中層の終着点
第21階層から第29階層までの道のりは、まさに「蹂躙」と呼ぶにふさわしいものだった。
青白い光を放つ水晶の迷路の中を、二つの影が猛スピードで駆け抜けていく。
アイラが『死神の領域』を展開しながら走ると、待ち伏せしていた魔物たちは領域に触れた瞬間、例外なくその動きを鈍らせ、苦しげな呻き声を上げた。そこへ、一切のデバフを無効化したリヒトが飛び込み、漆黒の戦槌【アバランチ】を容赦なく叩き込む。
水晶の装甲を持つ巨大なゴーレムも、群れをなして襲い来る毒蛾も、すべてがリヒトの理不尽な暴力の前に数秒で粉砕されていった。 三十階層まではまだ中層とはいえ、一段階上の難易度を誇るはずの魔物たちが、まるで紙切れのようにすり潰されていく。
「ふぅ……この階層の魔物も、あらかた片付いたみたいだね」
最後の一匹だった巨大な毒蛾を魔石に変えた後、リヒトはアバランチを背中のホルダーに収め、振り返った。
先ほどまでの、氷のように冷たく研ぎ澄まされた狂戦士の気配は嘘のように消え去っている。彼はいつものふんわりとした、少しドジを踏みそうな青年の笑顔に戻り、腰のポーチから水筒を取り出してアイラに差し出した。
「アイラ、喉渇いてない? ずっとスキルを展開しっぱなしだったから、少し休もうか」
「あ、ありがとう、リヒト……」
アイラは水筒を受け取り、こくりと一口飲んだ。冷たい水が、熱を持った体に染み渡る。 彼女は水筒の両端をギュッと握りしめながら、目の前でニコニコと笑っている青年を見上げた。
(本当に、不思議な人……)
戦闘中のリヒトは、見ているこちらが息を呑むほど恐ろしく、そして頼もしい。一切の無駄がなく、冷酷なまでに的確に敵の命を刈り取っていく。 けれど、戦闘が終われば、こうしてアイラの体調を誰よりも気遣い、ひだまりのように温かく笑いかけてくれるのだ。
これまで三十以上のパーティから「疫病神」と罵られ、石を投げられるように追放されてきたアイラにとって、この扱いの落差はまだ少しだけ信じられないものだった。
「どうしたの? どこか痛む?」
「ううん、何でもない。ただ……リヒトと一緒だと、ダンジョンが全然怖くないなって思って」
アイラが少しだけ頬を染めて言うと、リヒトは照れくさそうに頭を掻いた。
「それはアイラのおかげだよ。アイラのサポートが完璧だから、俺はただ殴るだけで済んでる。アイラがいてくれなかったら、ここまで無傷で来られなかったよ」
「私の、おかげ……」
その言葉が、アイラの胸の奥をじんわりと温める。 自分の「呪い」が、誰かの力になっている。ただそれだけの事実が、彼女の足を前に進める何よりの原動力になっていた。
「よし、息も整ったみたいだし、行こうか」
リヒトが視線を向けた先には、これまでの階層とは比べ物にならないほど重厚で、巨大な水晶の扉がそびえ立っていた。
「ここが、第30階層。中層の終着点だね。……ここを越えれば、いよいよ第31階層からの『深層』が待っている」
リヒトの声から、再び温厚な響きが消え、静かな闘志が宿り始める。 深層。かつて交差点のモニターで見た、SS級探索者のアリアが日常的に潜っているという死の領域。そこへ足を踏み入れるための、最後の関門だ。
リヒトが両手で水晶の扉を押し開けると、中は広大なドーム状の空間になっていた。 天井には無数の輝く糸が張り巡らされ、その中央には、下半身が巨大な水晶の蜘蛛、上半身が妖艶な女性の姿をした階層主が鎮座していた。
『水晶の絡新婦』。 中層の魔物の中でも極めて高い知能を持ち、不可視の鋼糸と強力な魔法を操る最悪のトラップメイカーだ。
「シャァァァァッ!!」
侵入者を察知したアラクネが、鼓膜を劈くような威嚇の金切り声を上げる。 同時に、天井に張り巡らされていた無数の糸が生き物のように蠢き、鋭い刃となってリヒトたちに襲いかかってきた。
「アイラ!」
「うんっ! 『死神の領域』!!」
アイラが胸の前で両手を組み、固有スキルを全開にする。 ドクンッ、と。 広大なボス部屋の空気が一気に重く沈み込んだ。
「ギ、チ……ッ!?」
アイラの領域に触れた瞬間、アラクネの放った魔力帯びた鋼糸からプツンと張力が失われ、ただの脆い糸屑となって床にパラパラと落ちていく。 アラクネ自身の巨体も、突如として降りかかった【筋力】と【魔力】の半減という理不尽なデバフに耐えきれず、自重を支えきれずにドスンと水晶の床に腹を擦り付けた。
「遅い」
リヒトの姿は、すでにアラクネの頭上にあった。 一切のデバフを受け付けず、逆に適応によってステータスを爆発的に高めたリヒトの脚力は、数十メートルの距離を一瞬でゼロにしていた。
「ギ、ギャァァァッ!?」
「これで終わりだ」
空中で身を翻したリヒトは、全身のバネを使い、黒星鉱の戦槌【アバランチ】を脳天に向かって真っ直ぐに振り下ろした。 B級領域の筋力と、超質量が織りなす圧倒的な破壊力。
——ゴガァァァァァァンッ!!!
空気が爆発するような轟音と共に、アラクネの強固な水晶の装甲が粉微塵に砕け散った。 衝撃波はアラクネの巨体を貫通し、その下にあるドームの床をもすり鉢状に陥没させる。
悲鳴を上げる間もなかった。中層最後の壁として君臨していた階層主は、たったの一撃で跡形もなくひしゃげ、大量の光の粒子と特大の魔石を残して消滅した。
舞い散る光の粒子の中で、リヒトは静かに着地し、アバランチを肩に担ぐ。 そして、ゆっくりと顔を上げ、ボス部屋の奥に現れた新たなゲートを見据えた。 赤黒く、禍々しい魔力を放つ、第31階層への扉。
「……勝ったね、アイラ」
「うん……っ!」
駆け寄ってきたアイラに向かって、リヒトはいつもの優しい笑顔を向けた。




