深層(2)
黒竜の極太の尻尾と、超質量の漆黒の戦槌【アバランチ】が拮抗し、火花と衝撃波が第33階層の巨大空洞に吹き荒れる。
「……ッ、グルルォォォォッ!!」
己の一撃が、虫ケラのような小さな人間に止められた。 その事実を本能で理解した『暴虐の黒竜』の変異種が、屈辱と怒りに満ちた咆哮を上げる。
だが、リヒトは一切の怯みを見せず、逆にニッと不敵な笑みを浮かべた。
「重さなら、俺の相棒だって負けてないんだよ」
リヒトは【筋力105】の全てを解放し、下から上へと戦槌を力任せに弾き返した。 数十トンはある黒竜の巨体が、信じられないことに、その理不尽な反発力によってフワリと宙に浮く。
「なっ……!?」
「ポーターが、変異種を弾き飛ばしたぞ!?」
A級探索者たちが悲鳴のような声を上げる中、真の異常はさらに連続して発生した。 黒竜が現れた空間の亀裂——それが閉じるどころかさらに大きく裂け、中から次々と新たな魔物の群れが吐き出されてきたのだ。
『深淵の骸竜』の群れ。
通常個体ですらA級パーティが警戒する深層の竜種が、変異種の放つ濃密な瘴気に当てられ、目を赤く発光させて狂乱状態に陥っている。その数は優に二十を超えていた。
「嘘だろ……スタンピード(魔物の暴走)かよ!」 「陣形を組め!アリア様を守るんだ!」
A級のベテランたちが慌てて武器を構えるが、彼らの顔には明確な絶望が貼り付いていた。 深層でのスタンピード。それは、国家認定クランが総力を挙げて対処するレベルの災害だ。
精神支配の余波で一瞬動きを封じられていたアリアが、歯を食いしばって立ち上がろうとする。 だが、それよりも早く、リヒトの姿がブレた。
「アリアさんは、下がっていてください」
温厚な声色とは裏腹に、その背中から放たれる殺気は、深層の魔物たちすら凌駕するほどに冷たく研ぎ澄まされていた。
「ギィィィィッ!!」
狂乱した三体の骸竜が、鋭い爪を振りかざしてリヒトに殺到する。 しかし、リヒトは回避すらしない。 彼は【アバランチ】を片手で軽々と振り回し、遠心力を乗せたまま真横に薙ぎ払った。
——ゴォォォォォォォンッ!!!
空洞の空気が圧縮され、爆発する。
黒星鉱の超質量が直撃した三体の骸竜は、悲鳴を上げる間もなく、鋼鉄の鱗ごと上半身を完全に粉砕されて吹き飛んだ。発生した衝撃波が後続の群れを巻き込み、巨大な竜たちがボウリングのピンのように次々と壁に叩きつけられていく。
「……え?」
背後で見ていたアリアは、思わず銀色の瞳を見開いた。 『B級』それが事前の名簿に記載されていた、彼のランクのはずだ。
だが、目の前で展開されている物理法則を無視した暴力は、どう控えめに評価してもA級の限界を突破している。S級——自分たちと同じ理外の怪物たちの領域に片足を踏み入れているのだ。
「次」
リヒトの猛攻は止まらない。 足元の岩盤を砕きながら跳躍し、空から迫る骸竜の群れの中に単身飛び込む。 一切の無駄がない、洗練された殺意。 アバランチの打撃面が竜の頭蓋を叩き割り、柄で顎を砕き、反動を利用して空中で姿勢を制御しながら次々と命を刈り取っていく。
彼自身の肉体が、極限の死線を越えるたびに【絶対適応】によって最適化されているため、その動きには一切の隙がなかった。
(……美しい)
ふと、アリアの脳裏にそんな単語がよぎった。 剣の軌道でも、魔法の輝きでもない。ただの鈍器による、血と泥にまみれたインファイト。 それなのに、彼が戦槌を振るうたびに、なぜか目が離せなくなる。
「グォォォォォォッ!!」
群れを蹂躙され、ついに体勢を立て直した黒竜が、リヒトに向かって口を大きく開いた。 喉の奥で、太陽のように眩い極大の熱線が収束していく。
「危ないっ!」
アリアが叫び、細剣を握り直して踏み込もうとした瞬間。
「大丈夫です」
リヒトは空中でアバランチを両手で握り締め、真っ向からその極大のブレスに向かって振り下ろした。 超質量の塊が、魔力の奔流と真正面から激突する。
——ズバァァァァァァァァンッ!!!!
信じられないことに、リヒトの振るった戦槌が、黒竜の放った熱線を文字通り「真っ二つにカチ割った」のだ。 左右に逸れたブレスが空洞の壁を溶かし、マグマの雨を降らせる中、リヒトは無傷で黒竜の脳天に着地した。
「これで、終わりだッ!」
【筋力105】の全てを叩きつけた渾身の一撃が、黒竜の硬質な頭蓋を貫通し、深層の空洞全体を揺るがす轟音と共に、巨体を地面に縫い付けた。
断末魔の咆哮が響き渡り、やがて巨大な変異種は、他の魔物たちと共にドロドロの光の粒子となって消滅していく。
後には、特大の魔石の山と、返り血一つ浴びていない青年の姿だけが残された。
「……ふぅ。これで全部かな」
リヒトはアバランチを背中のリュックの隙間に収めると、先ほどまでの冷酷な狂戦士の気配をすっきりと消し去り、いつものふんわりとした笑顔で振り返った。
「皆さん、お待たせしました!少し散らかっちゃいましたけど、魔石の回収、すぐやりますね!」
「「「…………」」」
A級探索者たちは、誰一人として声を出せなかった。 自分たちが手も足も出なかった深層の変異種とスタンピードを、荷物持ちの青年が、ただの物理打撃だけで一人で鎮圧してしまったのだ。脳が状況を処理しきれず、全員が口を開けたまま硬直している。
そんな静寂の中、コツ、コツ、と硬いブーツの音が空洞に響いた。
「アリア、さん……?」
リヒトが目を瞬かせると、目の前にSS級探索者・アリアが立っていた。 彼女は冷徹な銀色の瞳でリヒトの顔をじっと見つめ、そして彼の首元で揺れる『ステラ・ノヴァ』のクランバッジを一瞥した。
「あなた。名前は?」
「えっ、あ、リヒトです。リヒトって言います」
憧れの人に正面から名前を聞かれ、リヒトは少しだけ顔を赤くしてドギマギと答えた。
「リヒト」
アリアは小さくその名前を反芻すると、不意に手を伸ばし——リヒトの服の襟首を、ガシッと掴んだ。
「え?」
「あなたは今日から、私のクランに来なさい」
その場にいた全員の思考が停止した。 リヒト自身も、目を丸くしてパチパチと瞬きを繰り返す。
「えっと……アリアさん? 俺、一応『ステラ・ノヴァ』っていうクランに所属していて……」
「移籍金なら言い値で払う。契約書も私が本部で書き換えておく。だから、あなたは今日から『戦乙女の剣』の所属よ」
一切の有無を言わせない、圧倒的な強者の宣言。 彼女の瞳には、かつてないほどの強い執着と、絶対にこのイレギュラーを手放さないという意志が燃えていた。
「さ、帰還するわよ。荷物持ちの特務はこれで終わり」
「ちょ、ちょっと待ってください!俺にはクランに待ってる大切な仲間とマスターが——わぁぁっ!?」
アリアはリヒトの抗議を完全に無視し、襟首を掴んだまま、まるで新しいお気に入りのぬいぐるみを引きずるようにして、足早に転送陣の方へと歩き出した。 後に残されたA級探索者たちは、深層の脅威よりも理不尽なSS級探索者の強権発動に、ただ震えながらその背中を見送るしかなかった。




