アリア・ヴァイス
第一大陸の探索者居住区の最等地。
巨大なシャンデリアが眩い光を落とす『戦乙女の剣』のクランハウス最上階へと、転送陣の光が収束する。
「ちょ、ちょっと待ってください、アリアさん! 俺、一応クランに所属していて……っ」
大理石の床に放り出されたリヒトが慌てて立ち上がるが、彼をここまで引きずってきたSS級探索者、アリア・ヴァイスは振り返りもしなかった。彼女は広大な屋内訓練場の中央へと歩みを進め、壁に掛けられていた木剣を二振り手に取る。
「ステラ・ノヴァ。資金も設備もない、倒産寸前の弱小クラン」
アリアの銀色の瞳が、初めて真っ直ぐにリヒトを射抜いた。
「第33階層での戦いを見たわ。あなたの身体能力と適応力は異常だけれど、技術はただの素人の延長線よ。あんな環境で這い回っていても、あなたの才能は必ず頭打ちになる。強くなりたいのなら、この街で最も高みに近い私の下へ来なさい」
口数の少ない彼女にしては、異例なほどに長い言葉だった。圧倒的な強者としての純粋な善意であり、才ある者を自らの手で導きたいという不器用な執着。 だが、リヒトは首を横に振った。
「お誘いは本当に光栄です。でも、俺には帰る場所がある。俺をどん底から拾ってくれたマスターと、背中を預けてくれる仲間を裏切ることはできません」
「……無意味な感情ね」
アリアは一つため息をつくと、手にした木剣の一振りをリヒトの足元へ放り投げた。
「言葉で説得するのは苦手よ。だから、あなたの体に直接教えるわ」
「え……?」
「あなたが目指そうとしている世界の恐ろしさを。もし私に一歩でも引かせることができたら、諦めて帰してあげる。でも、出来なければあなたは私のクランに入る。木剣を取りなさい」
拒否権などなかった。彼女は本気で暴力による「教育」でリヒトの目を覚まさせようとしているのだ。 リヒトは覚悟を決め、落ちていた木剣を拾い上げて正眼に構えた。
数秒後。リヒトは訓練場の床に仰向けに転がり、荒い息を吐き出していた。
「……っ、はぁ、はぁ……」
全身の筋肉が悲鳴を上げている。 惨敗だった。B級領域のステータスと【感覚50】をフル稼働させ、極限の集中状態に入っても、アリアの動きはまったく見えなかった。 殺意のない、ただの技術による制圧。
だからこそ【絶対適応】の死のトリガーすら引かせてもらえない。彼女が軽く踏み込んだだけで空間が歪み、木剣の軌道は理外の次元からリヒトの死角を正確に打ち据えた。
これが、SS級のアリア・ヴァイス。ステータスが四桁に届くと言われる、伝説の領域。
「どうして立ち上がらないの」
息一つ乱していないアリアが、見下ろすように歩み寄ってくる。 そして、倒れ伏すリヒトに向かって、そっと白く細い手を差し伸べた。
「これが現実よ。あなたはまだ弱すぎる。でも、私の手を取れば、私があなたを誰よりも強くしてあげる」
——ドクン
リヒトの心臓が、戦闘とは全く別の理由で大きく跳ねた。 数年前、魔物の暴走から自分を救い出し、瓦礫の下から引き上げてくれたあの日の光景が、目の前の彼女と完全に重なる。
そうだ。俺はあの日からずっと、この人に憧れ、この人の隣に立ちたいと焦がれてきた。 今、この手を取れば。 泥臭くCPを稼ぐことも、周囲から嘲笑される下積みもすべて飛び越えて、いきなり彼女の「隣」に行くことができる。夢が、今この瞬間に叶うのだ。
(俺は……アリアさんの……)
リヒトがふらふらと右手を持ち上げ、その白く細い指先に触れようとした、その時だった。
「リヒトおおおおおおおおっ!!!!」
訓練場の重厚な扉が、蹴り破られるような轟音と共に吹き飛んだ。
「なっ……!?」と警備の高ランク探索者たちが慌てふためく中、肩で息をする小さな影が、一直線にリヒトのもとへ駆け寄ってくる。
黒いローブを翻し、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしたアイラだった。その後ろからは、いつもの白衣をなびかせ、不機嫌そうに丸眼鏡を光らせたクロエが堂々と歩いてくる。
「ア、アイラ!?それにマスターまで!」
「うちの稼ぎ頭が攫われたって聞いて、ギルドの転送履歴をハッキングしてやったわ。……随分と手荒な勧誘をしてくれるじゃない、戦乙女のお姫様?」
クロエが嫌味たらしく笑う中、アイラはリヒトのそばにへたり込むと、その服の裾を両手で強く、絶対に離さないとばかりに握りしめた。
「だめっ……!リヒトは、リヒトは私た(・)ち(・)の(・)パーティなの……!疫病神の私に、初めて手を差し伸べてくれた、大切な人なのっ!!」
自分に向けられる敵意や格の違いなど完全に忘れたかのように、アイラはSS級探索者であるアリアを力強く睨みつけ、必死に叫んだ。
「どんなに強い人でも……絶っ対に、リヒトは渡さないんだからっ!!」
その震える、けれど真っ直ぐな叫びを聞いた瞬間。 リヒトの脳内に満ちていた甘い誘惑が、霧が晴れるようにスッと消え去った。
(……俺は、何を迷っていたんだ)
アリアの手を取れば、確かに「彼女のそば」には行ける。 だが、それはただの「庇護下」に入るだけだ。
かつての瓦礫の下で震えていた無力な少年のまま、彼女に守られるだけの存在になることと同義。 俺が望んだのは、そういうことじゃない。
「——ごめんなさい、アリアさん」
リヒトは差し出されていたアリアの手を取らず、自らの足で、ゆっくりと立ち上がった。 そして、足元で震えるアイラの小さな頭を、いつもように優しくポンポンと撫でる。
「迎えに来てくれてありがとう、アイラ。ごめんね、心配かけて」
「リヒト……っ、う、うわぁぁぁん!」
いつもの温厚で、少し頼りない青年の笑顔に戻ったリヒトは、大泣きするアイラを宥めながら、改めてアリアに向き直った。その瞳には、かつてないほど澄み切った、強烈な意志の光が宿っていた。
「強くなるための最短ルートは、確かにあなたのクランにあるんだと思います。でも……俺は、俺を信じてくれたこの人たちと一緒に、自分の足で強くなりたい」
「理解できない。……それでは、一生私には届かないわよ」
「届いてみせます」
リヒトは静かに、けれど絶対に揺るがない熱を込めて宣言した。
「引き上げてもらうんじゃなくて、自分の足で這い上がって。いつか必ず、誰もが認める最強になって……あなたの背中ではなく、あなたの『隣』に並び立ちます」
ただの憧れではない。対等な一人の男として、彼女を支えるための誓い。 その真っ直ぐすぎる言葉と眼差しを正面から受けたアリアは、不意に、自分の胸の奥で「トクン」と小さな音が鳴ったのを感じた。
(……なに、これ)
今まで、強さだけを求め、孤独に氷の刃を振るい続けてきた彼女の心。
その凍りついていた感情の奥底に、得体の知れない小さな熱が芽生えたのだ。痛いような、くすぐったいような、初めて知る感情。 アリアは少しだけ目を伏せると、それ以上引き止めることはせず、静かに木剣を床に置いた。
「……好きにしなさい」
その声は相変わらず冷徹だったが、ほんの少しだけ、今までにはなかった不思議な揺らぎが混じっていた。
クロエに急かされるようにして訓練場を後にするリヒトたちの背中を、アリアはただ黙って見つめ続けていた。
「——さて、アリア・ヴァイスをフッてきた気分はどう、リヒト君?」
クランハウスを出た直後。夜風に吹かれながら、クロエがニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「マスター、からかわないでくださいよ。俺はただ……」
「まあ、君の真っ直ぐなところは評価してあげるわ。でもね、厄介なことになったわよ」
クロエは丸眼鏡を押し上げ、持っていたタブレットの画面をリヒトに向けた。 そこに表示されていたのは、探索者ギルド本部から発行された、最高機密を表す赤い封蝋のマーク。
「深層での変異種単独討伐。そして、世界最高のSS級探索者を力ずくで魅了した異常なポテンシャル。……ギルドのトップ連中が、君という『規格外』な存在をもう放っておかないそうよ」
クロエの言葉に、リヒトの背筋に冷たいものが走った。
「明日、ギルド本部最上階への出頭命令が出たわ。……いよいよ、国の頂点が君を試しにくるわよ」
交わるはずのなかった運命が絡み合い、少年を更なる深淵へと引きずり込もうとしていた。




