遠い背中
酒場を出て、探索者ギルド本部の広大なエントランスを歩きながら、アイラは信じられないものを見るような目で隣を歩く青年を見上げていた。
「本当に、体が重くならないの……?」
「うん。むしろ、アイラのスキルのおかげで体が常に戦闘態勢(適応状態)を維持できるから、調子がいいくらいなんだ。アイラは何も気にしないで、俺の後ろをついてきてくれればいいよ」
リヒトは少し困ったように、けれどひだまりのように優しく笑って返した。 その声色は穏やかで、アイラの目から見ても、彼がダンジョンの中層を単独で蹂躙してきた規格外の探索者だとは到底思えなかった。
普段のリヒトは、どこか放っておけないような、頼りなさと人の良さを滲ませた普通の青年にしか見えない。
すれ違う探索者たちがアイラの『死神の領域』の気配に顔をしかめ、あからさまに距離を取っていく中、リヒトだけは一切のデバフを受け付けず、それどころか気遣うように彼女の歩幅に合わせて歩いてくれていた。
その時だった。 突如として、エントランス全体が水を打ったように静まり返り、次いで地鳴りのような歓声とどよめきが沸き起こった。
「おい、見ろ……『戦乙女の剣』だ!」 「第70階層の遠征から帰還したらしいぞ。信じられねえ、たった一つのクランで……」
モーセの十戒のように、エントランスにひしめき合っていた数百人の探索者たちが左右に割れ、中央に真っ直ぐな道ができる。 リヒトとアイラも、その群衆の波に押されるようにして端へと追いやられた。
開かれた道を、十数名の高ランク探索者たちが歩いてくる。誰もがA級以上の実力者であり、放つ魔力のプレッシャーだけで下位の探索者を平伏させるほどの威圧感を持っている。 だが、群衆の視線をただ一身に集めているのは、その集団の先頭を歩く一人の少女だった。
透き通るような銀糸の髪。 歩くたびに周囲の空気が凍りつくような、冷たくも神々しい魔力の残滓。 世界に十人しか存在しないSS級探索者、『戦乙女の剣』マスター・アリア。
(アリア……)
リヒトは息を呑み、群衆の隙間から彼女の横顔を食い入るように見つめた。 交差点のモニター越しではない。生身の彼女。 B級のステータス領域に足を踏み入れ、少しは近づけたと思っていた。
だが、実際に目の当たりにしたSS級の存在感は、理外の怪物そのものだった。彼女が瞬きをするだけで、呼吸をするだけで、空間そのものが彼女の力に屈服しているのが分かる。
アリアがリヒトたちの目の前を通り過ぎる。 その銀色の瞳がこちらを向くことはない。彼女にとって、沿道に立つ無数の有象無象など、景色の一部に過ぎないのだ。
ふわりと、冷たい冷気と共に微かな花の香りがリヒトの鼻腔をくすぐった。 その瞬間、リヒトの脳裏に、決して色褪せることのない数年前の記憶がフラッシュバックする。
——あれは、リヒトがまだ探索者にもなっていない、ただの無力な民間人だった頃。 第一大陸の居住区近郊で、小規模な魔物の暴走が発生した。逃げ遅れたリヒトは、崩れた瓦礫の下敷きになり、迫り来る巨大な魔獣の牙を前に、ただ死を覚悟して目を閉じた。
だが、痛みは訪れなかった。 代わりに響いたのは、空気を凍らせるような美しい剣鳴。 目を開けると、巨大な魔獣は一瞬にして氷の彫像と化し、砕け散っていた。その氷塵の向こう側に立っていたのが、当時まだA級に昇格したばかりだったアリアだった。
彼女は周囲の安全を確認すると、瓦礫の下で震えるリヒトに歩み寄り、そっと手を差し伸べた。
『怪我はない?もう大丈夫よ』
それは、圧倒的な強者の顔ではなかった。 一人の人間を救えたことに安堵し、心底ほっとしたように見せた、年相応の柔らかく、不器用な微笑み。 その瞬間だった。リヒトの心臓が、恐怖とは全く別の理由で激しく跳ねたのは。
神様でも、偶像でもない。ただ一人の女の子としての、あの笑顔。 彼女はきっと、誰もが絶望するような死線の中で、ずっとあの笑顔のまま誰かを守り続けているのだ。 なら、誰が『彼女』を守るのか。誰が、彼女の隣でその背中を支えるのか。
(——俺だ。俺が、あの人の隣に立つ)
ただ守られるだけのモブで終わるつもりはない。 無謀だと、身の程知らずだと笑われてもいい。成り上がりたい理由が、あの不器用な笑顔を守りたいという『初恋』でも、俺は一向に構わない。
「……リヒトさん?」
不意に袖を引かれ、リヒトはハッとして我に返った。 見れば、アイラが不思議そうな顔で彼を見上げている。いつの間にか『戦乙女の剣』の面々はギルドの奥へと消え、エントランスには日常の喧騒が戻り始めていた。
「あ、うん。ごめんね、少しぼーっとしちゃってた」
「あの女の人、見てた。……すごく、綺麗」
アイラの言葉に、リヒトは静かに頷き、アリアが消えた廊下の奥を見据えた。
「うん。綺麗で、とんでもなく強い。……俺が、絶対に追いつかなきゃいけない人なんだ」
「リヒトさんの、目標?」
「ううん」
リヒトは少しだけ照れくさそうに笑った後、自身の腰に提げたギルドタグを強く握りしめた。
その瞬間、アイラは思わず息を呑んだ。隣で微笑む温厚な青年の瞳の奥に、ダンジョンの最深部すら焼き尽くすような、鋭く圧倒的な闘志が宿ったのが分かったからだ。戦闘の時だけ顔を出す、頼もしくて、どうしようもなく惹きつけられる強者の気配。
「俺が隣に立つ人、かな。……行こうか、アイラ。俺たちが深淵に辿り着くためには、B級昇格試験っていう通過点、パパッと終わらせないといけないからね」
アイラは目を丸くした後、ローブの奥で小さく、本当に小さく笑った。 かつて無力だった少年が抱いた、途方もない初恋。 それを現実のものとするための狂気めいた快進撃が、規格外の相棒と共にここからさらに加速していく。




