第七話
秋が深まり始めた頃。
庭の木々は、少しずつ色を変えていた。夏のあいだ濃い緑だった葉が、黄色や赤茶に染まり始めている。
朝の空気もひんやりしてきた。
ルイザは、先日買った青紫のショールを肩に掛け、テラスで紅茶を飲んでいた。
最近では、その色を身につけることにも、もうほとんど照れなくなった。
朝、何を着ようかと考えると、自然と手が伸びる。
「ずいぶんお気に入りですね」
マーサが新しい紅茶を注ぎながら言った。
「ええ」
ルイザは素直に笑う。
「とっても」
「よくお似合いです」
「ありがとう」
それだけ言って、紅茶を一口飲む。
足元ではルルが、落ち葉を追いかけていた。
ノアはテラスの端に座っている。
以前よりずっと近い。
けれど、まだ膝には乗ってこない。
「ノア」
呼ぶと、耳が動く。
「こちらへ来る?」
来ない。
「そう」
ルイザは笑った。
「あなたの好きな時でいいわ」
その時、庭の方から馬車の音が聞こえた。
「お客様でしょうか」
マーサが顔を上げる。
「今日は誰も――」
ルイザも立ち上がった。
馬車が屋敷の前で止まる。
見覚えのある紋章。
「……あら」
ハーグレーヴ伯爵家のものだった。
◇
「姉さん!」
玄関を入ってきたのは、弟のレナードだった。
ルイザより三歳年下。今ではハーグレーヴ伯爵家を継いでいるが、ルイザにとっては、どこか昔の弟のままだ。
「レナード。どうしたの?」
「近くまで来る用事があったんだ。せっかくだから寄ろうと思って」
「先に知らせてくれればよかったのに」
「驚かせたかったんだよ」
レナードは笑う。
その後ろには妻もいた。
「お久しぶりです、お姉様」
「まあ。あなたも一緒だったのね」
「はい。急に押しかけて申し訳ありません」
「そんなことないわ」
本当に嬉しかった。
二人と会うのは久しぶりだ。
「さあ、入って。お茶を――」
言いかけて、ルイザは止まる。
それから少し笑った。
「マーサにお願いするわ」
「姉さん、本当に何もしてないんだ」
レナードが面白そうに言った。
「ええ。ヴィオラ様との約束だから」
「へえ」
レナードはルイザの姿を見て、少し目を丸くした。
「姉さん、なんか変わった?」
「そう?」
「うん。髪とか」
今日は髪を低い位置でゆるくまとめている。
頬の横には、少しだけ後れ毛。
「それに、そのショール」
レナードが言う。
「姉さんがそういう色を着るの、珍しいね」
「そうかしら」
「前はもっと地味な色ばっかりだったよ」
「これ、好きなの」
「へえ」
レナードが笑った。
「いいね。似合ってるよ」
「ありがとう」
妻も微笑む。
「本当に。とても素敵です」
「ありがとう」
ルイザはショールの端にそっと触れた。
褒めてもらえるのは、やっぱり少し嬉しい。
三人は居間へ移った。
マーサが紅茶と焼き菓子を用意してくれた。
レナードは屋敷を興味深そうに見回している。
「思ってたより落ち着く家だね」
「でしょう?」
「姉さんが一年もここにいるって聞いた時は、どうなるかと思ったけど」
「そんなに?」
「だって姉さん、じっとしてるの苦手だったじゃないか」
「……そうね」
ルイザは笑う。
「最初は大変だったわ」
「今は?」
「少し慣れた」
そこへ、ルルがやってくる。
「うわ」
レナードが笑った。
「猫もいるんだね」
「ルルよ」
「すごい毛だな」
「ふわふわでしょう」
ルルはまっすぐレナードの妻の方へ行き、その足元へ身体を擦りつけた。
「まあ。可愛い」
「ルルは人懐っこいの」
レナードが部屋の中を見回す。
「この子だけ?」
「もう一匹いるの。ノアっていう黒猫よ」
ルイザが周囲を見る。
黒猫は窓辺にいた。
「いた」
レナードが手を伸ばそうとする。
ノアは一瞬で窓枠の上へ逃げた。
「あ」
「ノアは慎重なの」
「姉さんには懐いてるの?」
「少しずつね」
「じゃあ、まだ仲良くなってる途中なんだ」
「そうね」
ルイザはノアを見る。
「急がなくていいもの」
ノアの金色の瞳が、ちらりとこちらを向いた。
しばらく穏やかな時間が続いた。
レナードは領地の話をした。
叔父との話し合いも、その後はうまく進んでいるらしい。
「姉さんがいなかったから、自分でやるしかなかったけど」
レナードが言う。
「結果的にはよかったと思う」
「そう」
「叔父上とも前より話すようになったし」
「それはよかったわ」
本当にそう思った。
レナードの妻が、少し申し訳なさそうにルイザを見る。
「私も、お姉様に頼りすぎていたと思います」
「やめて」
ルイザは慌てて首を振った。
「そんなことを言ってほしいわけではないの」
「でも」
「困った時は相談して。できることならするわ」
そこまで言って、一度止まる。
「……できることなら、ね」
レナードは特に気にした様子もなく頷いた。
「うん」
それでよかった。
だから、そのあとの一言も。
最初は、ただの世間話の続きだった。
「でもさ」
レナードが焼き菓子を一つ取りながら言った。
「正直、最近ちょっと大変なんだよな」
「何が?」
「領地の仕事。叔父上とは何とかなったけど、今度は使用人の入れ替えもあって」
「そうなの?」
「うん。あと母さんが亡くなったあとの細かいことも、まだ全部終わってなくて」
ルイザは黙って聞く。
「妻も子どものことで忙しいし」
「ええ」
「姉さんが帰ってきてくれれば、やっぱり助かるんだけどな」
その瞬間。
胸の中で、何かがぴたりと止まった。
レナードは悪気なく続ける。
「いや、一年の約束があるのは分かってるよ。でもさ、前みたいに姉さんがいてくれたら、正直かなり楽だなって」
前みたいに。
ルイザの指が、カップの持ち手を少し強く握る。
「……そう」
「姉さんなら、誰に何を頼めばいいか全部分かってるし。母さんのことも姉さんが一番詳しかったし、家のことも――」
「あなた」
妻が、小さくレナードの袖を引いた。
「何?」
レナードはまだ気づいていない。
「お姉様は今、お休みになっているのよ」
「分かってるよ」
「なら」
「いや、別に今すぐ帰ってこいって言ってるわけじゃないって」
レナードがルイザを見る。
「ただ、本音を言えば助かるってだけで」
助かる。
その言葉を、何度聞いただろう。
『ルイザがいてくれて助かるわ』
『お姉様なら分かってくれる』
『姉さんに任せれば安心だ』
『あなたが一番しっかりしているから』
古い声が、一つ、また一つと蘇る。
「……姉さん?」
レナードの声。
ルイザは笑おうとした。
いつものように。
そうね、と。
レナードにも事情がある。
忙しい。
伯爵家を継いで、領地を守っている。
妻もいる。
子どももいる。
大変なのだ。
分かっている。
なのに。
「……嫌だわ」
声が出た。
自分で驚いた。
レナードも目を丸くする。
「え?」
ルイザは胸の前で手を握った。
「ごめんなさい」
すぐに言葉が出た。
けれど。
違う。
「いいえ」
ルイザは首を振った。
「今の言葉、嫌だったの」
レナードの顔が変わった。
「……僕、何か」
「あなたが悪い人だと言っているわけではないの」
反射的に、そう言ってしまう。
それでも。
言ったことを取り消したくはなかった。
「ただ……『私が帰れば助かる』って」
胸が熱い。
「それを聞いたら、嫌だったの」
今度は、ちゃんと言えた。
「姉さん」
「あなたに悪気がないことは分かってるわ」
「そんなつもりじゃ」
「ええ。分かってる」
分かっている。
だからこそ、ずっと何も言わなかった。
弟が困る。
母が困る。
妹が困る。
なら、自分がすればいい。
そうしてきた。
「……少し、外へ出てくるわ」
ルイザは立ち上がった。
「姉さん」
「大丈夫」
いつもの言葉が、口から出る。
けれど、ルイザは立ち止まった。
「……いいえ」
少しだけ困ったように笑う。
「今は、大丈夫じゃないみたい」
そして居間を出た。
庭の奥まで、ただ歩いた。
行き先は決めていない。
風が冷たい。
肩に掛けた青紫のショールを、ぎゅっと握る。
「……何なの」
誰に向けた言葉か分からなかった。
レナードに?
自分に?
家族に?
「分かってるのに」
弟は悪くない。
困っているだけ。
助けてほしいと言っただけ。
昔から、そうだった。
「分かってるのに……」
なのに、腹が立つ。
家族なのに。
好きなのに。
レナードは昔から可愛かった。
妹も。
母も。
大切だった。
その人たちに怒っている自分が、ひどく嫌なものに思えた。
「……私、嫌な人になったのかしら」
返事はない。
木々の葉が風に揺れる。
そこへ、黒い影が近づいてきた。
「ノア」
黒猫だった。
ルイザの少し前で止まる。
「追いかけてきたの?」
ノアは答えない。
ただ、ゆっくりと歩き始める。
振り返る。
「……ついてこいってこと?」
また歩く。
ルイザも、そのあとを追った。
たどり着いたのは、庭の奥にある小さな東屋だった。
夏には何度かここでお茶を飲んだ。
今は落ち葉が風に流れている。
ベンチに、一枚の封筒が置かれていた。
「……また」
ルイザは少し苦笑する。
「本当に、いつ用意したのかしら」
ノアはベンチの下へ座った。
ルイザも腰を下ろし、封筒を開く。
ヴィオラの字。
『疲れていたと言っていいのですよ。』
ルイザの指が止まった。
『家族を愛していたことと、
家族のために疲れなかったことは別です。』
「…………」
喉の奥が痛くなる。
『誰かを大切に思っていても、
その人に腹を立てることはあります。
事情が分かっても、
嫌だったことまで好きになる必要はありません。』
ルイザは紙を持つ手に力を入れた。
『あなたは昔から、
相手の事情を理解するのが上手でしたね。
でも。
理解したあとで、
いつも自分の気持ちを置き去りにしてしまう。
それを少しだけ心配していました。』
文字がぼやける。
「……ヴィオラ様」
一滴。
紙の上へ涙が落ちた。
「あ」
慌てて指で拭う。
「ごめんなさい」
手紙にまで謝っている。
そのことが少し可笑しいのに、笑えなかった。
続きを読む。
『そんなに物分かりのよい人間でなくてもいいのですよ。』
以前にも読んだ言葉。
あの時は、よく分からなかった。
けれど今日は。
胸の奥に引っかかっていたものが、少しずつ形になっていく。
「……私」
声が震える。
「嫌だったことも、あったのね」
涙が溢れた。
「お母様のことは……大切だった」
何度も夜中に起きた。
薬を用意した。
具合を見た。
医師を呼んだ。
眠れない夜には、そばに座った。
「でも、眠かった」
涙が落ちる。
「早く眠ってくれたらって、思ったこともあった」
弟や妹が。
『お姉様なら』
『姉さんなら』
と言うたび、引き受けた。
「断りたかった時も……あったのね」
声が少しだけ強くなる。
「私がやらなくてもいいでしょうって」
涙を拭う。
「どうして、いつも私なのって」
口にした途端、胸が痛んだ。
それでも、言葉は消えなかった。
「嫌いだったわけじゃないの」
ルイザは泣きながら言う。
「大切だったの」
大切だった。
だから言えなかった。
眠いとも。
つらいとも。
今日はしたくないとも。
ルイザはヴィオラの手紙を見る。
『疲れていたと言っていいのですよ。』
目を閉じる。
風が頬を撫でた。
「……私、疲れていたのね」
ようやく言えた。
そのまま、しばらく泣いた。
どのくらい、そうしていただろう。
ルイザは手紙を膝の上に置いたまま、ぼんやり前を見ていた。
涙は少しずつ収まってきた。
風が吹く。
頬が冷たい。
「……ひどい顔ね」
指先で目元を押さえる。
その時。
足元で、かすかな音がした。
「ノア?」
黒猫が、ベンチのすぐそばまで来ていた。
いつもなら、そこで止まる。
ルイザは手を伸ばさなかった。
「今日は」
小さく言う。
「少しだけ、そばにいてくれる?」
ノアは金色の瞳でルイザを見た。
そして。
ぴょん。
「……え?」
軽い衝撃。
ノアが、ルイザの膝へ乗った。
「ノア?」
初めてだった。
黒い身体がゆっくり向きを変え、そのまま膝の上で丸くなる。
「まあ……」
ルイザは驚いて動けなかった。
触っていいのか。
少し迷ってから、そっと背へ手を置く。
逃げない。
艶のある黒い毛。
温かい身体。
小さな呼吸。
そして。
ごろ。
ほんの小さく、喉が鳴った。
「……あなたも、こんな声を出すのね」
涙の跡が残ったまま、ルイザは笑った。
ノアは目を閉じる。
ルイザはゆっくり、その背を撫でた。
「ありがとう」
今度は、何のお礼なのか分かっていた。
ただ、そばにいてくれることが嬉しかった。
屋敷へ戻ったのは、夕方近くだった。
居間の前で、ルイザは一度立ち止まる。
レナードたちはまだいるだろうか。
帰ってしまったかもしれない。
怒っているかもしれない。
気まずい。
怖い。
それでも、扉を開けた。
二人はまだいた。
「姉さん」
レナードが立ち上がる。
少し強張った顔。
「ごめん」
先に言ったのはレナードだった。
「僕、何も考えてなかった」
ルイザは黙って聞く。
「姉さんなら何でもできるし、昔からやってくれたから」
レナードは困ったように頭を掻いた。
「それが普通になってた」
「……ええ」
「帰ってきてくれたら助かるって、それを姉さんがどう感じるかなんて考えてなかった」
胸が少し痛む。
「私も」
ルイザは言う。
「嫌だと言わなかったもの」
「でも」
「だからって、全部私のせいという意味ではないわ」
レナードが黙る。
ルイザも少しだけ息を吸った。
「あなたたちのことが嫌いになったわけではないの」
「うん」
「困っていたら、今でも心配するわ」
「うん」
それから。
「でも、私も疲れるの」
レナードの目が揺れた。
「今まで……疲れていたのだと思う」
「……姉さん」
「私が勝手にやっていたこともあるわ。でも、頼られるのが嬉しかったのも本当だし、断るのが怖かったのも本当」
ルイザは少し困ったように笑った。
「私にも、よく分かっていなかったの」
レナードはしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ昔の少年のような顔をする。
「じゃあ、これからはちゃんと聞くよ」
「聞く?」
「姉さんがやりたいかどうか」
ルイザは思わず笑った。
「そうね」
「嫌なら嫌って言って」
「……努力するわ」
「そこは『言う』じゃないんだ」
「まだ練習中なの」
レナードも笑った。
妻が、ほっとしたように息を吐く。
ルイザも紅茶へ手を伸ばした。
すっかり冷めていた。
それでも一口飲んだ。
夜。
レナードたちを見送ったあと。
ルイザは暖かなミルクティーを持って、自室の窓辺に座っていた。
ヴィオラの手紙は机の上。
『疲れていたと言っていいのですよ。』
その文字をもう一度見る。
「……言ったわ」
ルイザは小さく笑った。
「今日、ちゃんと言ったのよ」
床ではルルが伸びている。
ノアは少し離れた椅子の上。
「ねえ、ノア」
呼ぶ。
金色の瞳が開く。
「今日はありがとう」
ノアは何も言わない。
ただ、ゆっくり目を閉じた。
ルイザはミルクティーを一口飲む。
温かい。
窓の外には、秋の月。
庭の木々を淡く照らしている。
今日は怒った。
泣いた。
嫌だと言った。
それでも。
レナードは笑って帰っていった。
ルイザはカップを両手で包む。
「……よかった」
小さく呟いた。
それからもう一度、温かなミルクティーを飲んだ。




