黒髪のあやめ #3
思えば、故郷と言っても、この国に出入りしたのは密航の時の一度きりだし、船乗りも船でしか国の外に出たことはなかった。それがどういう事かと言うと、私と船乗りは、陸路で国から出たり、逆に入ったりしたことがないと言うことで——だから、私たちは気付いていなかったのだ。「もうすぐ着く」と思っていた国の領土に、実は既に踏み入っていた事に。
間の抜けた話だ。
確かに私はこの国を目指していた。しかし、すぐ近くまで来たら、そこで船乗りのロットとは別れて、それきりもう戻ってくるつもりはなかった。ずっとそういう思いで旅をしてきたのだ。
考えなくてもわかる事だけれど、密航者の私には、密航という危険を冒してまでもこの国を逃げ出す必要があった。それは、外道に落ちた貴族の手によって連れ去られ、この国に連れてこられ、私を産んだ母が、ヒトを殺したからだ。
理由なんて誰も考えてはくれないし、正しさなんて誰も取り合ってはくれない。
貴族が殺された。
それだけあれば、彼らには十分だった。
理由はそれで十分。
誘拐してきた異民族に対して、もとから理由なんてあってもなくてもどっちでもよかっただろうに。余分な理由を持て余した彼らは、集団になるのだ。
集団になれば噂になり、世論になり、本当になる。
「あいつには何をしてもいい」
そういう声が、自分に向けられて、心に溜まり込んだ邪悪な意識から聞こえてくる。
私目線ではつまらない悲劇で、誰かの目線では爽快な勧善懲悪。
まるで、冴えない大衆派劇作家の渾身のストーリーみたいだ。
敵役に共感する観客がいなければ、そんなのは、自己満足の理想を投影した下らない劇にしかならないだろう。
私の人生はそういう自己満足の劇作家の物語に似ている。私は私に相対する誰かにとって『悪い奴』という概念でしかなく——人間ではない。相手が人間でなければ、共感もないだろう。感情を表現するのは人間だけだ。少なくとも私という一般人の知る限りではそう。
だからこの国には帰ってくる気はなかった。更々《さらさら》なかった。
いくら大人になったとはいっても——外見が成長して変化したとはいっても。この黒い髪は、否でも応でも目立つ。わかる人間には、わかるだろう。私が昔逃げ出した者だと。
見つかって。
問題が掘り返される。
そんなの誰も得をしない。
だと言うのに。
「あれ……君は確か、レガリアの使用人の」
私の前を歩く船乗りは、まだ己の帰郷の事実に気付かず。
「フランビル……フランビルじゃないか」
そう言った。
知らない名だし、ロットの後ろから顔を覗かせて見ても、それは知らない顔だった。
だけど、そこに浮かんだ表情の——感情の名前は知っている。
怒り、と言うよりは、憤り、という感じだ。
一瞬たじろいだ。
もしかしたら、フランビルと呼ばれた彼は、昔の私を知っていて、顔を見た途端、直ちに私の素性を察したのかと思ったのだ。
しかし、それに関してはまったくの杞憂だった。
彼は、私の素性を察するどころか、私がロットの後ろに立っている事にすら気付いてはいないようだった。
間近で望遠鏡でも覗いたみたいに、ロットの事しか見えていないような、そんな勢いで、
「なぜ貴様がここにいる!」
と叫んだ。
頭に描いていた冴えない大衆派劇作家の渾身のストーリーならまだましだったかもしれない。その物語の一部の私は、故郷とも、ロットとも永遠に別れて——『悪』には無造作に罰が訪れ、大衆は平和と正義感を手にする。それで物語は終わり。そういう予想をしていたのに。
さて現実はどうだい。
いつだって、悪い出来事ってのは予想を超えて悪いものだ。




