第32話 《アイリスの剣》
夜。
王立魔導学園・訓練場。
昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
月光だけが、白い石畳を照らしている。
その中央。
一人の女性が剣を振っていた。
――ヒュン。
空気が裂ける。
速い。
重い。
美しい。
一振りごとに、大気が震えていた。
王国最強騎士。
《戦姫》アイリス。
誰もが憧れ。
誰もが恐れる存在。
だが今の彼女の横顔は、どこか冷たかった。
機械みたいに剣を振る。
感情を切り落としたみたいに。
その時。
訓練場入口から、のんびりした声が聞こえた。
「……まだやってたんですね」
アイリスの剣が止まる。
振り返る。
カインだった。
手にはまたパン。
もはや標準装備である。
アイリスは小さく息を吐いた。
「お前は本当にどこでも現れるな」
「すみません」
謝る。
最近のカインは大体謝っている。
彼は近くの段差へ腰掛けた。
アイリスは再び剣を構える。
「眠れないんですか?」
「騎士に睡眠は不要だ」
「いや絶対必要ですよね?」
正論だった。
少しだけ沈黙。
剣を振る音だけが響く。
カインはぼんやりそれを見ていた。
本当に綺麗だった。
力強いのに無駄がない。
戦うためだけに研ぎ澄まされた剣。
だが。
だからこそ。
どこか苦しそうだった。
カインがぽつりと言う。
「アイリスさんって、ずっと頑張ってきたんですね」
剣が止まる。
アイリスは少しだけ目を細めた。
「……急に何だ」
「いや、なんか」
「すごく鍛えてる人の剣だなって」
単純な感想。
でも。
アイリスは少し黙った。
昔を思い出す。
幼い頃。
彼女は剣の才能を持っていた。
誰より速く。
誰より強かった。
だから期待された。
騎士団。
王国。
貴族。
民衆。
みんな彼女へ言った。
《最強になれ》
《王国を守れ》
《戦姫になれ》
気づけば。
周囲から普通に扱われなくなった。
友人も減った。
皆、距離を置く。
恐れる。
敬う。
崇拝する。
でも。
誰も“アイリス本人”を見ない。
ただ《王国最強》を見る。
だから彼女は強くなり続けた。
それしか価値がないと思ったから。
アイリスは静かに言う。
「強ければ、人は離れる」
カインが首を傾げる。
「そうですか?」
「……そうだ」
アイリスは夜空を見る。
「皆、私を恐れる」
「期待する」
「だが隣には立たない」
静かな声だった。
感情を押し殺した声。
カインは少し考える。
そして普通に言った。
「でもアイリスさん、いい人ですよね」
沈黙。
アイリスが止まる。
「……は?」
「え?」
カインは本気だった。
「街守ってましたし」
「真面目ですし」
「あと面倒見いいですよね」
「……」
アイリスが完全に固まる。
そんな評価、久しく言われていなかった。
皆まず、
《強い》
と言う。
《戦姫》
と言う。
《最強》
と言う。
でもカインは違った。
強さを見ていない。
普通に人として見ている。
それが。
妙に胸へ刺さる。
アイリスは視線を逸らした。
「……変な奴だなお前は」
「最近よく言われます」
またそれだった。
少しだけ沈黙。
夜風が吹く。
アイリスはふと聞いた。
「お前は怖くないのか」
「何がです?」
「私だ」
王国最強。
国を滅ぼせる剣。
実際、多くの者が彼女を恐れている。
だが。
カインは即答した。
「優しい人だなって思ってます」
あまりにも自然だった。
打算ゼロ。
嘘もない。
だから。
アイリスは少しだけ困った顔をした。
強さではなく。
自分自身を見られることに慣れていない。
胸の奥が、少しだけ熱い。
気まずくなって剣を振ろうとする。
だが。
ふと。
カインが言った。
「あと笑った方が絶対いいと思います」
「……何?」
「アイリスさん、ずっと怖い顔してるので」
失礼だった。
アイリスが呆れる。
「お前な……」
だが。
その時。
カインが真面目な顔で続けた。
「もったいないですよ」
静かだった。
だからこそ。
その言葉は変に残った。
アイリスはしばらく黙る。
そして。
ふっと。
ほんの少しだけ口元が緩んだ。
微笑み。
戦姫ではない。
一人の少女としての表情。
カインが目を丸くする。
「……あ」
アイリスは気づいて少し視線を逸らした。
「見るな」
「いや、なんか安心しました」
「何がだ」
「ちゃんと普通に笑えるんだなって」
失礼すぎる。
だが。
不思議と嫌ではなかった。
夜風が静かに吹く。
訓練場。
月光の下。
王国最強の戦姫は。
生まれて初めて。
少しだけ肩の力を抜いて笑っていた。




