込む。 力を抜いたことで生まれた、神速の回避と遠心力。
「いける……ッ!」
リヒトはアリアの教えの通り、打撃が触れるその一瞬にだけ【筋力108】のすべてを爆発させた。
——ドッゴォォォォンッ!!!
一撃。 完璧な軌道で放たれた黒星鉱の質量が、一体目の変異種の三つの頭を同時に粉砕した。
「素晴らしい……!」
エリーゼが思わず感嘆の声を漏らした。力任せの狂戦士から、技術を伴う本物の強者への昇華。これなら、一人でも残りを圧倒できる。 そう誰もが確信した、その時だった。
想定外の変異種三体の出現。 そのさらに裏をかく「最悪の想定外」が、空間の歪みから音もなく這い出てきた。
——ズチュッ。
「……え?」
アイラが絶望の声を上げた。 倒れた一体目の変異種の影から、カマキリのような透明な鎌を持った真のイレギュラー、『影の暗殺者』が姿を現したのだ。
完全に死角からの不意打ち。リヒトがアバランチを振り抜いた直後の、わずかな硬直状態。 透明な刃が、リヒトの背中から心臓を一直線に貫き、胸の前に血まみれの刃先が突き出していた。
「ゴ、はッ……!」
大量の鮮血を吐き出し、リヒトの瞳から急速に光が失われていく。
ドサリと、漆黒の戦槌が地面に落ちる。次いで、糸が切れた操り人形のように、リヒトの体が血溜まりの中へ崩れ落ちた。
「リ、リヒトーッ!!」
アイラの悲痛な絶叫が谷に響き渡る。 エリーゼは全身の血の気が引くのを感じた。心臓を完全に破壊された。S級の治癒魔法でも絶対に間に合わない、完全な即死。 我が主の初恋を、守れなかった。圧倒的な絶望が、エリーゼの視界を真っ暗に染め上げる。
だが。
『——致命的損傷を確認』 『【超回復】が起動します。肉体の完全修復を開始』
暗闇に沈んだ谷底で、ゴキ、ボキボキボキッ!という不気味な破砕音が響き渡った。
「……え?」
絶望に膝を突こうとしていたエリーゼは、信じられないものを見た。 血の海に沈んでいたリヒトの胸にぽっかりと開いた大穴が、凄まじい熱と魔力を放ちながら、ほんの数秒で完全に塞がっていく。
『——死の危険を感知したことにより、【絶対適応】が真の力を解放します』 『対象:影の暗殺者および変異種のステータスを適応中……筋力・敏捷が爆発的上昇』
「な……に、それ……」
エリーゼが呆然と呟く中、リヒトはゆっくりと立ち上がった。 心臓を貫かれたはずの青年が、顔にこびりついた血を拭いもせず、足元のアバランチを拾い上げる。
その瞳には、エリーゼが知る「人の良い青年」の面影は微塵もない。極限の死を喰らい、そこから理不尽な力を奪い取って蘇った、純度百パーセントの狂戦士の眼差し。
【筋力】108 → 155【敏捷】101 → 148
(こんな力……人間の、探索者の枠に収まるはずがない。これは、まるで——)
限界を突破した肉体が、音を置き去りにするほどの異常な熱を放ち始める。S級探索者であるエリーゼが、初めてリヒトという存在の「異常性」の底を覗き込み、戦慄に身を震わせる中。
血に染まった青年は、残る二体の変異種と透明な暗殺者へ向けて、ひどく冷たく、残酷な笑みを浮かべた。
「——さあ。お前らの力、全部もらうぞ」
絶望のどん底から蘇ったリヒトの反撃が、今、始まろうとしていた。




