第9話 《沈黙》
闘技場に、音がなかった。
数万人がいる。
なのに。
誰一人、声を出せない。
観客席の全員が、遥か彼方の山脈を見ていた。
裂けている。
本当に。
巨大な頂が、斜めに滑り落ち、土煙を噴き上げていた。
遅れて地鳴りが届く。
ゴゴゴゴゴ……。
その振動だけが、今起きた現実を否定できないものにしていた。
「……なん、だ……」
誰かが掠れた声を漏らす。
返事はない。
理解できる者がいない。
闘技場中央。
カインは真っ青な顔で固まっていた。
「ち、違っ……俺、そんなつもりじゃ……」
完全に焦っている。
本気で事故だと思っていた。
だが、その言葉すら誰も聞けない。
観客たちの脳は停止していた。
今の一撃。
闘技場を狙っていたら。
街そのものが消えていた。
その事実に気づいた瞬間、人々の背筋を冷たい恐怖が走る。
「化け物……」
ぽつりと漏れた声。
それが引き金だった。
ざわめきが広がる。
「いや……無理だろ……」
「人間じゃねぇ……」
「戦姫様の奥義を止めたぞ……?」
「指で……」
恐怖。
畏怖。
混乱。
感情が渦巻いていく。
一方。
アイリスは動かなかった。
剣を握ったまま、静かにカインを見つめている。
その瞳には、もう敵意はなかった。
代わりにあるのは。
理解。
そして敗北。
彼女はゆっくりと剣を下ろす。
ガシャン。
金属音が響く。
続いて。
片膝をついた。
観客席がどよめく。
「アイリス様……!?」
王国最強騎士。
無敗。
戦場で一度も膝をつかなかった女。
その彼女が、今。
完全敗北を認めていた。
しかも。
カインは無傷。
服すらほとんど破れていない。
アイリスは乾いた笑みを浮かべた。
「……化け物め」
だが不思議と嫌悪ではなかった。
むしろ呆れに近い。
戦えば分かる。
目の前の少年は、技量で上回っているわけじゃない。
才能とも違う。
もっと根本的な何か。
世界の法則から外れている。
アイリスは静かに立ち上がる。
そして観客席最上段を見た。
王女席。
セリス・ルミエルは、微動だにせずカインを見つめていた。
その蒼眼だけが異様に冷静だった。
周囲の貴族たちは混乱している。
「あり得ません!」
「あんなもの国家が許していい存在では……!」
「封印を――」
「いや、確保すべきだ!」
騒ぎ続ける側近たち。
だがセリスは聞いていなかった。
彼女の頭は高速で状況を整理している。
山脈切断。
神殿停止。
災害級魔獣瞬殺。
そして、アイリス完敗。
ここで重要なのは“強い”ことではない。
もし強いだけなら、国家戦力として扱える。
管理できる。
交渉も可能。
だがカインは違う。
測れない。
制御不能。
理論外。
つまりこれは。
(個人戦力ではない)
セリスは結論づける。
(国家バランスそのものを破壊する存在)
もし他国へ渡れば。
戦争の概念が変わる。
抑止力。
神。
あるいは終末兵器。
扱い一つで世界情勢が崩壊する。
それほどの危険性。
同時に――。
それほどの価値。
セリスは静かに立ち上がった。
観客席がざわつく。
王女が動いた。
彼女は階段を下り、闘技場中央へ向かう。
騎士たちが慌てて続く。
だが誰も止められない。
カインは近づいてくるセリスを見て困惑した。
「えっと……」
セリスは数歩手前で止まる。
そして優雅に一礼した。
その瞬間。
観客席が凍りつく。
王族が。
一介の少年へ礼をした。
セリスは静かに口を開く。
「カイン・ヴェルクロフト様」
様付け。
ざわめきが広がる。
カイン本人が一番驚いていた。
「は、はい?」
セリスは真っ直ぐ彼を見る。
その瞳には恐怖も侮蔑もない。
あるのは明確な意思だけ。
「あなたには、王都へ来ていただきます」
静寂。
そして。
王女ははっきりと言った。
「この方を、国家管理下へ」
その一言で。
アルディアの空気が、完全に変わった。




