第19話:影の疑念と名もなき魔王
アーデルハイド王国の第一王子ジャックは深夜の執務室で一人羽ペンを走らせていた。
かつての傲慢な面影は消えその表情には次期国王としての重責と拭いきれない疲労が刻まれている。
邪神の呪いから解放された彼は自らの犯した罪を深く悔い改め民のための献身的な政務に身を投じていた。
だが。
「……ふぅ」
ふとした瞬間に彼を襲うのは感謝や達成感ではなく背筋を凍らせるような正体不明の違和感だった。
ジャックはペンを置き窓の外に浮かぶ銀色の月を見上げた。
「俺は確かにあの時何者かに完璧に嵌められた。あるはずのない証拠……」
幽閉された直後に交わした勇者・天道輝のあの冷徹な視線が今も脳裏に焼き付いて離れない。
その後あまりにもタイミングよく現れた『新たな魔王』。
そして世界を救う絶対的な英雄として君臨した輝。
パズルのピースがあまりにも美しく噛み合いすぎているのだ。
「妹のアリシアも聖女も民衆も皆あいつを狂信している。……だが俺は知っている。あいつの笑顔の奥には底知れぬ狂気と計算が潜んでいることを」
しかし証拠は何一つない。
それどころかあいつは俺を不問にし王位継承権まで回復させてくれた大恩人なのだ。
この疑念を口にすればジャックこそが狂人として再び幽閉されるだろう。
ジャックは孤独な戦慄を押し殺し再び書類の山へと視線を落とした。
一方その頃。
絶海の島アビスに聳え立つ大魔塔の最深部では漆黒の鎧を纏った『魔王』が孤独な戦いに挑んでいた。
「ふははは!我が絶望の塔へようこそ、矮小なる人間どもよ!」
玉座に座り威厳たっぷりに宣言する魔王の声が広間に響き渡る。
その威圧感に気圧され偵察に来た冒険者たちは悲鳴を上げて逃げ出していった。
「よし、行ったな」
冒険者たちが完全に視界から消えた瞬間魔王は玉座から立ち上がった。
彼は手にした巨大な魔剣を傍らに置き代わりに掃除用のモップを手に取った。
「あー……今日も入り口付近の足場を汚された。毒沼の濃度調整もやり直しだ」
漆黒の鎧の奥から漏れるのは禍々しい呪詛ではなく社畜のような溜息だった。
輝の分身体であるこの魔王には一つの大きな悩みがあった。
それは自分にだけ『名前』が与えられていないことである。
「ジーク殿やカイト殿には立派な名前があるのに。私はシステム上『魔王(仮_001)』……。主様、私にもかっこいい名前が欲しかったです」
彼は輝の指示通り『恐怖の象徴』を演じながら裏ではダンジョンの清掃やトラップの設置、魔物の培養といった激務を一人でこなしていた。
主である輝に意見するなど滅相もない。
彼は名もなき自分を使命に駆り立ててくれた主のために今日も健気に毒沼の成分を微調整する。
「いかん、泣き言を言っている暇はない。私は主様の完璧な計画の要なのだから!」
その頃ヴォルガンド帝国の皇帝主催の晩餐会ではもう一人の分身体が別の意味で絶望の淵に立たされていた。
「ジーク殿!貴方ほどの武の才を持つ者が帝国の将軍にならぬなど宝の持ち腐れだ。どうか私の伴侶となりこの国を支えてくれ!」
帝国の第三皇女カタリナが顔を紅潮させジークに詰め寄っていた。
周囲の令嬢たちからも熱烈な視線と黄色い歓声が飛び交い会場は異様な熱気に包まれている。
だがジークは眉一つ動かさず冷徹なまでに平坦な声で答えた。
「お断りいたします。私には守るべき主の剣としての役割があり色恋などという不要な感情は持ち合わせておりません」
「くっ……権力にも美貌にも屈しないその鋼のような精神!ますます惚れたわ!」
ジークは心底困惑していた。
彼に生殖機能……いわゆる『下の機能』が実装されていないのは紛れもない事実である。
物理的に女の肌を抱くことができないからこそ事実を述べただけなのだがそれが結果として『究極の硬派』というブランドを確立させてしまっていた。
(なぜこうなる……主よ、早く次の指示を。私にはこの令嬢たちの情熱が魔王の猛攻よりも恐ろしい)
無表情の裏でジークは主への救いを求めていた。
その主である天道輝は王城の別荘で血走った目を画面に向けていた。
「どこだ……どこに隠れている、エレオノーラ。俺の目を盗んで、こんな原始的なスタンピードを起こして何がしたい……?」
虚空に展開された数百のシステムウィンドウが輝の顔を青白く照らし出す。
世界各地で少しずつ、だが確実に拡大している動物の暴走。
輝は消えた二人の魂のIDを執念深く追跡したが、それらはネットワークから完全に切断されたかのように痕跡が途絶えていた。
「俺の承認マクロをすり抜ける『動植物の転生』。……まさか、俺と同じ権限を持つプレイヤーがこの星に潜んでいるのか?」
全知全能の管理者としての自負が音を立てて軋み始める。
完璧に構築したはずの自分の箱庭に、自分が把握していない『穴』が存在する恐怖。
そんな彼の元にさらなる奇妙な報告が飛び込んできた。
「……王都で、くしゃみと目のかゆみを訴える者が急増している?ポーションが効かない原因不明の疫病だと?」
輝は報告書を握りつぶした。
「新種の疫病か……?ちっ、次から次へと。俺の管理を乱すバグめ……!」
輝はまだ気づいていない。
それが同郷の日本人による『スギ花粉症テロ』という極めて地球的な嫌がらせであることを。
そして彼が『バグ』として軽視したそのくしゃみが、世界の均衡を根底から揺るがす前兆であることを。




