第6話:聖域の陥落と鉄槌
本日3話目
王都視察を終えたその夜。
輝に与えられた王城の豪奢な客室の扉が、控えめに、しかし自己主張の強いリズムでノックされた。
「勇者様、夜分遅くに失礼いたしますわ」
甘ったるい声と共に現れたのは、隣国の聖女イザベラだった。
彼女は昼間の豪奢な聖衣から一転、肩と胸元を大胆に露出した、夜の闇に溶け込むような真紅のイブニングドレスを纏っていた。
散りばめてられた宝石が、室内のシャンデリアの光を受けて妖しく瞬いている。
「イザベラ様。こんな時間に、どうされましたか?」
輝は本に落としていた視線を上げ、柔らかな、しかしどこか隙のない微笑みを向けた。
「王族の方々が、勇者様と私を囲むささやかな夜会を催してくださるそうですの。ぜひ、ご一緒してはいただけないかしら?貴方と二人きりで、神の愛についてもっと深く語り合いたいのですわ」
扇子の奥から流し目を送るイザベラ。
その瞳は「私という極上の見返りを与えてあげる」という傲慢な自信に満ちていた。
輝は内心で深く息を吐き出した。
(……くだらない。イザベラの自己顕示欲を満たすための茶番に付き合うリソースなど、俺には一秒たりとも存在しない)
だが、表面上は少しだけ困ったような、憂いを帯びた表情を作る。
「お誘いは本当に光栄です、イザベラ様。ですが……本日の視察で、この世界が抱える悲しみを多く目の当たりにしました。僕は今夜、一人で祈りを捧げ、己の無力さと向き合いたいのです。せっかくのお誘いを、本当に申し訳ありません」
「……そうですの。勇者様は、本当に真面目な方ですわね。それでは、またの機会に」
イザベラの顔が一瞬だけ不満げに歪んだが、すぐに余裕の笑みを取り繕い、ドレスの裾を翻して部屋を後にした。
重厚な扉が完全に閉まり、彼女の香水の匂いが消えた瞬間。
輝の顔から、一切の感情が抜け落ちた。
「……さて。邪魔者も消えたことだし、仕事を再開するか」
輝の意識は、すでに自室から遠く離れた二つの場所へと飛んでいた。
輝の脳内では、現在二つのミッションが同時進行していた。
一つは、王城に潜む他国の密偵の処理。
もう一つは、昼間に教会で感知した『地下の結界』の突破である。
輝の意識の9割は、後者の魔法構築に割かれていた。
(教会の結界……物理的な力や単純な魔力で破壊するのは容易いが、それではダメだ。外から破壊された痕跡を残せば、『何者かの襲撃を受けた悲劇の教会』という同情を買ってしまう。『神の奇跡』に泥を塗るには、結界が内部から、あるいは神の意志によって解かれたように見せかける必要がある)
輝はベッドに横たわり目を閉じながら、既存の魔術体系を根本から書き換えるような、極めて複雑で多層的な術式を脳内で編み上げていく。
矛盾する論理をねじ伏せ、新たな理を定義する。
その圧倒的な知的興奮が、輝の脳髄を心地よく痺れさせていた。
『創造魔法承認――オリジナル魔法【位相透過】の構築を完了しました』
(よし。これで結界を破壊することなく、完全に同化してすり抜けることができる)
輝は口角を冷酷に吊り上げると、もう一つのミッション――密偵の処理へと意識の比重を移した。
***
深夜の王城裏、人気のない廃棄区画では、月明かりすら届かない深い闇の中で、五つの人影が息を潜めていた。
晩餐会で輝の【広域鑑定アーカイブ】によって特定された、他国の工作員たちである。
「……これが今回の報告書だ。早急に本国へ送れ」
配膳係に変装した男が、黒装束の男に小さな羊皮紙の筒を渡そうとした、まさにその瞬間だった。
足元の影が突如として沸騰したように波打ち、そこから音もなく無数の手が伸びた。
「なっ……!?」
悲鳴を上げる間もなかった。
近くにいた三人の工作員は、影から這い出した輝の分身体たちによって一瞬で関節を極められ、冷たい石畳に顔を押し付けられた。
「チィッ!罠だ、引け!」
後方で警戒していた二人の監視役が即座に見切りをつけ、闇の中へと逃走する。
分身体たちは追わなかった。
(泳がせろ。あいつらが逃げ込む先が、この王都における敵の拠点だ。マーカーを付けて監視を続けろ)
輝は王城のベッドの上から、分身体たちの視覚を通して無機質に命令を下す。
拘束された三人の工作員は、顔を床に擦り付けられながらも、凄まじい執念で口を閉ざした。
(舌を噛み切る気か。古典的だが、面倒な忠誠心だ)
現場の分身体が、拘束した工作員の顎を容赦なく蹴り上げ、自死を防ぐ。
輝は分身体の口を借りて、静かに、ひどく冷淡な声で語りかけた。
「名前は……ラインハルト。階級は中尉、だな?故郷の妹は、来月結婚式だったな」
「……ッ!?」
男の目が驚愕に見開かれる。
「隣の君は……ああ、君が横領した組織の裏金、隠し場所はあの教会の裏の古井戸か。つまらない場所に隠したものだ」
絶対に外部に漏れるはずのない極秘情報。
さらには個人の恥部までが、淡々と読み上げられていく。
【真理の眼(鑑定)】が暴き出した彼らの人生の履歴書は、今や輝にとって最悪の拷問器具となっていた。
「なぜ……お前、何者だ……っ!」
「君たちの主君は、なかなか合理的な判断をするようだね」
輝は、事実の中に決定的な『毒』を混ぜ込んだ。
「君たちが捕縛された場合を想定し、すでにお前たちの家族の『処分』を決定している。君たちの忠誠など、向こうにとっては安い使い捨ての駒に過ぎないというわけだ」
「嘘だ!閣下は、我々を……!」
「嘘だと思うなら、そのまま死ねばいい。だが、君たちがここで沈黙して死んだところで、故郷の妹が明日も生きている保証はどこにもない」
分身体の冷たい瞳に見下ろされ、工作員たちの目から急速に光が消えていく。
彼らが命を懸けて守ろうとした誇りも、忠誠心も、すべては脆くも崩れ去った。
輝は、精神が完全に崩壊し、都合の良い操り人形へと成り下がっていく彼らを、壊れた時計の部品でも見るような目で観察していた。
(忠誠心という不確かなものに人生を賭ける。その合理性の欠落が、いかに滑稽なことか。……さて、これで帝国の情報網は俺のものだ)
輝は分身体に彼らを王城地下の秘密牢へ移送するよう命じ、意識をいよいよ本命の場所――聖教会へと向けた。
***
深夜の聖教会。
輝の分身体は、【影渡り】で教会の敷地内に潜入し、大聖堂の地下へと続く隠し階段の前に立っていた。
目の前には、高密度の魔力で編まれた不可視の『聖域結界』が張り巡らされている。
(……行くぞ)
分身体が先ほど構築した【位相透過】を発動すると、結界は一切の抵抗を見せることなく、分身体の肉体を波紋のように通過させた。
結界をすり抜けた先。
教皇の私室のさらに奥に隠された広大な地下空間に足を踏み入れた瞬間、輝の分身体は思わず足を止めた。
「……これは」
王城の自室にいる輝本体の眉間にも、深い皺が刻まれた。
そこは、豪華絢爛な装飾が施された、巨大な『鳥籠』のような空間だった。
床には最高級の絨毯が敷き詰められ、壁には甘ったるい香の煙が揺らいでいる。
そして、その檻の中にいたのは――数十人の、まだ十にも満たないような幼い少女たちだった。
皆、恐怖に瞳を濁らせ、薄汚れた衣服のまま身を寄せ合って震えている。
その鳥籠の前で、豪華な法衣を着崩した教皇と、恰幅の良い枢機卿が、ワイングラスを片手に下卑た笑い声を上げていた。
「さあ、今日はどの子に神の愛(洗礼)を授けようか」
「孤児院から最高の素材を仕入れましたからな。教皇猊下のお眼鏡にかなうかと」
輝は即座に【真理の眼(鑑定)】を発動した。
表示されたステータスウィンドウの備考欄には、【嗜好:幼体】【特性:支配欲】【多数の幼児虐待および殺害】といった、吐き気を催すような醜悪なタグがずらりと並んでいた。
(……なるほどな)
輝は王城のベッドの上で、忌々しげに舌打ちをした。
当初、輝が描いていたプランはこうだ。
(教会の不正の証拠を掴み、教皇を秘密裏に脅迫する。そして教皇を傀儡として操り、教会の莫大な資産と権威を無傷のまま自分の手中に収める)
それが、最も効率的で合理的な支配の形だった。
だが――。
(打算で動く人間は御しやすい。脅せば言うことを聞くからな。だが、本能の奴隷となっている獣はダメだ。いずれ必ず計算を狂わせる)
それに。
輝は自身の内側から湧き上がる、冷たく黒い感情を自覚していた。
(何より、胸糞が悪い。俺の美学はこれを許容できない)
輝は冷酷な支配者であり、人間を駒としか見ていない。
だが、無力な善人や子供を意味もなく踏みにじるような下劣な悪を好むわけではなかった。
(計画変更だ。最も効率的な支配を捨てる。最速で、かつ最も残酷な形でこいつらを破滅させ、俺の不快感を排除する)
輝の瞳に、絶対零度の殺意が宿った。
***
数十分後。
深夜の大聖堂の礼拝堂に、慌ただしい足音が響き渡った。
「こ、こちらです!こちらから信じられないような邪悪な気配が……!」
輝が精神干渉魔法で密かに誘導した、真面目なホフマン大司教である。
彼の背後には、異変を察知して駆けつけた近衛騎士団のレオンたち、そして深夜の祈りに訪れていた数十人の熱心な信徒たちが続いていた。
「大司教様、一体どこへ……!?」
レオンが松明を掲げた先、壁の一部が不自然に開いているのを見つけた。
地下へと続く隠し階段だ。
ホフマンたちが恐る恐る階段を降りていくと、不可視の結界が行く手を阻んだ。
(さあ、開演だ)
闇の中に潜む輝の分身体が指を鳴らした。
パァンッ!!
という甲高い音と共に、決して破られるはずのない教会の『聖域結界』が、内側から弾け飛ぶように粉々に砕け散った。
「なっ……結界が!?」
ホフマンたちが雪崩れ込んだ先――。
そこには、逃げ場を失い、輝の分身体が放った拘束魔法によって床に無様に這いつくばらされた教皇と枢機卿の姿があった。
教皇と枢機卿の姿があった。
そして、その奥の鳥籠の中で震える少女たち。
「きょ、教皇猊下!?これは、一体……!?」
「そ、その娘たちは……孤児院で行方不明になっていた子供たちじゃないか!」
松明の光に照らされた、あまりにも醜悪で残酷な真実。
信徒たちの間から悲鳴が上がり、レオンたち騎士団は怒りで剣の柄を握りしめた。
教皇は顔を真っ赤にして叫んだ。
「ち、違う!これは陰謀だ!誰かが私を陥れようと……!」
だが、その言葉を信じる者は誰もいなかった。
輝の分身体は、騒ぎが頂点に達したのを見計らい、闇に溶けるようにしてその場から立ち去った。
(神の代弁者が、悪魔の所業か。皮肉なものだな、ホフマン大司教。あとは、正義感に燃えるあんたたちに任せるよ)
***
翌朝、王都は未曾有の混乱に包まれた。
教会の最高指導者である教皇と枢機卿の忌まわしい犯罪は瞬く間に知れ渡り、聖教会の権威は一夜にして完全に失墜した。
公開処刑、あるいは終身禁固は免れないだろう。
教会は実直なホフマン大司教が暫定的なトップとして事態の収拾に当たることになったが、失われた信用を取り戻すのは容易ではない。
教皇たちの利権を引き継ごうと、早くも貴族たちが群がり始めているという情報も入っていた。
王城の自室。
輝は窓から、騒然とする王都の街並みを見下ろしながら、冷めた紅茶を口に運んだ。
(予定より随分と手間取ったし、最高の傀儡を手に入れるチャンスを一度捨てた。……だが、あの胸糞悪い獣どもを排除できたことには満足している)
輝は自身の美学を優先したことを悔やんではいなかった。
(しかし、事態は急を要する。教会の権威が落ちた今、あの孤独な聖女クラリスを救い出し、俺の絶対的な手駒にするプランは、この混沌に乗じて組み直す必要があるな)
さらに、分身体からの報告によれば、第一王子のジャックがこの教会の混乱に乗じて、何やら不穏な動きを見せているという。
(血の気の多いガキが、何か企んでいるらしいな。早めに芽を摘んでおくか)
輝はティーカップを静かにソーサーに置いた。
盤面は荒れ狂っている。
だが、その混沌すらも、偽りの勇者は冷酷な笑みをもって見つめていた。
次の一手を、どう打つか。
彼の脳内で、新たな支配のシナリオがすでに動き始めていた。




