第15話:偽りの平穏と「魔王」の誕生
邪神が概念ごと「虚空の廃棄庫」へと葬り去られてから、数週間が経過していた。
アーデルハイド王国の空は、かつてないほどに澄み渡っている。
魔族という名の呪縛から解放され、本来の気高きハイエルフとしての姿を取り戻したルシフェリアたちと、長きにわたり戦火を交えてきた人族との間には、ついに歴史的な和平条約が結ばれた。
長きにわたる戦乱の時代は終わりを告げ、世界は真の平和へと歩み始めている。
――そして、その平和を誰よりも満喫している男がいた。
「いやあ……平和って、本当に素晴らしいね」
王城の最深部。
王族以外は立ち入ることを許されない特別区画に用意された、豪奢な「聖域」とも呼べる自室。
天道輝は、最高級のシルクで織られた長椅子に深く身を沈め、芳醇な香りの紅茶を優雅に傾けていた。
邪神を討ち滅ぼし、二つの種族を和解へと導いた「神の如き英雄」。
彼は今、その絶対的な名声と権力を背景に、誰も手出しができない完璧なニート生活……もとい、悠々自適な隠居生活を謳歌していた。
表向きは『祈りと瞑想を通じて、世界の安寧を願い続ける慈愛の隠者』である。
だが、その裏の顔は、あまりにも俗物だった。
(はぁー、最高。毎秒数億件の『魂の出生承認』なんてブラックすぎる神の業務も、マクロで完全自動化できたし。俺はただ、勇者ブランドを維持するだけでいい)
輝は口元に薄い笑みを浮かべ、窓の外に広がる王都の街並みを見下ろした。
彼が亜神として手に入れた権限は、もはや世界の理そのものをいじり回せるレベルにある。
だが、輝に「世界を良くしよう」などという崇高な理念はない。
彼にとってこの世界は、自分が快適に過ごすための「遊び場」に過ぎないのだ。
コンコン、と控えめなノックの音が、輝の平穏な思考を遮った。
「勇者様。……お入りしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんですよ、アリシア様」
声色を瞬時に「優しき英雄」のものへと切り替え、輝は微笑む。
扉が開き、現れたアリシア王女の瞳には、輝への隠しきれない熱と、異常なまでの独占欲が渦巻いている。
「輝様……今日も、世界の悲しみと向き合っておられたのですね」
「僕にできるのは、こうして祈ることだけですから」
アリシアは輝の足元に跪き、その手を愛おしそうに両手で包み込んだ。
「そんなことはありません。貴方様こそが、この世界の光。……ねえ、輝様。エルフの女王との面会など、もうおやめになってはいかがですか?あのような者たちに、輝様の貴重な時間を割く必要など……私だけが、貴方様をお守りいたしますわ」
甘く囁くアリシアの言葉には、ルシフェリアに対するねっとりとした嫉妬が混じっていた。
輝は心の中で(うわぁ、重い……)と舌打ちをしながらも、完璧な笑みを崩さない。
「お気遣いありがとうございます、アリシア様。ですが、エルフたちもまた、傷ついた迷い子なのです。僕は、すべての人々が手を取り合える日まで、誰の手も振り払いたくはないのですよ」
「ああ……なんという慈悲深いお方……!」
アリシアを適当な言葉で満足させ、退出させたのも束の間。
今度は、純白の法衣に身を包んだ聖女クラリスが、涙ぐんだ目で部屋を訪れる。
「勇者様……私、貴方様のお傍にいないと、息が詰まってしまいそうで……っ」
「大丈夫ですよ、クラリス様。僕はいつも、君の心の中にいます」
「本当ですか……?では、今夜はずっと、私の手を握っていてくださいますか……?」
さらにその後には、エルフの女王となったルシフェリアが、誇り高き顔つきの中に盲目的な忠誠を滲ませてやってくる。
「輝様。私たちエルフの命は、すべて貴方様のもの。どうか、私に命を。貴方様の力になれる喜びを、私に教えてください」
「ルシフェリア様。貴女たちの剣は、もう収めていいのですよ。これからは、自分たちの幸せのために生きてください」
次々と訪れるヒロインたちを、輝はその場しのぎの甘い言葉でいなし続けた。
彼女たちの異常なまでの執着は、輝自身が仕組んだ精神支配の結果である。
だが、いざ完全な平和が訪れてみると、この「三方向からの激重アプローチ」は、輝の隠居生活を物理的に妨害する深刻なノイズとなりつつあった。
(どいつもこいつも、俺に依存しすぎだ。……いや、そういう風に調教したのは俺だけどさ)
ようやく一人きりになった部屋で、輝はため息をつきながら冷めた紅茶を飲み干した。
「平和ってのも、退屈で窮屈なもんだな」
ふと、彼の脳裏に忌まわしい記憶が過る。
――王妃エレオノーラ。
邪神討伐後に発覚した、「彼女は十五年前に死んでいた」という事実。
輝以外の人間の記憶からは、彼女の存在自体が綺麗に消え去っている。
亜神となった今の輝のシステムにすら、彼女の正体を掴む手掛かりはない。
それは、すべてをコントロール下に置きたい輝にとって、猛烈に不愉快な「バグ」だった。
(あれだけは、本当に気味が悪い。俺の箱庭を覗き込むような、あの冷たい視線……。いつか必ず正体を暴いて、完全に消去してやる)
輝がそんな暗い思考を巡らせていた時、彼の脳内に展開された『全自動広域情報アーカイブ』が、ある不穏な動きをアラートとして警告した。
『王都・貴族街地下。第三派閥の会合にて、天道輝の排除計画が可決』
輝の口角が、吊り上がった。
「……はっ。恩知らずな豚どもが」
情報を確認すると、一部の有力貴族たちが「強すぎる勇者は、今後の王国の脅威になる。平和になった今、用済みの勇者は毒殺なり暗殺なりで排除すべきだ」と息巻いているらしい。
すべての情報は輝に筒抜けであり、彼らが雇った暗殺者など、輝の分身体が指を鳴らせば一秒で消し炭になる。
だが、輝はすぐに彼らを殺そうとはしなかった。
(なるほどね。平和が続くと、俺の『希少価値』が下がる。強すぎる力は、恐怖の対象にしかならないってわけか。……実に人間らしい、合理的な判断だ)
輝は、彼らの不遜な企みを「泳がせる」ことにした。
そして同時に、この退屈な平和に「スパイス」を加える最高のアイデアを閃いた。
(貴族どもは俺を排除しようとしている。なら……俺がもう一度『絶対に不可欠な存在』になればいいだけの話だ)
平和だから用済みになる。
ならば、世界を再び恐怖で包めばいい。
輝は立ち上がり、虚空に手をかざした。
彼の瞳の奥で、神の権限たる魔力回路が複雑な幾何学模様を描いて回転し始める。
「創造魔法・神級――『世界改変』」
彼が狙いを定めたのは、アーデルハイド王国の東海岸から目視可能な海域だった。
そこには何もないはずだった。
しかし、輝が指先を振るった瞬間、海底の地殻が悲鳴を上げて隆起した。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
王都まで微かな地響きが伝わる。
数分後には、何もない海の上に、禍々しい紫色の雷雲を纏った「巨大な島」――いや、新大陸と呼ぶべき大地が、文字通り『創造』されていた。
輝は自身の分身体の一体を、その新大陸の中心に転移させた。
分身体の容姿を、バイオテクノロジーと魔法の力で「見た目が最高に恐ろしく、絶望感を与える人型の魔物」へと再構築する。
漆黒の鎧、天を突く角、そして世界を焼き尽くすような紅蓮の魔力。
(さあ、新しい舞台の幕開けだ。俺の最高傑作、『新・魔王』のお披露目と行こうか)
輝の意思を受け、新大陸に降り立った分身体(魔王)は、世界中に響き渡る声で咆哮した。
『――我は深淵より蘇りし、絶望の王!偽りの平和に溺れる愚かなる生命どもよ、我の前に跪け!我が軍勢が、貴様らの大地を血で染め上げてやろう!!』
その声は、アーデルハイド王国はもちろん、エルフの森にも、他国にも、等しく恐怖として降り注いだ。
空を覆う紫の雷光。
突然現れた巨大な島。
そして、神の如き魔力を持つ新たなる敵。
王都は、一瞬にしてパニックに陥った。
先程まで輝の暗殺を企てていた貴族たちは、顔を青ざめさせて震え上がっていることだろう。
バンッ!と勢いよく自室の扉が開き、アリシアが血相を変えて飛び込んできた。
「ひ、輝様!大変です!東の海に巨大な島が……そして、恐ろしい魔王の宣言が……!」
恐怖に震えるアリシアの肩を、輝はそっと、優しく抱きしめた。
その顔には、悲痛な決意と、底知れぬ慈愛が浮かんでいた。
「……恐れることはありません、アリシア様。新たな闇が世界を覆うというのなら」
輝は、己が創り出した『偽りの魔王』の住まう島を見据え、力強く宣言した。
「この僕が、何度でも世界を救ってみせます。君たちの笑顔は、僕が必ず守り抜く」
アリシアは輝の胸に顔を埋め、安堵の涙を流した。
彼女の頭を優しく撫でながら、輝は誰にも見えない死角で、極上の愉悦に満ちた、悪魔のような笑みを浮かべていた。
(さあ、貴族ども。俺を用済みだと言ってみろ。……俺がマッチを擦り、俺が水をかける。この世界は、未来永劫、俺だけの遊び場だ)
偽りの平穏は終わりを告げ、輝の自作自演による新たなる恐怖の支配が、静かに幕を開けた。




