黒髪のあやめ #1
以前から思っていたのだ。
なぜこの男は私のことを「黒髪の女」なんてけったいな呼び方をしているのだと。
しかし、わかってみればそれは道理。
貴奴は、私の名を知らなかったというだけのことだった。
何とも言えない。
別に仲良くなったわけでも、仲間になったわけでもないのだけれど。いままでよくも名を聞こうと思わなかったものだな。命の恩人の名くらい、知りたくなるものだろう。少なくとも私はそうだ。
私はこの男が船乗りだということも知っているし、この男がロットと言う名だと言うことも知っている。なんなら、彼には積極的に名乗る習慣がないらしいが、彼の家名だって、私は把握していた。
私はこの男に、密航した船で見つかり――そして見逃された。
本来ならば許される事ではないはずだ。大陸間の外交を主な任務としていたらしい彼の船に、もしも後々密航者が居たとなれば信頼問題に関わるだろう。それに、私の事情だって何も知らなかった筈だ。同情したから見逃した、と言われればまだ納得も行くが……初めて出会い、言葉ひとつ交わさぬ内に、彼はたしか、こんな事を言った。
「さてさて、どうしたものかな。食料庫に女性が、というかこの船に女性は乗っていなかったと思うんだけど。これはもしかして無銭乗船ってやつなのかな。こういうのってどうなんだろう、これでもこの船は政治に関わる船だし、部外者が乗り込んでいたというのは結構まずいよな。もし君がスパイだったりしたらそれは大変な問題だ。俺はいち早く君を捕縛して船長と話し合いをしなければならない。というのが本当のところだと思うんだが……ここで俺がこうして見つけて捕まえていなければ、管理責任問題で船長の首が飛んでいた可能性もある。けど、ここで俺がこうして見つけて捕まえてしまえば、密航の罪で、君の首が飛ぶ事になる可能性もある。ふんふん。となると、ここで最も平和的な解決方法を模索するとすれば、『俺が君を匿って、君は何も問題を起こさない』と言うことなんだけど、そんなの誰にも保証はできない……オッケーじゃあ、仕方ない、船長よりも君の方が見たところ全然年下だから、君のことを見逃すよ。それじゃあね」
まくし立てるように発したその独白も、彼が私に背を向けた理由もまったく意味が分からなかった。
ただ、異国の人間の子にして、殺人者の娘である、逃亡者で密航者の私がそこで捕まっていれば、憂き目にあっていたことは確実だったのだ。
だから、私はロットを命の恩人だと認識しているし。船が沈むことになったあの日――奇しくも私が船を脱走ならぬ脱泳しようとした日と同じ日――にも、彼の事を救ったのだ。
と言っても。当時を想起すると、確か彼は完全に意識を失っていたし、そのまま長いこと目を覚まさなかったから、私に助けられたという認識はしていないのかもしれない。が、そんなことは関係ない。感謝されようとされまいと、私は彼のお陰で今こうしていられるのだから、彼を無事……とは片足をなくしている以上もう言えないが、それでもちゃんと故郷へ送り届けるところまでは義を通す。
恩を返すわけではない。
私はもらったら、その分返すなんて余裕のある性格はしていないのだ。
だから、これは、この男の為にやっているのではない。……自分の為、とまで言ってしまうと行き過ぎた恭謙という感じもするし、自分がそこまで慎み深いディアントゥスの花のような人間だとも思いはしない。だからと言うなら、だから私は、この男の為でも、自分の為でもなく――「あなたはきっと、いい人間になれるわ。あなたが心の美しいヒトに育つことを、私の希望にさせてね」――十七年前。私が十二歳で、この男の船に密航する前に亡くなった、母の為に。
私は彼に、私のことを同行せしめる。




