パン屋のお姉さん #2
私はパンを売るのが好きだ。
パンを褒められるのが好きだし、食べる姿を見るが好きだし、お客さんたちと喋るのが好きだし、なんなら自分で食べるのだって大好きだ。
何でそんなにパンが好きなんだ、と、同じくパン好きのくせにパイソンはそんなことを私に聞くが――そんなことに理由があるはずない。と、私はいつも答える。
それでも、どうしても理由らしいものを言うとしたら。
「私はパン屋のおねーさん。だからパンが大好きなの」
それだけだ。
それは定義に近いものだと思う。
法則だったり、構造だったり、通説じゃなく。
私は『パン屋のお姉さん』という生き物なのだ。
お客さんたちが私を『パン屋のお姉さん』と呼ぶから、私はパン屋のお姉さんなのだ。
パン屋のお姉さんが、パンを嫌いなわけがない。
まあ、そんなことをパイソンに言えば、
「三十六のお前がいったいいつまで『お姉さん』を名乗っているのか……それはそれで楽しみだな」
なんて、意地の悪いセリフを言われてしまうけれど。
そしたらそしたで。
私がお姉さんを自称できなくなったらなったで。
そん時に考えればいい。
どっかから二代目でも生えてこないかな……パンみたいに。
隣で「パンは生えてくるもんじゃないだろう……」とつぶやいているパイソンは放っておいて、私は適当に販売カウンター下のショーケースに並ぶパンを眺めたり、港を歩くヒトの中から超かわいい二代目候補を探したりと忙しくしていた。
すると、町の方向――港の先にある丘とは反対の方に、覚えのある顔を見つけた。
いや、覚えのある顔なんて言えば、私はこの港の市場に脚を運ぶような人間にはたいてい見覚えがあるし、こうしてパンの鑑賞――もとい品質管理と、二代目探し――もとい美少女鑑賞|(パイソン「そこ逆だろう」)を忙しく行っている最中も、ひっきりなしに。
「おっ、お姉さん、今日もパンがうまそうだね」
「やー、機嫌がいいね、そっちの船も今日は大漁かい?」
「パン屋のおねーさん、その髪型はなんてーの」
「ああ? さあ、そんなの私に訊くなよ。まあ私はバイソンテイルと呼んでいるけれどね」
「ねーちゃ、ねーちゃ。パンの耳くれよう」
「おいおい小僧くん、鼻たれてんぞ。あと何度言えばわかるんだ。うちは食パン使ってないのよ」
「あらあら、パン屋のお姉さん。今日は格好いい旦那様はお休み?」
「ちょっと、役所の嬢ちゃん、格好いいって、それパイソンのこと? あいつは裏でパン焼いてるよ」
「ハロー、パン屋ちゃん、新作パンおいしかったよー」
「おー、サンキューメロンちゃん!」
と、道行く知り合いという知り合いとおしゃべりしまくっているので、わざわざ「覚えのある顔を見つけた」なんて、思う必要は……というか暇はないはずなのだけれど。
しかし、彼の様子が――血相を変えて、あたりを見回しながら、誰かを必死に探すように、早足で進む彼の姿がどうも目に付いてしまったのだ。
だから私はついつい、ほかのみんなにしているように、カウンター越しに、
「おーい、どーしたよ、時計屋」
と話しかけてみた。
彼はほかのだいたいのヒトがそうするように、「あ、パン屋のお姉さん」と、私を呼んだ。
最近聞いた話だが、うちのパン屋は『パン屋のお姉さんのパン屋』と呼ばれているらしい。
なんだその『鶏卵』は。
パン屋のお姉さんがいるからパン屋なのか。
パン屋だから私はパン屋のお姉さんなのか。
じゃねえわ!
どうも、私の名前や、店の名前は、実はそこまで知られていないという事実が、密かに私の近々の悩みなのだが……そんなことは当然知らず、彼は私を『パン屋のお姉さん』と呼び、そして私はその呼び名を結構気に入っている、って悩んでねーじゃん、私!
「レガリアを、レガリアを見ませんでしたか」
「レガリアっつうと、あれだね、あんたの元お嬢様だね」
といいながら、以前は彼――フランビル・ホロゾワッソのことを『執事くん』と呼んでいたのを思い出す。まあ彼は『執事』と呼ばれるのはそこまで好んでいなかった様だけど、呼びやすいのでそう呼んでいた。
「ここのところうちのパンを買いには来ていないけれど、何かあったのかい」
顔の広い私は、この時計屋と、レガリアが、あの三大貴族のひとつ。この国の文化繁栄の中心権力――清廉にして豪奢の貴族と謳われる名門中の名門、ロールスイスを勘当された身だと知っているが――それは、その名家の不祥事ともいえる事件は、本来秘匿されている。だから私は、できるだけ声量を落としてそう訪ねた。
「実は、」
時計屋は、乱れた呼吸を整えるように言葉を区切り、時計の修理とかに使うのだろう、工具が納められたベルトに一緒に下げられた腰袋から、一枚の紙を取りだした。
「これが――レガリアの納屋にあったのです」
とても嫌な雰囲気の紙だと思った。
きれいに四つ折りにされたそれを時計屋から受け取り、アイコンタクトで「広げていいの?」と尋ねる。
彼は、ゆっくりと、頷いた。
冷静に会話しようと試みているらしいが、彼の動揺は明らかに視線に出ていた。
紙を広げる音が、とても生々しく感じられる。
ああ。
ああだめだ。
これは丸焦げのパンが入ったオーブンを開くときと同じだ。
もうわかる。嫌なことがすでに起きてしまっているのがはっきりとわかる。それでも私はそれを確認しなければならないのだ。
そのすでに終了した結果に、今更、遅蒔きに、たどり着かなければいけないのだ。
遠くの音が鮮明に聞こえる気がした。
船が港につき、子どもが走り回り、荷車が木箱をおっこどし、パンが焼きあがる音。音。音。
次々と。ひとつひとつ。
遠くの音が聞こえてくる。
手の届きようのないほど遠く。
それは、過去の音なのかもしれない。
カリカリと。誰かが文字を刻む音。
ゆっくりと思考しながら――しかし私の手は至ってふつうに、あっさりと四つ折りの紙を広げた。
簡単に言うと。
それは、レガリアの遺書であった。




