19 ほどけるもの②
翌朝になっても昨日のことがまだ頭から離れなかった。
窓際の机の上には、小さな白い花が一輪置かれている。夜にしか開かない花は、朝になった今では何事もなかったかのように固く花弁を閉じていた。
「……夜じゃなくても、暗くなれば咲くものなのかしら」
昨日、闇を纏えに包まれた途端に満開になった花を見つめながら、小さく呟く。
夜に咲く花なのだから、光を遮られれば夜になったと勘違いして花を開いたとしても、それほど不思議なことではないのかもしれない。そう自分に言い聞かせてみるけれど、どうにもまだ納得しきれないものが残った。
そもそも問題なのは花ではなく、私自身の魔法だった。
私は自分の右手をじっと見つめる。もう魔法を一度試してみたいという気持ちはあった。昨日と同じように闇を纏えが長く続くのか、それともあれはただの偶然で、今日はいつものように三度瞬きをする間に消えてしまうのか。
それを確かめればいいだけなのに、いざ魔法を発動しようと思うとどうしても躊躇ってしまう。
「お嬢様?」
「っ」
背後から声を掛けられ、慌てて手を下ろした。振り返ると、シュゼットが不思議そうにこちらを見ている。
「どうかなさいました?」
「あ、いいえ、何でもないわ」
「……左様でございますか」
そう答えながらも、シュゼットはまだ少し心配そうだった。昨日から何度も似たようなやり取りをしている気がする。
「お嬢様。今日は一限目から授業でしょう?そろそろ出ないと遅れてしまうやもしれません」
「ええ、ありがとう。今行くわ」
結局、その場でもう一度魔法を使うことは出来なかった。
自分はずっと魔法を求めてきた。せめて人並みの魔力がずっと欲しかったはずなのだ。
体力だけでフィリップ殿下の婚約者に選ばれて、リリーと比べれば魔法の素質が全くなくて。もっと魔力があれば、もっと色々な魔法が使えればと、何度思ったか分からない。それなのに、本当に自分の魔力に何かが起きているのだと考えると、喜びより先に得体の知れない不安が湧いてきた。
昨日までの自分自身が、急に知らないものへ変わってしまったような、そんな気持ちだった。
*
「では、今日は各自、魔法の維持訓練を行います」
朝一番の魔法学の授業で教師の口からその言葉が出た瞬間、私は思わず身体を強張らせた。
今日の授業は教室ではなく、校舎の裏にある実習場で行われている。広い地面には一定の間隔で白い円が描かれ、その中央には魔法の標的として使う木製の人形が並べられていた。
「攻撃魔法を使う必要はありません。自分の扱える魔法を一つ選び、標的に向かって出来るだけ長く一定の出力を維持してください。魔力を大量に放出する必要はありません。量よりも制御を意識するように」
維持訓練は、魔法を覚え始めた子供でも行う基礎的な訓練だ。もっとも、魔力量があまりに少ない私にとっては、制御以前の問題なのであるが。
「エルルーナ様は、今日も闇を纏えですの?」
聞き慣れた声に振り返れば、アーリア様が数人のご令嬢を連れて立っていた。
「……はい」
「まあ。それでは維持訓練と言っても、三秒では訓練になるのか分かりませんわね」
「早く終わった方から離席できるのですもの。早くお休みになれて羨ましいことですわ」
周囲から小さな笑い声が漏れた。
「アーリア様ったら」
「でも仕方ありませんわ。無いものを使えと言われても、エルルーナ様だって困ってしまいますもの」
真っ黒な感情が込められた言葉。いつもなら胸の奥がずん、と重くなる言葉だった。
けれど今日は、反論したい気持ちよりも、どうかそのまま興味を失ってほしいという気持ちの方が強かった。
昨日のことが偶然なのか、それとも本当に私の中で何かが変わったのか、まだ自分にも分からない。でも、確証がないからこそ、出来ることなら、人の目があるところで確かめたくはなかった。
私が俯いていると、興味を失ったようにアーリア様達は去っていった。
「それでは、始めてください」
教師の合図と同時に、実習場のあちらこちらから詠唱が聞こえ始めた。
水の球を浮かべる者、手のひらに炎を灯す者、標的の周囲へ風を纏わせる者。それぞれが得意な魔法を選び、出来るだけ威力を崩さないように制御している。
私は自分の前に置かれた木製の人形へ手を向け、周囲を窺ってから小さく息を吸った。
「闇を纏え」
いつものように手のひらから黒い靄が生まれ、ゆっくりと人形の腕を覆っていく。
一度、二度、三度。三度目の瞬きをしたところで、私は息を止めた。
やっぱり消えない。
昨日と同じだった。
それどころか、魔法を何とか維持しているという感覚すらほとんど無い。今までは、底にほんの僅かしか残っていない水を一滴ずつ大切に使っているようだった。少しでも気を抜けば、すぐに全てを使い切ってしまい、っ自分がからからに乾いていく。そんな心許なさがいつも身体の中にあった。
なのに今は、どれほど使っても器の底に届かない。黒い靄が、私の意思に従うように木製の腕へ絡みついている。
(止めないと)
このまま続けていたら誰かに気付かれてしまう気がして、私は自分から魔力を止めた。すると黒い靄は人形の表面からするりと離れ、空気の中へ溶けるように消えていった。
「……エルルーナ嬢?」
「え、はい!」
突然教師に名前を呼ばれ、思わず大きな声が出た。
「今の魔法は……」
「も、申し訳ありません。私、上手く維持出来なくて」
咄嗟にそう答えると、教師は怪訝そうに眉を寄せた。
「いや、そういうことではなく――」
けれどその時、少し離れた場所から大きな破裂音が響いた。どうやら誰かが魔力の制御に失敗したらしく、教師は私への言葉を途中で止めて、慌ててそちらへ駆けていった。
ほっと息を吐きながら、自分の右手を握り込む。
昨日より、はっきりと分かった。
魔法が使える。むしろもっと、まだ、強く使える気さえする。
以前の私なら、あれだけの時間を保てば、身体から力が抜けて立っていることすら億劫になっていたはずだ。それなのに今は、少しも疲れていない。
怖いと思う気持ちは消えなかった。でも同時に、胸の奥のどこかが小さく熱を持っている。
それが喜びなのだということを、私は認めたくないような、認めたいような、不思議な気持ちでいた。
*
「エマ!」
午前の授業を終えて教室を出たところで、聞き慣れた明るい声が廊下に響いた。
「マーリャ様」
廊下の向こうから歩いてきたマーリャ様の隣には、アリラハから付き従ってきた護衛の女性が一人いた。昨日の事件があったばかりなのだから、以前よりも警戒を強めているのだろう。ぱたぱたと小走りで、しかし優雅な姿勢のままこちらに向かってくる。
「エマ、昼食はもうお済みですか?」
「いいえ。今から食堂へ向かおうと思っていたところです」
「でしたらご一緒しましょう。今日はお天気も良いですし、外で食べませんか?」
「外、ですか?」
「ええ。ずっと部屋の中にいるのも息が詰まりますもの」
マーリャ様に誘われ、私たちは食堂で軽い昼食を受け取ってから中庭へ向かった。
遠くにアーリア様達の視線を感じたが、それから逸らすようにとマーリャ様が背中を押す。
少し前の私なら、こうして誰かと昼食を食べること自体に戸惑っていたと思う。それどころか、誰かから誘われるということすら、自分には縁のないことだと思っていた。
今でも不思議ではあるけれど、それ以上に嬉しい。そんなふうに思えるようになったことも、自分の中で起きている小さな変化の一つなのかもしれなかった。
中庭の奥には、いくつか小さな東屋がある。まだ昼休みが始まったばかりで人も少なく、私たちは庭の奥にある一つを選んだ。
「……今日は少し日差しが強いですわね」
マーリャ様が眩しそうに目を細めながら、額へ手を翳した。季節は夏が深まってきている。今日はここ最近の中で一番天気が良くて、太陽が眩しいほどだ。
「大丈夫ですか?屋内に変えましょうか」
「……いいえ。このくらいなら平気ですわ。ありがとうございます」
そう仰るものの、普段から外では日傘を差していることが多いマーリャ様は、強い日差しがあまりお好きではないらしい。
アリラハはエデローラよりも遥か南にあり、暑い国だと聞いていたので、少し意外に感じていたものだ。しかし、それぞれ体質はあるだろうと納得していた。
「こちらの方が陽が当たりませんから、マーリャ様はこちらへ」
「まあ、ありがとうございます」
東屋の奥の席を譲ると、マーリャ様は嬉しそうに腰を下ろした。
昨日はあれほど恐ろしい出来事があったが、今日話しているのは本当に他愛もないことばかりだった。
アリラハのお菓子の話や、幼い頃のマーリャ様がお城を抜け出した話。その時、何故かラシュナリ殿下まで一緒に国王陛下に叱られたらしい。
「兄様ったら、今でもあれは私のせいだと言いますのよ」
「……すみません、お話を聞く限り、おそらくそれはマーリャ様のせいではあるような……」
「まあ。エマまで兄様の味方をなさるの?」
「そ、そういうつもりでは」
慌てる私を見て、マーリャ様はくすくすと笑った。
「冗談ですわ」
私もつられて笑った、その時だった。不意に強い風が庭を吹き抜け、マーリャ様の席に置かれていた紙ナプキンがふんわりと宙に舞った。反射的にそれを追いかけようとマーリャ様が腕を伸ばした時、勢いで、マーリャ様の髪を留めていた小さな飾りが外れ、風に押されるように東屋の外へ転がっていく。
「あっ」
「マーリャ様、私が取ってきます」
椅子から立ち上がり、芝生の上を転がった髪飾りを追う。幸いそれほど遠くまでは飛ばず、数歩先の日当たりの良い場所で止まった。
「ありました」
「ありがとうございます、エマ」
マーリャ様もこちらへ歩いてくる。髪飾りを渡そうとしたところで、私は違和感に気付いた。
「……マーリャ様?」
マーリャ様が立ち止まっていた。先ほどまでと比べて、明らかに顔色が悪い。
「どうなさいました?」
「いえ……少し眩しくて」
額へ手を当てながら答える声にも、どこか力がなかった。
「昨日の疲れがまだ残っているのかもしれません。ご心配なく、大丈夫ですわ」
「でも、お顔の色が」
「本当に少し立ち眩みがしただけですの。東屋へ戻れば――」
そう言って一歩踏み出した瞬間、マーリャ様の身体がふらりと揺れた。
「マーリャ様!」
咄嗟に腕を伸ばし、倒れそうになった身体を支える。昨日のことがあったばかりだ。やはりまだ休んでいなければならなかったのではないか。どうしよう、誰かを呼ばなければ。そんな考えが次々に頭を過ぎる。
マーリャ様は小柄であるが、しかしぐったりと力を失っている人間を抱き抱えられるほど私の力は強くない。
東屋まではほんの数歩なのに、マーリャ様の足には上手く力が入らないらしい。
護衛の方は、中庭の入り口で待機している。しゃがみこんだマーリャ様は死角になっているのか、こちら側には気がついていないようだ。
マーリャ様を助け起こすのには護衛の方の力も必要だ。でも、呼びに行くまでの間、せめて、この強い日差しだけでも遮ることが出来れば。そう思った瞬間、気付けば私は手を伸ばしていた。
「闇を纏え」
黒い靄が生まれる。
「あ……」
けれど、それは私の知っている《ダーク》とは少し違っていた。
いつもなら手のひらの先から小さく広がっていくだけの闇が、私とマーリャ様の足元からふわりと湧き上がり、二人を包むように広がっていく。
頭上から降り注いでいた日差しが遠ざかった。
真っ暗になったわけではない。マーリャ様のお顔も、自分の手もちゃんと見える。ただ明るい昼の庭にいるはずなのに、私たちの周囲だけが日暮れの後のような静かな暗さに包まれていた。
まるで、夜が降りてきたようだった。
「……エマ……?」
マーリャ様は目を大きく見開いた。
「す、すみません。すぐに消しますね」
思っていたよりも広がってしまったことに慌てて魔法を解こうとすると、マーリャ様が私の腕を掴んだ。
「待って」
「え?」
「お願い、そのままにしていてくださいませ」
いつもより少し低い、真剣な声だった。理由は分からなかったけれど、私は言われた通り魔法を維持した。
マーリャ様は目を閉じて、ゆっくりと息を吸った。それからもう一度、確かめるように深く呼吸をする。
「……アリラハの夜みたい」
「アリラハの?」
「静かで、優しくて、星がいくつも瞬いて……。私が一番大好きな場所ですの」
先ほどまで白かった頬にも、いつの間にか健康な桃色に戻っている。
「この魔法……」
マーリャ様はそう呟きながら、周囲を満たす黒い靄へ手を伸ばした。
闇魔法は、エデローラではあまり積極的に好まれるものではない。攻撃や妨害、精神への干渉などに使われることも多いため、恐れは持たれるものの、自分から闇に包まれたがる人などほとんどいないだろう。それなのにマーリャ様は怖がる様子もなく、むしろ心地良さそうに目を細めた。
「マーリャ!」
遠くから響いた声に振り返る。ラシュナリ殿下がこちらへ向かって走ってきていた。
「兄様?」
私たちの周囲を覆う闇に気付いた途端、殿下のお顔から表情が消えた。
「気配が変わったのを探知した!一体どうしたんだ」
「違いますわ、兄様。これはエマの魔法です」
「エマ嬢の?」
ラシュナリ殿下は私と闇を交互に見る。
「闇を纏えです。マーリャ様が少し具合が悪そうだったので、日差しを遮ろうと思って。申し訳ありません、出過ぎた真似をしたかもしれません」
「いや、それは良いのだが。そうか、これが……」
ラシュナリ殿下は少し考えるように黙り込んだ。




