時計屋フランビル #3(後)
今まで、冷静になってみるまでそれは考えていなかった――否、考えようとしていなかったことだが、現実的に、その可能性は限りなく低いように思う。
私は時計屋としての作業に使う工具携帯用ベルトに一緒に括り付けた腰袋の中から、四つ折りになった簡素な文書を取り出す。
そう。
ここにこうして、
「彼女の遺書が見つかっている」
自殺願望を持った人間の遺書が見つかるのなんて、たいていはその人物が自殺を決行した後に決まっているじゃないか。
当たり前だ。
遺書まで書いた人間。
覚悟を決めた人間が、そう簡単に決意を邪魔されるような方法を選ぶとは考えにくい。
助けてほしいとは思っていても……私に、元フランビル・ホロゾワッソ、現時計屋フランビルに助けてほしいと思っているわけでは、おそらくない。
レガリアが求めているのは、世界でたったひとつ。
たったひとりの船乗りだけだ。
「結局僕には、レガリアを救うことはできないのですね」
と私は独白した。
彼女は馬鹿じゃない。
私が習慣的に彼女の元を訪れるのは、仕事前の早朝か、仕事帰りの夕刻しかないということを考慮に入れているだろう。
だとすると、正午前後には彼女は自決に及んでいる可能性が高い。
その時間帯であれば、私に邪魔立てする事は、まずできないのだから。
今日は偶然にも、終業が早かったから、昼過ぎの、まだ日が高い時間帯に彼女の納屋に行き、遺書の存在に気付くことができたが……それからもう一時間は経過している。
とても可能性が残っているとは、思えなかった。
冷静になるほど。
落ち着いて考えるほど。
失敗という文字の濃度が濃くなっていく。
彼女を救うこと。彼女を守ること。彼女に尽くすこと。彼女を理解すること。
そのすべてに、完膚なきまでに失敗した。
「――そんなことはないさ」
そう思ったとき。
正面からそんな声が聞こえてきた。
それに続けて、
「そんなことはないはずだ。レガリア・ロールスイスの使用人」
レガリア・ロールスイス。と彼はいった。
勘当を受け、レガリア自身が名乗ることを禁じられた三大貴族の名で、彼は呼んだ。
私が失った使用人の立場として、彼は私に話しかけた。
いつの間にかうつむいていた私は、すぐ目の前に誰かが立っていることに気が付かなかったらしい。
黒を基調とした裾の長い、ゆったりとしたオーバーコートに全身を包んでいたが、胸元から見える『杖を銜えた百獣の王の紋章』は、見違えようがなかった。
国内の経済の中核。
寡黙にして豪毅の貴族の紋章――だ。
「コバルト……殿」
彼の名はコバルト・シェルラオス。
シェルラオス家現頭首。
そして、レガリアの元婚約者候補。
なぜあなたのような方がこんな場所に。
と思ったが、その前に聞くべきことがあった。
「ご無沙汰しております。……あの、そんなことないとは」
聞き違いでなければ「そんなことはないさ」と、そう言われた気がした。
考え事の最中にとつぜん話しかけられたので、それより前の言葉を聞き逃してしまっていたかもしれない。
「独り言に言葉を挟むほど無粋なこともなかなかない、と平時は思っているのだが。ところが今は平時ではない。……『結局僕には、レガリアを救うことはできないのですね』。ふん。君がそれを言ってはいけない」
例え、独り言でも。
と彼は言った。
先ほどの独り言――独白を聞かれていたようだ。
「パン屋の彼女から事情は聴いた。レガリア・ロールスイスの使用人」
パン屋のお姉さん……いったいどうやってコバルト殿と知り合ったのだ……。本当に底知れない。
しかし、彼女はさっそく――こんなにも早く三大貴族の一角に情報が届くほどの拡散力でレガリア探しに手を回してくれているらしい。もしかしたら、私が立ち尽くしている内に、港中くらいには広まっているかもしれない。
「私は君たちが今、どんな生活をしているか知っている。しかし君は知らないだろう。レガリア・ロールスイスが施しを受けることを否定しないのは、君だけだったということを」
それは。
どういう意味だ?
私は確かに、おそらく現在のレガリアとまともに付き合いのある唯一の人間だと言うことができるが……施しなんて言い方は、少々大仰に感じるし。
何より。そんな言い方だとまるで――
「彼女を助けたいと思っているのは、君だけではないさ。レガリア・ロールスイスの使用人」
「……レガリアには、本当は私以外にも味方がいたのですか」
「それは当然のことさ。あんなに心の美しい女性が、誰にも忘れ去られたように暮らしているなんてことが、あり得ると思うかい」
「それは――」
「それはない。君がそうであるように」
その通りかもしれない。
確かに彼女は名家を勘当された。
しかし、それですべての人間関係が断絶するというのは、なかなか考えづらい……と、コバルト殿に同意する気持ちがある一方で、しかし、と私は反論を述べる。
「だけど、それはその通りで、彼女が忘れ去られることがないのだとしても、それでも彼女はずっとひとりだったのです。例え忘れていなかったとしても、『忘れはしなかった』という、それだけのことで味方といえるでしょうか」
「初めに言った通りさ。レガリア・ロールスイスの使用人」
とコバルト・シェルラオスは言う。
「施しを受けることを否定しないのは、君に対してだけ――つまりそれ以外は、皆拒否されたのだよ」
私もな。と付け加えるように彼は言った。
「な、なぜ……」
なぜレガリアはそんなことをしたんだ。
「仕事も金も食事も物品も、温情も、彼女はなにも受け取らない。きっと無意識に慮ったのだろう。周囲の者を。家を追放され、名をなくした者と、立場のある者が仲睦まじくしていれば、良くは思われない。だけど君だけは違う。人間関係が違うのだよ。彼女は私の気持ちよりも私の体裁を優先した――しかし彼女は、君の体裁よりも君の気持ちを優先した。それが君と、君以外との関係性の違いだ」
彼女は、誰よりも君の気持ちが分かってしまうのだろう。
コバルト殿は、さっぱりとした声で、嘆息混じりに言う。
私はずっと、レガリアに迷惑がられているんじゃないかと、内心に不安を抱えていた。
私が世話を焼かない方が、うまくやれるのではないか。
そんな不安が。
「だから、君が『レガリアを救えない』だなんて言ってはいけない。今まで、君はちゃんと彼女を救い続けていたのだから」
それは、おそらく。
私以外のレガリアを救いたいと望んだ者が、心で零してきた一言なのだ。
彼女の優しさに拒否され。
レガリアを救えない。
彼女の想像りに拒絶され。
レガリアを救えない。
彼女の心に拒止され。
レガリアを救えない――
「――レガリア・ロールスイスの使用人以外に、レガリア・ロールスイスを救うことはできない。だから君が諦めるな」
私以外には、救えない。
コバルト殿は、襷を繋ぐように、そう言って私の方をポンとたたいた。




