深層の扉
第30階層のボス部屋。 『水晶の絡新婦』が残した特大の魔石を拾い上げ、リヒトは禍々しい赤黒い光を放つ第31階層への扉に手を触れた。 だが、どれだけ力を込めても、重厚なゲートはビクともしない。
「あれ、開かない……」
『当然よ、リヒト君』
耳元の通信機から、呆れたようなクロエの声が響いた。
『第31階層からは正真正銘の『深層』。そこから先は、A級以上のランクを持つ探索者か、大規模部隊の証明コードがないと物理的にロックが解除されない仕組みになっているわ。特例とはいえB級に上がったばかりの君たちじゃ、まだ入場資格がないのよ』
「そっか……。じゃあ、今日はここまでだね」
リヒトは名残惜しそうに扉を見つめた後、ふんわりといつもの柔らかな笑顔に戻り、アバランチを背中に収めた。 「帰ろっか、アイラ」と声をかけると、アイラもほっとしたようにコクリと頷いた。
——ステラ・ノヴァ地下拠点。
シャワーを浴び、作り置きの魔力食(迷宮産の米と高タンパクな魔物の肉)をきっちり腹に収めた後、リヒトはソファに腰を下ろしてステータスボードを呼び出した。
【名前】リヒト
【ランク】B級
【レベル】24
【所持CP】累計 14,250 / 50,000 CP(A級昇格試験まであと 35,750 CP)
【筋力】105(+3)
【耐久】102(+4)
【敏捷】98(+6)
【魔力】12(+0)
【感覚】50(+5)
「今回の獲得ポイントは……+4,250CPか。やっぱりA級までの50,000CPは遠いなぁ」
リヒトは苦笑いしながら数値を眺める。 レベルが上がり「魂の器」が拡張されたことで、ステータスは確実に成長している。だが、B級の超人領域(80〜150)に入ってから、数値の伸びは劇的に鈍化していた。
クロエいわく「対数的な成長曲線」。ステータスを10から50に上げる労力と、100から105に上げる労力は同等だという。
これまでの死に物狂いの戦闘でようやく手に入れた微小なプラスだが、この高ランク帯における「数値1の差」は、下位ランクの何十倍もの重みを持つ。
「でも、着実に強くなってる実感はあるよ。……それにしても、深層にはどうすれば行けるかな」
「朗報よ、リヒト君。君にぴったりの『特務』が入ったわ」
デスクで書類仕事に追われていたクロエが、丸眼鏡を押し上げながら振り返った。
「現在、第31階層から第33階層にかけて、魔物の異常繁殖と魔力溜まり——『ダンジョンの異変』が観測されているの。
ギルドはこれを重く見て、複数の中堅クランからなる中規模の合同調査パーティを結成したわ」
「合同パーティ……」
「ええ。そして、その不測の事態に備えた部隊の『現場指揮官』として、SS級探索者である『戦乙女の剣』のアリアが派遣されることになった」
その名前を聞いた瞬間、リヒトの肩がビクッと跳ねた。
「アリア………さんが……指揮を?」
「そうよ。君には、その合同パーティに『ポーター(荷物持ち)兼雑用』として参加してもらう手はずを整えたわ。
戦闘の義務は一切なし。これなら、B級の君でも合法的に参加できるし深層の空気を肌で感じてこられるでしょう」
「行きます! 絶対に!」
リヒトは身を乗り出して即答したが、クロエは少しだけ真面目な顔をして続けた。
「ただし、今回はリヒト君一人よ」
その言葉に、隣でお茶を飲んでいたアイラがしょんぼりと肩を落とした。
「アイラの『死神の領域』は、君とのコンビなら最強だけど、通常の探索者にとっては大惨事を引き起こす最悪のテロ行為だからね。大所帯の合同パーティに連れて行けば、出発前に味方から袋叩きにされるわ」
「……うぅ。お留守番、です……」
ローブの奥で耳を垂らすようなアイラを見て、リヒトは慌てて彼女の頭をポンポンと優しく撫でた。
「ご、ごめんねアイラ。俺、今回は勉強のために行ってくるから。アイラはここでゆっくり休んでて? 帰ってきたら、また一緒にダンジョンを開拓しよう」
「……うんっ。リヒト、気をつけてね」
リヒトの温かい手に目を細めながら、アイラは健気に頷いた。
——翌朝。第一大陸ダンジョン・第30階層ベースキャンプ。
深層攻略を目指す中規模合同パーティの集合場所は、重武装のベテラン探索者たちによる熱気と殺気で満ちていた。
その中で、リヒトは自身の背丈の倍はある特大のリュックサックを背負い、ぽつんと立っていた。超質量の戦槌【アバランチ】は目立つため、リュックの奥底に布で包んで隠してある。今の彼は、どこからどう見ても人畜無害で頼りない、ただの可愛い系男子にしか見えなかった。
「おい、お前が『ステラ・ノヴァ』から派遣されたポーターか?」
不意に、重鎧を着込んだ筋骨隆々の男——今回の参加者であるA級探索者が、眉間に皺を寄せて見下ろしてきた。
「はい!リヒトと言います。今日は皆さんの足手まといにならないよう、しっかり荷物運びをこなしますので、よろしくお願いします!」
リヒトがふんわりとした笑顔で頭を下げると、周囲の探索者たちから嘲笑交じりのため息が漏れた。
「おいおい、最近特例でB級に上がった話題のルーキーって聞いてたから警戒してたが……ただの優男じゃねえか」
「オラ、ポーター!これも持て。魔力バッテリーだ、落としたら殺すぞ」
A級探索者が意地悪く笑いながら、100キロは優に超える鉛の塊のような魔力バッテリーを、リヒトに向かって無造作に放り投げた。並のポーターなら下敷きになって骨折する重さだ。
だが。
「はい、お預かりしますね」
リヒトはニコニコと笑ったまま、飛んできたバッテリーを片手でふわりと受け止め、一切の体勢を崩すことなくリュックの隙間に押し込んだ。
「……あ?」
A級探索者が目を丸くした、その時だった。
「——遊んでいる暇はありません。出発のブザーが鳴りましたよ」
凛とした、空気を凍らせるような冷たい声がベースキャンプに響き渡る。 透き通るような銀糸の髪を揺らし、SS級探索者・アリアが現れた。
彼女が歩み寄るだけで、周囲のベテラン探索者たちが息を呑み、慌てて道を空ける。
アリアは騒ぎの中心にいたA級探索者たちを一瞥し、指揮官としての冷徹な眼差しを向けた。 しかし、彼女の銀色の瞳は、すぐにその奥でニコニコと笑っている荷物持ちの青年——リヒトの姿でピタリと止まった。
(……今、あの少年)
アリアのSS級の【感覚】は、先ほどのほんの数秒の出来事を正確に捉えていた。
100キロを超える質量を片手で受け止めた瞬間、少年の重心はミリ単位すらブレなかった。無駄な筋力を使わず、衝撃を完全に逃がす極めて洗練された肉体の使い方。あの温厚で頼りない笑顔の裏に、どれほど異常な密度の筋肉と体幹が隠されているのか。
(……ただのポーターじゃない。一体、何者?)
ほんのわずかな違和感。 しかしそれは、雲の上の存在であった戦乙女の瞳に、初めて「リヒト」という一人の青年がはっきりと映り込んだ瞬間だった。
「第31階層のゲートを開放します。……各員、油断しないように」
アリアの号令と共に、重厚な扉のロックが解除される。 溢れ出すのは、これまでとは比較にならないほど濃密で、肺を凍らせるような深層の瘴気に一歩踏み出したのであった。




