20 ほどけるもの③
「……少し、その中に入ってもいいかな」
「え?ええ、はい、もちろんです」
殿下が一歩、私の作り出した闇の中へ入ってくる。その瞬間。
「……っ」
赤い瞳が、大きく見開かれた。
「兄様?」
マーリャ様が声を掛けても、すぐには答えない。ラシュナリ殿下は自分の手をじっと見つめた後、指を何度か握ったり開いたりしている。
「あの、ラシュナリ殿下?」
「エマ嬢。この魔法は、本当に今まで使っていた《ダーク》と同じもの?」
「はい。詠唱も、魔力の使い方も変えていません。というよりも、私はこれ以外の魔法を知りません」
「誰かに別の術式を教わったことは?」
「ございません」
「そう……」
殿下は何かを確かめるように手のひらを上へ向けた。
するとその上に、小さな風が生まれた。目に見えないはずの風が、周囲の草を僅かに巻き込みながら掌の上で小さな渦を作る。
ラシュナリ殿下がその様子を見つめ、マーリャ様へ視線を向ける。
「マーリャ」
「ええ。私もですわ」
「何か、あるのですか?」
おそるおそる私が尋ねると、お二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
二人の間では何か分かっている。でも、私にはまだ言えないことがある。そんな顔だった。
「エマ嬢。悪いのだけれど、一度魔法を消してもらってもいいかな?」
「分かりました」
意識を集中し、魔力を止める。私たちを包んでいた黒い靄が少しずつ薄くなり、昼の光が戻ってくる。
その途端、マーリャ様が小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
「マーリャ様?」
「身体がまた少し重くなりましたわね。エマの《ダーク》の中にいた時とは気分も調子も異なります」
ラシュナリ殿下も再び手を開いた。先ほどと同じように風を起こしたようだったけれど、私には違いが分からない。ただ、殿下の表情が明らかに険しくなった。
「エマ嬢」
「はい」
「昨日、身体に何か変わったことがあったら、些細なことでも教えてほしいと言ったよね」
その言葉に、胸が跳ねた。
「……はい」
「昨日から今までに、何かあった?」
言うべきなのだろうか。
自室で《ダーク》を使ったこと。いつもならすぐに消えるはずの魔法が、どれだけ待っても消えなかったこと。夜にしか開かないはずの花が、私の闇に包まれた途端に咲いたこと。
そして最後に、首筋を細い何かが滑り落ちていったような、不思議な感覚がしたこと。
「……実は」
少し迷ったけれど、私は昨日の出来事を最初から話すことにした。
*
「夜にしか咲かない花が、《ダーク》の中で咲いた?」
「はい。ただ暗くなったから、夜になったと勘違いしただけなのかもしれませんが」
人目を避けるために場所を移し、小さな談話室で昨日のことを説明すると、ラシュナリ殿下は最後まで一度も口を挟まずに聞いていた。
マーリャ様も隣で黙っている。
「その花は今、どこに?」
「私の部屋です。朝にはまた閉じていました」
「見せてもらっても構わないかな」
「もちろんです」
ラシュナリ殿下は頷いたものの、やはりどこか様子がおかしい。
「あの……」
「何?」
「私の魔法に、何かあるのでしょうか」
そう尋ねると、殿下は少し考えるように目を伏せた。
「まだ分からない。だからこそ、いくつか確かめたいことがある」
「やっぱり、普通ではないのですね」
「少なくとも、私が知っている《ダーク》とは違うと思う」
その言葉を聞いた途端、胸の中にまた不安が広がった。
すると、隣に座っていたマーリャ様が私の手の上へ自分の手を重ねた。
「怖いですか?」
「……少し」
正直に答える。魔力が欲しかった。
もっと魔法が使えるようになりたかった。けれど、いざ本当に自分の知らない力が自分の中から出てくると、素直に喜ぶことが出来ない。
「自分のことなのに、自分の知らないことが起きているのが……少し怖いです」
「でしたら、一緒に調べましょう」
「え?」
顔を上げると、マーリャ様は当たり前のことのように私を見ていた。
「一人では分からないのでしょう? それなら三人で考えればいいのですわ。ねえ、兄様」
「ああ。もちろんそのつもりだよ。エマ嬢が嫌でなければだけど」
「……嫌だなんて」
一人でどうにかしなければならないと思っていた。
分からないことも、怖いことも、自分のことなのだから人に迷惑を掛けず自分で解決しなければならないと、いつの間にかそう考えることが当たり前になっていた。
けれど。
「はい、お願いします」
そう答えると、マーリャ様は嬉しそうに笑った。
「決まりですわね」
「ただし、一つだけ」
ラシュナリ殿下の声が少し低くなる。
「この魔法の変化については、しばらく他の人には話さない方がいい。秘密にしておいてもらって良いかな?」
「……はい。あ、でも今日授業で魔法を使う時間があって……いつもより長く《ダーク》を維持出来てしまいました。でも、気付かれないように途中で消したので」
「それでいい。出来れば、事情が分かるまでは人前で今まで以上の魔法を使わない方がいいと思う」
「分かりました」
頷きながらも、気になることがあった。
「先ほど、ラシュナリ殿下とマーリャ様は何か分かったようなお顔をされていましたよね」
「……よく見ているね」
「叶うことなら私の魔法に関係することでしたら、知りたいです」
少しだけ勇気を出して言う。
以前なら、そこで黙っていたと思う。相手が話したくないのなら、聞いてはいけない。そうやって引き下がっていただろう。
ラシュナリ殿下は僅かに驚いたような顔をして、それから困ったように笑った。
「そうだね。君には知る権利がある。ただ、今の段階では私たちにも分からないことが多すぎるんだ」
「……では、分かったら教えてくださいますか?」
「ああ。約束する」
その言葉に安心して頷いた時、ラシュナリ殿下がふと思い出したように私を見る。
「その前に、一つ聞いてもいい?」
「はい」
「エマ嬢は、自分の魔力が生まれつき少ないものだと、本当にそう思っている?一度も疑ったことはない?」
「……え?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。
魔力が少ない。それは七歳の時に何度も調べられたことだ。検査に間違いがあってはいけないからと、日を変え、人を変え、何度も測定された。それでも結果は変わらなかった。
だから、お父様もお母様も私を諦めた。フィリップ殿下との婚約もその時点で解消された。
皆が、それを名家として恥ずかしい事実として受け入れた。だから私疑うことなんてなかった。それが事実として受け入れるしかないと思っていた。
「……だって」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
「自分は出来損ないと、ずっと言われてきましたから」
ラシュナリ殿下の赤い瞳が僅かに揺れた。
それとほとんど同時に、私の手を握っていたマーリャ様の指先に力が入る。どうしてお二人がそんな顔をするのか、私には分からなかった。




