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一年間、何もしなくていいと言われました  作者: 黒猫と珈琲


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第八話

 冬が来た。


 朝、目を覚ますと、窓の外が白かった。


「……雪」


 ルイザは寝台を降り、カーテンを大きく開けた。


 庭一面に薄く雪が積もっている。昨日まで見えていた石畳も、花壇も、ベンチも、すべて白い。


 古い木々の枝にも、ふわりと雪が乗っていた。


「きれい」


 思わず口に出る。


 その声に反応したように、寝台の上でルルが顔を上げた。


「見て、ルル。雪よ」


 ルルは窓の外を一度見て、また丸くなった。


「興味がないの?」

 

 尻尾の先だけが動く。


「あなた、暖かいところの方がいいのね」


 ルイザは笑った。


 最近は、朝起きてすぐに今日しなければならないことを考えることが減った。


 まず天気を見る。


 庭を見る。


 何を飲もうか、どの本を読もうか。


 そんなことを考える朝が増えていた。


 朝食後、ルイザは居間へ移った。


 大きな暖炉には、すでに火が入っている。


 ぱち。


 ぱち、と薪が小さな音を立てていた。


 火の前には厚い敷物。


 その上で、ルルとノアが並んで丸くなっている。


「まあ。今日は仲良しなのね」


 二匹は少し距離を空け、同じ方向を向いて寝ていた。


 仲がいいのか。


 ただ暖かい場所を分け合っているだけなのか。


 よく分からない。


「私も混ぜてもらおうかしら」


 ルイザは暖炉のそばの長椅子へ座った。


 青紫のショールを肩に掛け、膝には毛布。


 マーサが、湯気の立つカップを置いてくれる。


「今日はココアにいたしました」

「ありがとう」

「甘さは控えめです」

「ちょうどいいわ」


 両手でカップを包む。


 温かい。


 甘い香りがする。


「いい朝ね」


 誰に言うでもなく呟く。


 暖炉の火を眺めながら、ルイザはゆっくりココアを飲んだ。


 ◇


 昼前。


 玄関の方から人の声がした。


 ルイザは本から顔を上げる。


 少しして、マーサが居間へ入ってきた。


「ルイザ様」

「はい」

「アルジャノン様がお見えです」

「この雪の中?」


 思わず本を閉じた。


「雪は強くありませんし、近くまで馬車でいらしたそうです」

「そう」


 胸の奥が、ふっと明るくなる。


「通して」

「はい」


 しばらくして、アルジャノンが現れた。


 外套の肩には少し雪が残り、黒に近い灰褐色の髪も、いつもより乱れている。


「やあ、ルイザ嬢」

「こんにちは、アルジャノン様。寒かったでしょう」

「少しな」

「こちらへ。暖炉のそばが暖かいわ」


 アルジャノンは外套を脱ぎ、暖炉の前へ来た。


「今日は旅帰り?」

「ああ。昨日戻った」

「昨日?」


 ルイザは目を丸くする。


「それで今日、ここへ?」

「ああ」


 あまりにも普通に答える。


「お疲れではないの?」

「一晩寝たからな」

「そういうもの?」


「私はな」


 アルジャノンが暖炉へ手をかざす。


 少し沈黙してから、ルイザは窓の外を見た。


「でも、どうして今日はここへ?」


「雪が積もったから」

「雪が?」


「ああ。この庭は雪が積もるときれいなんだ」


 アルジャノンも窓を見る。


「昔、ヴィオラがよく自慢していた」

「そうなのね」


「朝、雪を見て、ここも積もっているだろうと思った」


 そこで一度言葉が切れた。


「それで、ルイザ嬢も見ているだろうと思った」


 ルイザは瞬きをした。


「……私を思い出したの?」


 アルジャノンがこちらを見る。


「ああ」


 それだけだった。


 ごく普通のことのように言われた。


 ルイザはもう一度、窓の外を見る。


「好きです」


「雪が?」

「こういう景色が」


「そうか」


 アルジャノンが少し笑った。


「なら、来た甲斐があったな」


 暖炉の火に照らされた横顔が、いつもより柔らかく見えた。


 ルイザはほんの一瞬、その顔を見る。


 やっぱり。


 この人は笑うと素敵だ。


「ココア、飲む?」

「もらおうかな」

「甘いのは平気?」

「甘すぎなければ」

「私と同じね」

「それなら大丈夫そうだ」


 ルイザは笑った。


 ◇


 昼食を終えたあと。


 二人はまた暖炉の前へ戻った。


 外の雪は、少しだけ強くなっていた。


 窓ガラスの向こうを、白い粒が静かに落ち続けている。


 部屋の中は暖かい。


 ぱち。


 ぱち、と薪が爆ぜる。


 ルルとノアは、暖炉の前でさっきと同じように丸くなっていた。


 ルイザは長椅子の端に座り、本を開く。


 アルジャノンも向かいの椅子で、別の本を読んでいた。


 時計の音。


 薪の音。


 ページをめくる音。


 時々、猫の寝息。


 誰も話さない。


 それでも、不思議なくらい気まずくなかった。


 ルイザは本を一頁めくる。


 少しして、何となく顔を上げた。


 アルジャノンは静かに本を読んでいる。


 少し長めの髪。


 深緑の瞳。


 頬には年齢相応の薄い線。


 若い男性にはない、落ち着いた雰囲気。


 視線を本へ戻す。


 また一頁。


 けれど。


 何を読んだのか、あまり頭に入っていなかった。


 ルイザは小さく笑う。


 この人といると、何かを話さなくてもいい。


 何かをしてあげなくてもいい。


 ただ同じ部屋にいるだけでいい。


 それが、とても心地よかった。


 それ以上は考えず、ルイザはもう一度本を読み始めた。


 ◇


 夕方近く。


 アルジャノンが本を閉じた。


「そろそろ戻るよ」


 ルイザも顔を上げる。


「もう?」


 反射的に出た。


 アルジャノンが少しだけ眉を上げる。


「もう?」

「……え」


 自分の言葉に気づいて、ルイザは窓へ視線を向けた。


「雪も降っているし、暗くなる前に帰った方がいいのでしょうけれど」

「ああ」

「でも……」


 そこで言葉が止まる。


 アルジャノンは急かさない。


 手袋を手に取ったまま、黙って待っている。


 ルイザはショールの端に触れた。


 もう少し。


 この人と、ここにいたい。


 理由はまだよく分からない。


 けれど、その気持ちは分かった。


「……もう少しいませんか」


 アルジャノンの手が止まった。


 一瞬。


 静かな間が落ちる。


 ルイザの胸が、どくん、と鳴った。


 やがて。


「いいよ」


 アルジャノンは手袋をテーブルへ戻した。


「もう少しいよう」


「……はい」


 ルイザは笑った。


 アルジャノンも、ほんの少し笑う。


 そして何事もなかったように、また椅子へ腰を下ろした。


 それだけだった。


 けれどルイザには、暖炉の火が少し明るくなったように見えた。


 ◇


 マーサが、もう一度温かな飲み物を用意してくれた。


 今度はルイザにはココア。


 アルジャノンには、蜂蜜を少し入れた温かなミルク。


「こういうものも飲むのですね」


 ルイザが言う。


「意外か?」

「少し」

「旅先では何でも飲む」

「もっと苦いものばかり好むのかと思っていました」

「なぜ?」

「なんとなく」

「私はそんなに苦そうに見えるのか?」

「少しだけ」


 アルジャノンが眉を上げる。


「それは困ったな」


 ルイザは笑った。


「でも、今は違います」

「そうか」

「ええ」


 それ以上は言わなかった。


 アルジャノンも聞かなかった。


 二人はそれぞれカップを持つ。


 ぱち、と薪が鳴る。


 外では雪が降っている。


 しばらくして。


「ルイザ嬢」

「はい?」

「眠いのか?」

「え?」

「さっきから、少しぼんやりしている」


 ルイザは瞬きをする。


「眠くはないわ」


「ならいい」


「ただ……」


 アルジャノンがこちらを見る。


「こういう時間って、いいなと思って」


「そうか」


「何をするでもなく、誰かと一緒にいて」


 少し照れくさくなって、ルイザはココアへ視線を落とす。


「それだけなのに、落ち着くのね」


 アルジャノンはすぐには答えなかった。


 暖炉の火が、彼の横顔を照らしている。


「私も好きだよ」


「え?」


「こういう時間は」


 ルイザはカップを持ったまま、アルジャノンを見る。


 彼はもう暖炉へ視線を戻していた。


「……そう」


 ルイザも火を見る。


 胸の奥が、静かに温かい。


 二人の間に沈黙が落ちる。


 けれど今度は、その沈黙まで大切にしたいような気がした。


 ◇


 やがて雪が弱くなった。


 今度こそ、アルジャノンは帰ることになった。


 ルイザは玄関まで見送る。


 外套を着たアルジャノンが振り返った。


「今日はありがとう、ルイザ嬢」

「こちらこそ」


 ルイザは少し迷う。


「引き止めてしまったけれど……」


「私が残ると決めたんだ」


 さらりと言われた。


 ルイザはアルジャノンを見る。


「そうですね」

「ああ」


 彼は少し笑った。


「いい一日だった」

「私も」


 ルイザも笑う。


「いい一日でした」


 アルジャノンは庭へ出ていった。


 雪の匂い。


 冷たい空気。


 白い庭を歩いていく背中を、ルイザはしばらく見送った。


 やがて姿が見えなくなる。


「……寒い」


 ようやく気づいて、屋敷へ戻った。


 ◇


 夜。


 ルイザは暖炉の前で、昼間の続きを読んでいた。


 ルルは膝の上。


 ノアは隣の椅子。


 薪が、ぱち、ぱち、と鳴る。


 その時。


 ルルが突然立ち上がった。


「どうしたの?」


 膝から降り、暖炉の脇へ歩いていく。


 そこには古い木箱が置かれていた。


 ヴィオラが、毛糸や裁縫道具を入れていたものだ。


 ルルが前足で箱の縁を叩く。


「そこ?」


 ルイザは立ち上がり、蓋を開けた。


 中には毛糸。


 古い針山。


 そして、小さな紙片。


「……やっぱり」


 ルイザは笑って取り出した。


 ヴィオラの字。


『寒い夜に、


 人生について難しいことを考えてはいけません。


 まず温まりなさい。』


「…………」


 思わず笑った。


「本当に、ヴィオラ様らしい」


 ルルは何事もなかったように暖炉の前へ戻り、丸くなる。


「もう終わりなの?」


 返事はない。


 ルイザも長椅子へ戻った。


 紙片をテーブルへ置く。


 暖炉は暖かい。


 ココアもまだ少し残っている。


 ルルもノアもそばにいる。


 今日はアルジャノンと、長い時間を一緒に過ごした。


 何をしたわけでもない。


 本を読んだ。


 温かいものを飲んだ。


 少し話した。


 そして。


『もう少しいませんか』


 自分が言った言葉を思い出す。


 ルイザはカップへ口をつけた。


 もう少しぬるくなっている。


 それでも、甘くておいしい。


「……もう少し、か」


 自分で呟いて、少しだけ笑った。


 理由は、まだ考えなくていい。


 薪が。


 ぱち。


 と小さく爆ぜた。


 ルイザは毛布を膝へ掛け直し、本を開く。


 冬の夜は、静かにゆっくりと更けていった。


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