21 変わりはじめるもの
翌日の放課後。
「……大丈夫、よね」
私は自分に言い聞かせるように呟きながら、もう何度目か分からないほど部屋の中を見回した。
いつもと変わらない自分の部屋だ。長く使っている茶色の机と椅子、壁際には必要最低限の家具が並び、窓の向こうには試練の森の木々が広がっている。寮の一番端にあるこの部屋はもともと陽が入りづらく、夕方が近づく今の時間ともなれば、灯りを点けなければ少し薄暗いほどだった。
私はこの静かな部屋が嫌いではない。けれど今日に限っては、擦り切れた絨毯も、ほとんど飾り気のない壁も、何だか妙に気になってしまう。
「お嬢様、そこは先ほど拭いていらっしゃいましたよ」
「え?」
シュゼットの声に手元を見れば、私は机の同じ場所を布で延々と磨いていたらしい。
「……そうだったかしら」
「はい。もう十分綺麗です。それに、マーリャ王女殿下は以前にもお部屋へいらしたのでしょう?」
「マーリャ様は、そうなのだけれど……」
曖昧に返事をして、机の上へ布を置く。
ただ、本日はマーリャ様と一緒にもう一人の御仁がいらっしゃる。昨日、私の魔法に起きている変化をお話しすると、ラシュナリ殿下は《ダーク》を使った時に咲いた花を実際に見たいと仰った。もちろん私としても、何が起きているのか分かるのなら是非調べていただきたいとお答えした。
けれど、他国の第一王位継承者が、女生徒の私室を訪ねたとなれば、どのような噂が立つか分からない。
『そのあたりは何とかするよ』
ラシュナリ殿下は仰っていたけれど、一体どうやって何とかするのだろう。
「シュゼット、私はお迎えに出てくるから、お茶の支度をしてもらえるかしら?」
そう言い残して、寮の表に降りる。私の女子寮は試練の森近くにあり、校舎とは少し離れて奥まったところにある。初めていらっしゃるお二人がすぐにたどり着けるか少し心配だった。
「あら、エマ。わざわざお迎えに来てくださったの?ありがとうございます」
エントランスから出ると、ちょうどマーリャ様達が着いたところだった。マーリャ様はレースで覆われた日傘をぱちりと音を立てて畳んだ。お迎えの心配は要らなかったようだ。
「ごきげんよう、エマ」
「マーリャ様。お待ちしておりました」
柔らかく微笑むマーリャ様の後ろには、見覚えのない若い騎士が恭しく一人控えていた。
アリラハのものらしい黒を基調とした騎士服を身に纏い、腰には細身の剣を下げている。ラシュナリ殿下ほどではないにしてもかなり背が高く、姿勢が良い。けれど一番目を引いたのは、その色合いだった。
肌はアリラハの方に多い褐色ではなく、むしろ月明かりを思わせるほど白い。髪も赤みのある茶色というよりは黒に近い深い赤で、光の加減によって僅かに紅が浮いて見える。そして切れ長の瞳は、私がこれまで見た誰よりも濃い赤色をしていた。
整った顔立ちではあるものの、どこか人を寄せ付けないような鋭さがある。
「……?」
私は思わず騎士のお顔を見つめた。
知らない方のはずなのに、どこかで会ったことがある。そんなはずはないのに妙な既視感が消えない。
「エマ?」
マーリャ様に呼ばれて我に返った。
「す、すみません。こちらの方は……?」
「ああ。今日の私の護衛ですわ」
にっこりとマーリャ様が笑う。
「護衛の方……」
もう一度、騎士を見る。するとその人が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「そんなに見つめられると、さすがに少し困るな」
「…………」
小声で囁く声は普段より低く、少し掠れている。けれど、その話し方は。
「ラ……!」
思わず声が大きくなりそうで、咄嗟に慌てて自分の口を両手で塞いだ。マーリャ様が堪えきれないというようにくすくすと笑い始める。
「思ったより早く分かってしまいましたわね、兄様」
「君が隣にいたらさすがに気付かれるだろうとは思っていたけどね」
「あの、本当に……ラシュナリ殿下でいらっしゃいますか」
「一応ね」
そう言われて改めて見ると、確かに目元や鼻筋に殿下の面影がある。
けれど、普段お会いしているラシュナリ殿下とは随分印象が違った。いつもの殿下は浅黒い肌に赤茶の髪を持ち、異国的ではあっても人当たりの良い柔らかな青年という印象が強い。
今、目の前にいる騎士は、それよりもずっと冷たく、鋭い。それなのに。
(……なぜでしょう)
変装している姿のはずなのに、こちらの方が自然に見える。私にはうまく説明出来ないけれど、作られた姿を見ているような違和感がほとんど無かった。
「その御姿を変えられるのは、どうやっていらっしゃるのですか?」
「炎魔法の一環でね。光の見え方を少し弄っているだけだよ。あまり大きく形を変えると魔力も使うし、維持するのも面倒だからね」
「少し、でしょうか……?」
肌の色も髪の色も随分違うように見える。
「兄様の場合、この姿は変装というより――」
「マーリャ」
ラシュナリ殿下が遮るように妹君の名前を呼んだ。
「あら、失礼」
マーリャ様は涼しい顔をしている。何か引っ掛かったけれど、尋ねる間もなくラシュナリ殿下が続けた。
「王太子の姿で君の部屋を訪ねれば余計な噂になるだろう?エマ嬢にも迷惑を掛けてしまう。マーリャは昨日の件もあるから、アリラハとしてはしばらくアリラハ側の護衛を連れて歩くことになっている。その一人としてね」
「なるほど……」
それにしても、このような使い方が出来るほど細かく魔法を制御出来ること自体、私には到底理解の及ばないことだった。
「では、奥へ――」
そう言いながら二人を部屋へ案内しようとした時だった。
「ねえさま?」
背後から声が聞こえ、身体が固まった。その蜜を思わせる甘い声。振り返らなくても誰なのか分かる。森の方から歩いてきたのは、リリーとフィリップ殿下だった。
「リリー……。フィリップ殿下」
今日のリリーは淡い藤色のドレスを纏い、紫を一滴混ぜたような黒髪を緩やかに背へ流していた。大きな翠の瞳は今日も光を受けてきらきらと輝いていて、頬の色も良い。今日は少し体調が安定しているのかもしれない。
二人は並んで歩いているというより、ほとんどリリーがもたれかかるようにして寄り添っていた。
リリーはフィリップ殿下の腕に自分の腕を絡め、身体を預けるように歩いている。フィリップ殿下もそれを咎めることはなく、歩幅の小さいリリーに合わせてゆっくりと歩いていた。
「どうして、こちらへ」
私は慌てて頭を下げながらも、小さく尋ねた。私の寮は、本当に学園の敷地の外れ。少なくとも殿下が自ら訪れる場所でもなく、また別の寮棟に部屋があるリリーがこちらにいるのも不自然だ。
「こちらの寮に用事があったの。でもわたくしはここまで来たことがないでしょう?そうしたらフィル様が連れて行ってくださるって」
絡めていた腕に少しだけ力を込めて、きゅっと殿下のことを抱きしめた。
「わざわざこんな外れまで歩かなくても、人を遣ればよかったのではないか?本当に疲れていないのか、リリー」
「大丈夫ですわ、フィルさま。今日はとっても調子が良いの」
「さっきもそう言っていたが、無理をして後から熱を出すのはいつものことだろう」
「もう。フィルさまったら本当に心配性ですのね」
「誰のおかげでこんなに心配性になったと?」
殿下は困ったように笑うと、リリーの額にかかっていた黒髪を指先でそっと払った。何度も見てきた光景だった。
だから私にとっては、もうそれほど珍しくもない。けれど、ふと隣を見ると、騎士の姿をしたラシュナリ殿下の視線が二人の絡んだ腕へ向けられていた。僅かに眉が寄ったように見えた。
「あら、マーリャ様まで!どうしてこちらにいらっしゃるのですか?」
私たちに気付いたリリーが、ぱっと表情を明るくした。それから大きな目をまんまるにする。
「ごきげんよう、リリー様。本日はエマに用事がありまして」
「まあ!」
リリーが嬉しそうに、楽しそうに笑う。
「ねえさまのお部屋へ遊びにいらしたのですか?」
「まあ、そのようなものですわ」
「すてき!わたくし、ねえさまの寮のお部屋には遊びに行かせていただいたことが一度もありませんの」
そう答えながら、私は記憶を辿った。リリーが私の部屋へ遊びに来たことなど、学園へ入ってからに関わらず
、侯爵家にいた頃も一度もなかった。本人がそれを願えば全て周囲は叶える。つまり、そんなお話一度もなかったはず。
「フィルさまも一緒なら、もっと楽しいですのに」
「何を言っているんだ。私がエマの部屋へ入るわけにはいかないだろう」
「あら、そうなのですか?」
リリーはころころと笑った。フィリップ殿下も呆れたような顔をしているけれど、その目は優しい。
「それで、リリー様は、エマにご用事ということでしょうか。ご姉妹のご用件が急ぐようでしたら私たちはこちらのロビーで待たせていただきますが」
にっこりとマーリャ様が笑う。しかし、実際は王族を待たせるようなことを侯爵令嬢の立場では行えないはずだ。その上で、どのように判断するかをマーリャ様は見ているようだった。
「ううん」
頬に手を当てて、リリーが小首を傾げた。宝石のような翠の瞳でマーリャ様を眺め、それから私の顔をじっと眺めた。
「いいえ、もう良いのです。おふたりのお顔を見たら、なんだかとっても満足いたしましたの」
「え?」
無邪気なままのリリーは、おそらく王族に配慮されて退いたのでは無いだろう。本当に、もう満足したとやわらかな唇は言っていた。
(どういう、こと?)
「それよりも」
割って入るようにフィリップ殿下が仰った。
「昨日はマーリャの部屋へ泊まったそうだな」
「……はい」
「何故だ」
先ほどまでリリーへ向けていた柔らかな声とは違う。怒っているわけではない。ただ、私が何か問題を起こしたのではないかと確かめる時の、昔から聞き慣れた声音だった。
「その、マーリャ様と少しお話をしておりまして」
「夜を越すほどか?」
「フィリップ殿下」
マーリャ様が口を挟んだ。
「私がエマをお誘いしたのです。昨日は私が一人で過ごしたくありませんでしたから、無理を言ってお付き合いいただきました。ご婚約者様を無理にお誘いしてしまいましたこと、お詫びいたしますわ」
「いいや……マーリャが望んだことならば良かった」
けれど次に私へ向けられた目は、また少し冷たいものへ戻る。
「相手は王女殿下だ。温情と憐憫で親しくしていただいているからといって、立場を忘れて迷惑を掛けるような真似はするな。本来であれば王族と話すことにも許可が要る立場の違いと弁えろ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。いつもなら、唇が慣れた「申し訳ありません」を結ぼうとする。殿下がそう仰るのだから、私が謝れば済むことだと。
「フィリップ殿下」
自分の声が聞こえた。
「私は確かに全て至らない人間ではありますが、しかし、マーリャ様は、哀れみで人と付き合うような御方ではございません。もちろん、マーリャ様にご迷惑をお掛けしないよう重々気を付けます。でも……そのことだけは、誤解されたくありませんでした」
フィリップ殿下が目を見開いた。私自身も驚いていた。言い返したかったわけではない。ただ、違うことを違うと言っただけだ。しかし、思ったよりもはっきりとした物言いになった。
「ねえさま……?」
リリーも不思議そうに私を見ている。喉の奥が僅かに締まるような感覚がした。
「…………そうか」
しばらく私を見た後、フィリップ殿下はそれ以上何も言わなかった。
「殿下、恐れながら」
と、控えていた騎士姿のラシュナリ様が前に出た。姿勢が伸び、真っ直ぐと深い赤の目でフィリップ殿下を見据えている。
「アリラハは国民ひとりひとりが国を成す国。王族には国を守る義務があれど、民との関係を分つ文化はございません。これからもエマ嬢と王女殿下の友人関係については寛大な目で見守って頂けますか」
「な…………アリラハでは、騎士が王族の話に割って入るのか?」
フィリップ殿下の目が冷たく細められた。騎士姿のラシュナリ様は怯むこともなく深く頭を下げた。
「失礼いたしました。ただ、我が王女殿下の御意向に関わることでしたので」
見知らぬ騎士からそのような発言をされるとは思っていなかったのか、フィリップ殿下は驚いているようだった。
「ねえ、ねえ、フィルさま、もうそろそろ戻りませんか?わたくし図書室に寄って帰りたいのです」
「あ、ああ。そうだな」
つまらなさそうに唇を尖らせるリリーへ向き直った。
「リリー、少し顔色が悪くなってきたんじゃないか?」
「そうでしょうか?……でも、そうかもしれませんわあ。はやく……はやく戻らないと」
フィリップ殿下がリリーの背に手を添える。また二人は、二人の世界に入ってそのまま消えて行った。
振り返ると、ラシュナリ殿下は歩いていく二人の姿を見ていた。騎士の姿のせいだろうか、普段よりもずっと険しい横顔に見える。
「エマ嬢。一つ聞いても良いかな?……いつも、二人はあんな感じなの?」
「そう、ですね。二人は昔からとても仲が良いですから」
今度はマーリャ様が口を挟む。
「エマがいらっしゃる前でも、あのように?」
「……はい、そうですね」
「フィリップ殿下は、エマのご婚約者なのに。それなのに、リリー様と腕を組んで歩かれて、髪に触れられて」
マーリャ様は言葉を失ったようだった。ラシュナリ殿下も少し黙った後、慎重に尋ねた。
「君は……いや、他所から来た者が軽々言うことではないということは理解しているが……この状況は全く望ましいと言えるものではないと思うよ。なぜ周囲もこのような……」
「……フィリップ殿下とリリーは、以前婚約していました。それに、本当なら今でもリリーが殿下の婚約者であるべきだったのです。私が、その……子供を産めるという理由だけで代わりに選ばれただけなので」
「それでも」
ラシュナリ殿下の声は優しく、諭すようだった。
「今、婚約者なのは君なんだろう?」
「……はい」
「なら、少なくとも君の目の前であのように振る舞うことを、当然だと思う必要はないんじゃないかな」
胸の奥がざわりと揺れた。そんなことを、今まで誰かに言われたことがあっただろうか。むしろ、それが当たり前のことであるとずっと言われていた。
「……自分はよく、分かりません。ずっと、これが普通だったので」
ラシュナリ殿下は目を細めた。
「ですが……」
と、私は続けた。
「ですが、少しだけ、変わってきたのかもしれません。以前の私なら……先ほど殿下に何か言われても、ただ謝っていたと思います。どうしてなのかは、自分でも分からないのですが……最近、今までなら出来なかったことが、少しずつ出来るようになっている気がします」
言いながら、自分の喉元へ触れる。以前なら言葉にしようとしただけで、何かに締め付けられていたようなことまで。
「魔法だけではなくて……私自身も」




