第九話
冬の終わりが近づいていた。
朝の光が、少しずつ柔らかくなっている。
庭にはまだ雪が残っていたが、屋根の端からは雫が落ちていた。
ぽたり。
ぽたり。
ルイザは窓辺に立ち、その音を聞いていた。
「春が来るのね」
この屋敷へ来たのは初夏だった。
あの頃は、朝起きてすることがないだけで落ち着かなかった。
今は、天気を見て。
庭を見て。
何を飲もうか考える。
読みたい本があれば読むし、何もしたくなければ暖炉の前にいる。
いつの間にか、それが日常になっていた。
「一年って、長いようで短いのね」
窓辺にいたルルの背を撫でながら言う。
ルルはごろごろと喉を鳴らした。
「あなたは何も変わっていないけれど」
片目が開く。
「……怒った?」
ルルはまた目を閉じた。
その時、扉が叩かれた。
「ルイザ様」
マーサだった。
「どうぞ」
マーサが、小さな箱を持って入ってくる。
「こちらを」
「何かしら」
「ヴィオラ様より」
ルイザは目を見開いた。
「また?」
「はい」
「どこにあったの?」
「書斎の古い戸棚です」
「その箱、今までずっとそこに?」
「はい。ただ、戸棚に鍵がかかっておりまして」
マーサが、小さな銀色の鍵を見せた。
「今朝、ノアがこれを廊下へ持ってきたのです」
「ノアが?」
ルイザは部屋の隅を見る。
ノアは何食わぬ顔で窓辺に座っていた。
「あなた……」
ノアは外を見たまま、耳だけ動かす。
「本当に何者なの?」
もちろん返事はない。
マーサは箱をテーブルへ置いた。
「この箱のことは、ヴィオラ様から生前に申しつかっておりました」
「ヴィオラ様から?」
「はい。鍵が見つかった時にルイザ様へお渡しして、開ける時にはお一人にするように、と」
ルイザは箱を見る。
「……そこまで決めていたのね」
「ヴィオラ様ですから」
マーサは少しだけ笑って、一礼した。
ルイザはしばらく箱を見ていた。
古い、小さな木箱。
角が少し擦れ、蓋には蔦のような模様が彫られている。
「……最後なのかしら」
何となく、そう思った。
ルイザは椅子へ座り、蓋を開けた。
中には一通の封筒。
古いリボン。
小さな髪留め。
それから、色褪せた紙片が何枚か。
「これは……」
一枚手に取る。
『お母様の好きな花 白い薔薇』
幼い字だった。
次には。
『弟 夜に咳が出る 蜂蜜入りの湯』
その次。
『妹 青いリボンが好き』
「…………」
ルイザは息を止めた。
自分の字だ。
子どもの頃。
十代の頃。
まだ若かった頃。
家族のことを忘れないために、自分で書いたもの。
いつヴィオラの手に渡ったのかは覚えていない。
次の紙を取る。
『お母様 今日は食欲がない』
『弟 明日は試験』
『妹 新しい靴が必要』
『父 午後は来客』
どれも、誰かのことだった。
ルイザは長い間、その紙を見ていた。
「……こんなに」
誰が何を好きか。
誰が困っているか。
何を忘れてはいけないか。
誰に何が必要か。
ずっと覚えていた。
「……子どもだったのに」
ぽつりと声が落ちた。
九歳。
十二歳。
十五歳。
その頃の自分の顔を思い出す。
誰かに命令されていたわけではない。
家族を嫌っていたわけでもない。
ただ。
気づいたことをやる。
できることを引き受ける。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
ルイザは紙片を箱へ戻し、一番下に入っていた封筒へ手を伸ばした。
表には、ヴィオラの字。
『ルイザへ』
封を開く。
いつもより少し長い便箋だった。
『親愛なるルイザ。
もし、この手紙を読んでいるなら。
あなたはきっと、
少しは何もしないことに慣れたのでしょう。』
ルイザは思わず笑った。
「少しどころではないわ」
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『もしかすると、
昼寝まで覚えたかもしれませんね。』
「……そこまで分かっていたのね」
ルイザは思わず笑った。
ルルを見ると、寝たまま尻尾だけを動かしている。
『ここまで来たあなたに。
最後に、
一つだけ伝えたいことがあります。』
ルイザの指が少し震えた。
『誰にも褒められなかった日も。
誰にも気づかれなかった仕事も。
あなたが当然のように差し出してきた時間も。
私は知っています。』
息を呑む。
『夜中に起きたこと。
誰かの好みを覚えていたこと。
自分の分を譲ったこと。
家族が揉めないように、先に謝ったこと。
誰かが困らないように、
いつも少しだけ早く気づいていたこと。』
文字が滲んだ。
『きっと、あなたは、
「大したことではありません」
と言うでしょう。』
「…………」
言いそうだ。
今でも、きっと。
『でも。
大したことでしたよ。』
一滴。
涙が便箋へ落ちた。
『あなたは、
とても長いあいだ、
よく頑張りました。』
ルイザの喉が震える。
『誰かのために頑張ったことを、
後悔する必要はありません。
家族を愛したことも。
誰かの世話をしたことも。
全部、
あなたが生きてきた時間です。』
ルイザは目元を押さえた。
『でも。
だからこそ。
もう自分にまで、
「まだ足りない」
と言わなくていい。』
涙が止まらない。
『誰かに言ってもらうのを、
待たなくてもいいのですよ。
自分で、
言ってあげてください。』
最後に。
『ルイザ。
あなたは、
本当によく頑張りましたね。』
「…………」
声が出なかった。
ただ、泣いた。
静かに。
長い間。
「……ヴィオラ様」
ようやく声が出た。
「ずるいわ」
もう本人はいない。
こんなことを言われても、返事はできない。
「そんなこと……」
ルイザは泣きながら笑った。
「今さら言われたら……」
そこで言葉が途切れた。
足元で小さな音がする。
ノアだった。
いつの間にか、すぐそばまで来ていた。
その後ろから、ルルも近づいてくる。
「あなたたちまで」
涙を拭う。
ノアは迷いなく膝へ飛び乗った。
ルルも隣の椅子へ上がる。
二匹とも、何も言わない。
ただ、そこにいる。
ルイザはノアの背へそっと手を置いた。
温かい。
ヴィオラの手紙をもう一度見る。
『自分で、
言ってあげてください。』
ルイザは目を閉じた。
弟へお菓子を譲った少女。
母の薬を覚えていた娘。
父の予定を書き留めていた若い自分。
眠い目をこすりながら、夜中に母の部屋へ向かった自分。
どれも自分だ。
ルイザはゆっくり息を吸った。
「……私」
声が震えた。
「よく頑張ったわ」
涙がまた溢れた。
それでも。
今度は、少し笑っていた。
ノアが小さく喉を鳴らす。
ルルも身体を寄せてくる。
ルイザは何も言わず、二匹を撫でた。
◇
その日の午後。
アルジャノンが来た。
いつものように、前触れもなく。
けれど今日は、玄関で彼の姿を見た瞬間。
ルイザは少しだけほっとした。
「こんにちは、ルイザ嬢」
「こんにちは、アルジャノン様」
アルジャノンがルイザの顔を見る。
ほんの少し、眉が動いた。
「泣いたのか?」
「……分かる?」
「少しな」
「ひどい顔でしょう」
「そうは思わない」
短く答える。
ルイザは少し笑った。
「ヴィオラ様の手紙を見つけたの」
「そうか」
「たぶん、最後の手紙」
アルジャノンはそれ以上聞かなかった。
少しして。
「茶でも飲むか?」
「ええ」
それが、ありがたかった。
◇
二人は暖炉の前に座った。
今日は紅茶。
少しだけ、花の蜂蜜を入れている。
アルジャノンは何も聞かない。
ルイザも、しばらく黙っていた。
やがて、自分から口を開く。
「アルジャノン様」
「何だ?」
「私、今日、自分に言えたの」
「何を?」
「よく頑張ったって」
アルジャノンの目元が、ほんの少し柔らかくなった。
「そうか」
「ええ」
ルイザはカップを見る。
「自分でそんなことを言うなんて、前なら少し恥ずかしかったと思うわ」
「今は?」
「……言ってよかったと思ってる」
アルジャノンは一度頷いた。
「それならよかった」
しばらく、暖炉の音だけがした。
ぱち。
薪が爆ぜる。
やがてアルジャノンが静かに言った。
「私も、そう思うよ」
ルイザが顔を上げる。
「何を?」
「ルイザ嬢は、よく頑張った」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
今度は否定しなかった。
「……ありがとう」
「ああ」
それだけだった。
けれど、それで十分だった。
その後は、いつものようにそれぞれの時間を過ごした。
ルイザは本を読む。
アルジャノンは旅の記録を書く。
ページをめくる音。
ペンの音。
暖炉の火。
猫の寝息。
時々、ルイザは本から顔を上げた。
アルジャノンは静かに書いている。
それを見ると、なぜかほっとする。
この時間が好きだ。
ルイザは、それだけを思った。
◇
夜。
ルイザはヴィオラの手紙を箱へ戻さなかった。
机の上。
すぐに見える場所へ置いた。
『あなたは、
本当によく頑張りましたね。』
その文字を見る。
今度は涙が出なかった。
ルイザは少しだけ笑った。
「ええ」
そして。
「私、よく頑張ったわ」
静かな部屋に、自分の声が落ちる。
それからルイザは、暖炉のそばで眠っている二匹を見た。
「ねえ」
ルルが片耳を動かす。
ノアは目を閉じたまま。
「明日は、何をしようかしら」
少し考えて。
ルイザは笑った。
「……朝になってから決めればいいわね」
窓の外では、屋根から雪解けの雫が落ちていた。
ぽたり。
ぽたり。
春は、もうすぐそこまで来ていた。




