時計屋フランビル #2
パン屋のお姉さんは、
「…………」
と沈黙した――いや、絶句した、と言う方が正しいかもしれない。
私も私で、この手紙を見つけてからまだ間もないし、誰にも相談できてはいなかったので、情報を共有する事で、いったん心を落ち着ける間ができた――という感じだ。
だから、パン屋のお姉さんのリアクションについて、うまく描写する事ができているかどうかなんて言うのは、正直判然としない。
とにかく私たちは数秒間、黙ってお互いに何かを考えていた。
先にその、沈黙ならぬ黙考を破ったのはパン屋のお姉さんだった。
「とりあえず……パン食べるかい」
「…………」
とても「商魂たくましいな!」と突っ込めるようなテンションではなかった。というか、パン屋のお姉さんの方も、なにもふざけてそう言ったのではなく、かなりまじめなトーンだ。
それなりに意味のある提案なのだろうか。
しかし、今は胃にものが入るような精神状態ではないということくらい、医者でなくとも――時計屋の自分にもわかることだ。
私が彼女の言葉の意味を真剣に考えていると。
ゴッ。っと鈍い音が響いた。
「――ったあぁ」
「真剣な話をしながらパンを食わそうとするな」
店の奥から出てきた屈強男が、焼きたてであろうパンの乗ったプレートを片手に、パン屋のお姉さんの頭を殴った音だった。
屈強男――パン屋のお姉さんのパン屋の店主にして、パン屋のお姉さんの旦那さんだ。
彼は、販売カウンターの下のショーケースに焼きたてのパンを並べに来たらしい。
「パイソン! あんた、パンの次に繊細な私の頭を気安く殴りやがって!」
「たいていの人間の頭は、パンより繊細だろうけどな……」
「はぁ――このっこのっこのぅ!」
お姉さんは子どもみたいなかけ声で旦那のことを殴りにかかる。
しかし、体格差がありすぎるせいか、大してダメージもなさそうにパンを並べる旦那。
「おいおい、あまり暴れるなよ。おまえの頭より繊細なパンが落ちたらどうするんだ」
「それはあんたが命を懸けて守るんでしょ――って、あらパイソン。その今焼き上がったのって、新作の子じゃない」
とパン屋のお姉さんは、旦那の並べるパンを見るや、態度を翻した。
私としては「命を懸けて守る」なんていうラジカルなセリフの方が、『新作の子』よりもよっぽど気になったけれど、二人はそのセリフについては特に反応しなかった。
この二人の間では、日常的に現れるワードなのだろうか……。
まあ、気にしても仕方ないが。
「ほらほら、奢ってやるから食ってみな。そして感想を言いなさい」
「え、ええ……はい」
高圧的な態度でパンを押しつけられてしまった。
押しつけられたと言っても、パンを握る手も、押しつける力も、その『新作の子』が潰れないように、最大限の真心手心が加えられていたのは言うまでもないが――果たしてそれは、『新作の子』なんて言うだけあって、見たことのないパンだった。
形だけで見れば、とある生き物に類似していた。
「ふふぅ。それはね、フルーツ商店のメロンちゃんのために作って、今日から売りに出してる新作パンなのよ」
パン屋のお姉さんは、早く食べろとこちらを煽る。
私は、今の状況を思い出し――レガリアが遺書を残して失踪している状況を思い出し、こんな時に何でパンの試食なんてしているんだ、という気分になった。彼女も彼女だ――パン屋のお姉さんもパン屋のお姉さんだ。最近のレガリアは、直接に現住居を訪ねている私以外に、親しくしている人間はほとんどいないだろうけれど――しかし、最近は親しくしていないと言っても、顔の広いパン屋のお姉さんだ、レガリアのことを全く知らないわけでもないというのに、なぜ暢気にパンなんて勧められるのだ。最早「なぜ」というより「謎」って感じだ。
と若干の怒りにも似た感想を抱いたところで……。
「いただきます」
と私はパンを頬張った。
結局食べるのだ。
こんな状況だろうと結局食べないわけにはいかない。
だからこそ、こんな状況でもパンを食べてしまう自分にいいわけを作るために、心の中でパン屋のお姉さんに責任を少し押しつけたのだ。
しかし、これは、仕方のないことだ。
この港町において。パン屋のお姉さんの創作った新作パンを目の前にして食さずにいられる人物なんているはずがない。
絶対にいない!
そう私は言い切れる。
それだけ、彼女はこの町に愛されているし。
それだけ、彼女のパンは絶対的にうまい。
信頼的にうまい。
きっとさしものレガリアも、目の前にパン屋のお姉さんのパンと、件の船乗りが同時にポンと現れたら、反射でパンに食いつくだろう。……その想像は、些か不謹慎だが、冗談としては面白い、と私は心の中で少し笑いを堪えた。
そんな冗談みたいに彼女のパンは一流なのだ。
「う。うう。ううう。うまい――なんなのですかこれは、表面は焼き菓子のようにサクサクしていて、それに甘い。まるでスイーツのような味わいだ。けれどこのボリューム感は主食足りうる……おいしい。おいしいです、パン屋のお姉さん。これはなんという名前のパンなのですか?」
文字通り、そんな風に私は食いついていた。
お姉さんは「クックック」と悪役じみた笑いを零す。
見た目は亀の甲羅のようなのに、味わいはまるでフルーツだ……そう言えばさっき、フルーツ商店の子のために作ったとか言っていたか……。
「やあやあ時計屋。いい顔して食ってくれるじゃない。私はそういう客が大好きだよ」
彼女は五歳児までにしか作れないはずの笑顔でニカッっと笑う。
まったく、どっちがいい顔だ。
「気分がいい、みやげにもひとつもって粋な! 鯔背なパン屋のおねーさん作。フォー私のお友達、フルーツ商店メロンちゃん。今日にどんな苦境があろうと、うまいパンは命を救う――綾模様が小粋なこの子は、私命名、『メロンパン』だよっ!」




