22 夜に咲く
「ですが……少しだけ、変わってきたのかもしれません」
そう口にしてから、自分でも不思議なことを言ったものだと思った。少し前までの私は、”自分が変わる”ことなど考えたこともなかった。
魔力が極めて少ないことも、フィリップ殿下とリリーのことも、家族からどのように扱われることも、全てそういうものなのだと思っていたし、それについて自分が何かを選べるなどとは考えていなかった。それなのに最近は、今までなら何の疑問も抱かなかったことに立ち止まり、言えなかったはずの言葉が口から出ることがある。
「それはとても良い変化だと私は思いますわ、エマ」
マーリャ様が柔らかく微笑んだ。その隣では、騎士の姿をしたラシュナリ殿下も静かに頷いている。二人に揃って見つめられると何だか気恥ずかしくなり、私は小さくお礼を返してから、今度こそお二人を部屋へ案内した。
部屋へ戻ると、シュゼットがお茶と焼き菓子を用意してくれていた。
「ありがとう、シュゼット。あのね、申し訳ないのだけれど、少しだけマーリャ様と、騎士様とお話をしたいの。しばらく席を外してもらえるかしら」
「かしこまりました。何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ」
シュゼットはお二人へ丁寧に一礼し、部屋を出ていった。扉が閉まり、廊下を歩いていく足音が聞こえなくなったところで、ラシュナリ殿下が感心したように呟いた。
「良い侍女だね。君のことを大切にしているのがよく分かるよ」
「はい。シュゼットには、ずっと助けてもらっています」
「私、お友達のお部屋に来ることがあまりないのでなんだかドキドキしていますわ。わあ、このお菓子、とっても美味しくて私好きでしたわ」
私も、慣れた自室にお二人がいるだなんてちょっと信じられなくて、心臓の動きがいつもよりも早い。
「あら、あちらが例のお花ですか?」
窓辺を眺めたマーリャ様が花瓶を指した。そこには、試練の森の近くで摘んできた野草が一本だけ挿してある。灰緑色の細い茎に、同じく細長い葉が数枚。その先には白とも灰色ともつかない小さな蕾が付いているだけの穏やかな佇まいの花。
「まあ、月夜花でしたのね。私、大好きなのです」
「え、アリラハにも同じ花があるのですか?」
嬉しそうに口角を上げたマーリャ様を見て、私は驚いた。試練の森やエルルーナの領地の外れにはよく咲いている花で、名も知らぬ綺麗な野草くらいにずっと思っていた。その上、アリラハとは気温も気候も一切が異なる。同じ植物が在るとも思っていなかった。
「うん、有名な花だよ。アリラハは気候上、育つ花は貴重だから大切に植えられているところが多くてね。王宮の丘には一面に植えられていて、夏の夕涼みは皆で一斉に咲いた花を眺めることが多いんだ」
「そんなに大切な花なのですか?」
ラシュナリ殿下は、「そうだね」と言って、閉じた蕾へそっと顔を近付けた。
「月夜花……」
思わずその名前を繰り返す。目の前にあるのは、昼間なら通り過ぎても気にも留められない野草だった。そんな美しい名前を持っているだなんて知らなかった。
「アリラハには、この花について古い言い回しがあるんだ。『月夜花は闇を待つのではなく、夜を知って咲く』と」
「闇と夜は、違うのですか?」
「さて。昔のアリラハの民はどういう意味で言ったのだろうね。ただ、単純に暗くなれば咲くという花ではないらしい」
ラシュナリ殿下はそう言うと、騎士服の上着を脱いで花瓶にそっと被せた。アリラハの重厚感ある布地は隙間なく花を覆う。その状態で、3人で花を眺める。
「随分と真剣に布を眺めていますけれど、なんだか傍から見れば妙な光景ですわね」
「マーリャ、私も同じことを考えていたけど、わざわざ口にしなくてもいいよ」
真剣に、しかし少し砕けた口調で注意するラシュナリ殿下に思わず笑ってしまい、慌てて口元を押さえる。けれどマーリャ様も楽しそうに笑っていたので、堪える必要はなかったのかもしれない。
しばらくして布を取り払ってみたものの、月夜花の蕾は固く閉じたままだった。完全な暗闇に置かれていたはずなのに、開く気配すらない。
「咲きませんわね」
「少なくとも、光を遮れば咲くわけではないということは分かったね。では、次にエマ嬢、昨日と同じように魔法を使ってみてもらえるかな」
「はい」
分かっていたことなのに、改めてお願いされると少し緊張した。昨日も使い、今日の授業でも使った魔法なのだから、今さら恐れる必要などないはずなのに、自分より遥かに魔法に長けたお二人の前で試すとなると、どうしても肩に力が入ってしまう。試されることは、いつも”期待はずれ”で終わるので苦手だった。
私は花へ掌を向け、ゆっくりと息を吸い、そしてゆっくりと息を吐いた。
「闇を纏え」
指先から黒い靄が生まれた。それは以前のように、身体の奥にある僅かな魔力を無理矢理引きずり出す感覚ではなかった。呼び掛ければ当然のように応えるものが、静かに形を持って現れたような感覚だった。
闇は花瓶を包み、机の上を滑り、そこから床へと落ちていく。昨日よりも広げないよう意識したつもりだったけれど、それでもマーリャ様の足元へ届き、さらにラシュナリ殿下の靴先まで覆った。
以前なら、ここまで広がっただけでも怖くなっていたと思う。けれど今は不思議なほど扱いやすい。これ以上広がらないでほしいと思えばぴたりと止まり、少し右へ寄せようと考えれば、靄は私の意思を理解したように形を変える。
「まあ、花が」
マーリャ様の声に視線を戻すと、白っぽい蕾が僅かに震えていた。
一枚、また一枚と、固く重なっていた花弁がほどけていく。昼間には灰色がかって見えていた蕾の内側から現れたのは、青をほんの少し溶かしたような澄んだ白だった。細い六枚の花弁が星のような形に開き、その中心から淡い銀青色の花芯が覗く。花弁の縁は薄く透けていて、闇の中にある方がかえって白さが際立って見えた。
「……綺麗」
何度も見たはずの花なのに、思わず声が漏れた。
「これが月夜花ですわ」
マーリャ様が嬉しそうに言う。やがて、部屋の中にごく淡い甘い香りが漂い始めた。昼間にはほとんど香りなどしないのに、花が完全に開いた途端、そこにあると意識しなければ気付かないほど優しい香りを放ち始める。
「さっきは暗くしても咲かなかったのに……」
「君の《ダーク》に触れた途端に咲いた。少なくとも、光を遮ることとは別の何かが起きているね」
ラシュナリ殿下は花を見ながら答えたが、そこでマーリャ様が自分の胸元へ手を当てた。
「……兄様」
「うん。私も感じている」
お二人の表情が急に変わったので、私は慌てて魔法を消そうとした。
「何か具合でも?」
「いいえ、逆ですの。お願い、まだ消さないでくださいませ」
マーリャ様に止められ、伸ばしていた手を戻す。
「身体が軽いんです。先日も感じましたけれど、今日は意識していたからでしょうか。エマの魔法の中へ入った途端、身体にあった重さがすっと無くなりましたわ。兄様は?」
「うん、同じだね。それに……」
ラシュナリ殿下が片手を上げ、小さな風を起こした。ほんの僅かな魔法を使っただけに見えたのに、カーテンが大きく膨らみ、机の上に置いてあった紙が数枚宙へ舞い上がった。
「あ」
「兄様」
「……やはり、これで確証を持てた」
すぐに風を消したラシュナリ殿下自身が、一番驚いているようだった。マーリャ様は床へ落ちた紙を拾いながら、少し呆れたように兄を見上げる。
「同じ感覚で使っても普段の数倍の威力だ。これはやはり……この魔法は、君は……」
ラシュナリ殿下は自分の掌を眺めながらそう答える。その顔を見ているうちに、私は別の違和感にも気付いた。
「……あの、殿下。お顔が、少し違って見えます」
騎士姿のラシュナリ殿下は、もともと普段よりも白い肌と濃い紅の瞳をしていた。けれど《ダーク》の中にいる今は、その赤がさらに鮮やかになっている。夕方の光が弱くなった部屋の中で、瞳だけが僅かに光を含んでいるようにさえ見えた。
「……変装が崩れたかな」
「いえ、そういう感じでは……。むしろ先ほどより、こちらのお姿が自然に見えるような」
思ったままを口にすると、ラシュナリ殿下が一瞬黙った。マーリャ様も何故か私の顔をじっと見ている。
「また面白いことを言うね、君は」
「申し訳ありません」
「いいや、何も謝ることは無いよ」
殿下は小さく笑った。その時、白い歯の間に少しだけ長い犬歯が覗いたような気がして、私は思わず目を瞬いた。もう一度見た時には分からなくなっていたので、変装の魔法の影響なのだろうと思うことにした。
「それよりエマ、これだけ長く魔法を使っていらっしゃいますけれど、身体は大丈夫ですの?」
マーリャ様に尋ねられて、私はようやくそのことに気付いた。《ダーク》を使い始めてから、もうかなり時間が経っている。以前ならとっくに息が上がり、身体から力が抜けて座り込んでいる頃だった。
「……何ともありません」
「本当に?」
「はい。むしろ、まだいくらでも続けられそうな気がします」
自分で言いながら、少し怖くなった。昨日まで出来なかったことが出来るようになったのは嬉しい。それでも、何故出来るようになったのか分からないという事実は、やはり不気味だった。
『身体にも何か変わったことがあったら、些細なことでも教えてほしい』ラシュナリ殿下のその言葉が頭に浮かんだ。
「あの……全然、確証の無いお話なのですが」
「うん、どのような事でも気がついたことがあったら教えて欲しい」
包み込むような赤の瞳に背中を押されて、私は「実は」と続けた。
「ウィノナー様の事件の後からなのです。あの時、マーリャ様を助けたいと思った瞬間に、身体の中で何かが切れたような感じがして……それから少しずつ、自分が、魔力が変わってきたような気がします」
「何かが、切れた?」
ラシュナリ殿下の声が少し低くなった。
「はい。ええと、何も確証はなくて、感覚的なものなのですが、首の後ろで糸のようなものが、ぷつんと切れるような感覚でした。それまでは動きたいと思っても身体が動かなくて、でも、それが切れた途端に少し、自分が自由になったような気がしたんです」
お二人の顔から、先ほどまでの柔らかな雰囲気が消えた。
「エマ嬢。それは、魔力が使えるようになったことと別々の話ではないかもしれない」
「どういうことですか?」
「まだ何とも言えない。ただ、魔法による契約の中には、影響を受けた人間が縄や鎖、糸のようなもので繋がれるという感覚を持つんだ」
「契約……」
聞き慣れないわけではない。魔道具の使用者を限定するための契約や、魔法使い同士で交わす術式契約についてなら授業でも習ったことがある。
「でも……私は誰かと契約をした覚えなんてありません」
「君自身が契約を結んでいなくても、その影響を受けることはあるよ。ただし、今の段階でもちろんそれだと決めつけるつもりはないが……」
ラシュナリ殿下はそこで一度言葉を止め、マーリャ様へ視線を向けた。マーリャ様も少し迷うように目を伏せたものの、やがて小さく頷く。
「マーリャ、エマ嬢にはもう話そう」
「……そうですわね」
二人が、頷き合う。
「その前に、一度魔法を消してもらってもいいかな」
「はい」
意識を集中すると、部屋に満ちていた闇がゆっくりと薄れていった。夕方の光が戻ると同時に、満開だった月夜花の花弁が少しずつ閉じ始める。マーリャ様も自分の肩へ触れ、何かを確かめるように小さく息を吐いた。
殿下の瞳は、先ほどまでの鮮やかさを失ったように見えた。
私は閉じていく月夜花を見つめた。エデローラでは誰も名前すら知らないような野草なのに、アリラハでは月夜花という名前を持ち、夜の訪れを知らせる花として知られている。その花が、まだ日も沈んでいない私の部屋で、私の闇に触れただけで咲いた。
「私の《ダーク》は、一体何なのでしょう」
そう尋ねると、ラシュナリ殿下は少しだけ困ったように笑った。
「それを知るためにも、私たちも君に話さなくてはいけないことがありそうだ。……本当は、もう少し確証を得るまでは話さないつもりだった。君を巻き込むべきかどうかも迷っていたしね。でも君は、自分に起きていることを私たちに打ち明けてくれた。それなのに、私たちだけが何も言わずにいるのは公平ではないだろう?」
マーリャ様も真剣な表情で私を見ている。
「エマ嬢。この国で私たちがある物を探している、という話まではマーリャからしたね」
ラシュナリ殿下は、閉じかけた月夜花へ一度だけ目を向けてから、静かに続けた。
「より正しく言うと、私たちは物ではなく人を探しているんだ。この国、大陸、全てを影響を与えうるある人物を」
「ある人物……?」
「ああ」
深い赤の瞳が、真っ直ぐ私を捉える。
「魔族と契約を交わした人間を探すために、アリラハからエデローラへ来たんだ」




