第六話
夏の盛りを過ぎる頃。
朝晩の風に、ほんの少しだけ秋の気配が混じり始めた。庭の木々はまだ濃い緑を保っているけれど、日差しは少し柔らかくなっている。
ルイザは窓辺に立ち、庭を眺めていた。
今日の空は高い。
「……秋が近いのね」
振り返ると、寝台の上でルルが伸びきっていた。
白っぽい腹を上にして、まるで自分の寝台のような顔をしている。
「あなた、最近ますます遠慮がなくなったわね」
ルルは動かない。
「そこ、私の寝台なのよ」
尻尾の先だけが揺れた。
「聞いていないでしょう」
ルイザは笑った。
少し前なら、猫の毛がついた上掛けを見れば、すぐに整えようとしたかもしれない。
今は、そのままにしておく。
そんなことにも、いつの間にか慣れていた。
その時、扉が叩かれた。
「ルイザ様」
「どうぞ」
マーサが顔を出す。
「アルジャノン様がお見えです」
「あら」
自然と顔が上がった。
「庭に?」
「いいえ。本日は玄関で待っておられます」
「玄関?」
「町へ行かれるそうで」
マーサの口元が、少しだけ上がる。
「ルイザ様もお誘いするおつもりのようです」
「私を?」
「はい」
「何のために?」
「それは、アルジャノン様に直接お尋ねくださいませ」
ルイザはマーサを見る。
「最近、少し楽しんでいない?」
「何をでしょう」
「……もういいわ」
しれっとしている。
やはり、この屋敷の人間は長年ヴィオラと暮らしすぎたのだ。
玄関へ行くと、アルジャノンは扉の脇に立っていた。
今日は旅装ではない。
深緑色の上着に白いシャツ、濃い灰色のベスト。いつも肩に下げている大きな革鞄もない。
黒に近い灰褐色の髪も、普段より少し整っていた。
「こんにちは、ルイザ嬢」
「こんにちは、アルジャノン様」
答えてから、ルイザはなぜかもう一度彼を見る。
「どうした?」
「え?」
「何かついているか?」
「いいえ。ただ……今日はいつもより、きちんとしていらっしゃるなと思って」
「普段は?」
「そういう意味ではありません」
「そうか」
アルジャノンの目元が、少し笑った。
その顔を見て、ルイザはふと思う。
この人は、笑うとずいぶん柔らかい顔になる。
前にも見ているはずなのに。
なぜか今日は、少しだけ目に残った。
「町へ行く」
「マーサから聞きました」
「ルイザ嬢もどうだ?」
「私、ですか?」
「ああ」
「何か用事があるのですか?」
「私はある」
「私は特にありませんが……」
「なくてもいいだろう」
「…………」
ルイザは一瞬、答えられなかった。
用事がないのに、町へ行く。
思っていた以上に馴染みのない発想だった。
「買わなければならないものもありませんし」
「買わなくてもいい」
「では、何をするの?」
「歩く。気になる店があれば入る」
「何もなければ?」
「帰る」
アルジャノンは平然としている。
ルイザは少し笑った。
「ずいぶん自由なのね」
「散歩みたいなものだ」
「町まで行って?」
「そういう散歩もある」
なるほど。
そういうものなのかもしれない。
今日は予定がない。
誰かに呼ばれているわけでもない。
「……せっかくなので、行ってみます」
「そうか」
アルジャノンが少し笑う。
「なら、ここで待っている」
「ええ。少し支度をしてきますね」
ルイザはそう言って、自室へ戻った。
◇
町までは馬車で三十分ほどだった。
ヴィオラの屋敷から一番近い、小さな地方都市。
王都ほど華やかではないが、通りには菓子店や書店、布地屋、雑貨店が並び、市場も開かれていた。
馬車を降りると、ルイザは周囲を見回した。
「久しぶりだわ」
「町へ来るのが?」
「用事もなく町へ来るのが」
買い物なら何度もした。
けれど、必要なものを買ったら帰る。
いつもそれだけだった。
「こうして何も決めずに歩くのは……いつ以来かしら」
思い出せない。
もしかすると、少女の頃以来かもしれない。
少し先で道が二つに分かれている。
アルジャノンが立ち止まった。
「右と左。どちらへ行く?」
「私が決めるのですか?」
「ああ」
ルイザは左右を見る。
右には市場。
左には小さな店が並ぶ通り。
「では、左で」
今度は、以前ほど迷わなかった。
「承知した」
アルジャノンは理由を聞かなかった。
二人でゆっくり歩く。
花屋。
書店。
焼き菓子の店。
古道具屋。
見たことのない香辛料を売る店。
何を買うでもなく、一つ一つ眺める。
やがて、ある店の前でルイザの足が止まった。
「……きれい」
店先に、色とりどりのショールが並んでいた。
秋物だろう。
柔らかな薄手の毛織物。
深い赤。森の緑。蜂蜜色。紺。薄い灰色。紫。青。
「気になるなら、見てみるか?」
アルジャノンが尋ねる。
「でも」
反射的に言いかけて、ルイザは口を閉じた。
必要ない。
ショールなら持っている。
新しいものを買う理由はない。
そう言おうとした。
「……見てみます」
「ああ」
ルイザは店へ入った。
店内には、外から見るよりずっとたくさんの色があった。
「いらっしゃいませ」
年配の女性店主が笑顔で迎える。
「秋物が入ったところですよ」
「少し見せていただいても?」
「もちろんです」
ルイザは棚を見て回った。
手触りを確かめる。
どれも柔らかい。
「この辺りは今年人気のお色です」
店主が何枚か広げる。
上品な灰色。
落ち着いた茶色。
暗めの緑。
ルイザは無意識に、その中から灰色を手に取った。
「こちらなら、何にでも合わせやすいですね」
「ええ。長くお使いいただけますよ」
実用的。
派手すぎない。
どんな服にも合わせられる。
「これにしようかしら」
言いかけた、その時。
少し離れた棚の端に、別の色が見えた。
青。
でも、ただの青ではない。
青に少し紫を混ぜたような、夕暮れ前の空のような色。
淡く、少しくすんでいる。
ルイザの視線が止まった。
「……あれは?」
「ああ、こちらですか?」
店主が一枚取り出す。
「少し珍しい色でしょう。青紫なのですが、光によって青にも藤色にも見えます」
ルイザの前に広げられる。
きれい。
最初に浮かんだのは、それだった。
「お掛けしてみますか?」
「ええ」
店主が肩へ掛けてくれる。
鏡を見る。
深みのある栗色の髪。
灰青色の瞳。
そこに、柔らかな青紫。
思っていたより、ずっとよく馴染んだ。
「……でも、私には少し華やかかしら?」
店主が首を傾げる。
「そうでしょうか。とても落ち着いたお色ですよ」
「私、三十八ですし」
思わず言う。
店主が目を丸くした。
「年齢で、青紫を選んではいけないなんて決まりはありませんよね」
「……ええ」
「でしたら、お好きな方を選ばれては?」
あまりにあっさり言われて、ルイザは黙った。
横から、小さな笑い声がする。
アルジャノンだ。
「今、笑ったでしょう」
「少しな」
「どうして?」
「ヴィオラなら、同じことを言いそうだと思って」
「……確かに」
ルイザも笑った。
もう一度鏡を見る。
灰色。
青紫。
どちらが好き?
「…………」
答えは、思っていたより早く浮かんだ。
「では」
青紫のショールへ触れる。
「こちらの方をお願いします」
「ありがとうございます」
店主が笑う。
ルイザも少し笑った。
レモンケーキの時より、ずっと早く選べた。
「お包みしますか?」
「いいえ」
ルイザは少しだけ考えた。
「このまま羽織っていきます」
「かしこまりました」
店を出る。
秋の気配を含んだ風が吹き、ショールの端がふわりと揺れた。
「……なんだか、少し恥ずかしいわ」
「なぜ?」
「普段、こういう色をあまり選ばないから」
アルジャノンが隣でルイザを見る。
一瞬だけ。
いつもより長く、その視線が留まったような気がした。
「よく似合っている」
ごく自然に言われた。
「……ありがとう」
「ああ」
アルジャノンはもう前を向いている。
ルイザは肩のショールを、そっと指で撫でた。
風は少し涼しい。
それなのに、頬だけがほんの少し温かかった。
そのあと、二人は市場へ寄った。
アルジャノンは乾燥させた薬草をいくつか買った。
ルイザは、小さな瓶に入った蜂蜜の前で足を止める。
「ルイザ嬢、それは?」
「花の蜂蜜ですって」
「好きなのか?」
「食べたことがないので、分かりません」
ルイザは笑った。
「でも、食べてみたいと思ったの」
「そうか」
ルイザは花の蜂蜜を一瓶買った。
二人で市場を歩いていると、今度は香ばしい匂いが漂ってきた。
「いい匂い」
見ると、少し先に焼き菓子の屋台が出ていた。
「食べるか?」
アルジャノンが聞く。
「さっきお昼をいただいたばかりです」
「では、やめておくか?」
「…………」
ルイザは屋台を見る。
小さな丸い焼き菓子。
焼きたてで、表面には細かな砂糖がかかっている。
「半分なら」
「それなら、一つ買って分けよう」
アルジャノンが買い、紙に包まれた菓子を二つに割る。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取る。
まだ温かい。
一口食べると、中には林檎と香辛料が入っていた。
「ん。おいしい」
思わず笑う。
アルジャノンが、少しだけ黙った。
「……どうしました?」
「いや」
「何か?」
「笑顔が増えたな」
「え?」
思いがけない言葉だった。
アルジャノンは手にした焼き菓子を見る。
「最初に会った頃より」
「そうかしら」
「ああ」
それだけ。
ルイザは少し戸惑ってから、自分の頬へ触れた。
「自分では、分からないわ」
「そういうものだろう」
アルジャノンは焼き菓子を一口食べる。
ルイザも、もう一口。
林檎の甘酸っぱさと香辛料の香りが広がる。
「でも」
ルイザは小さく笑った。
「今、とても楽しいです」
「それならよかった」
二人で半分ずつ焼き菓子を食べながら、通りを歩いた。
帰りの馬車。
ルイザは窓の外を見ていた。
肩には、買ったばかりの青紫のショール。
膝には、小さな蜂蜜の瓶。
「今日は、いろいろ買ってしまいました」
「ショールと蜂蜜だけだろう」
「私にしては多いのです」
「そうなのか?」
「必要のないものを買ったので」
アルジャノンがルイザを見る。
「後悔している?」
「…………」
ルイザはショールへ触れた。
柔らかい。
色も、やっぱり好きだ。
「……いいえ」
「なら、いいんじゃないかな」
「そうね」
窓の外へ目を向ける。
午後の光の中を、畑と木々が流れていく。
少しして、ルイザはショールを指先でつまんだ。
「アルジャノン様」
「何だ?」
「私、こういう色が好きだったみたいです」
「そうか」
「青紫色。今まで、気づかなかったわ」
アルジャノンが少し笑った。
「今、分かったならそれでいいだろう」
「ええ」
ルイザも笑った。
その時、アルジャノンがふっと窓の外へ視線を移した。
ルイザは少しだけ首を傾げる。
「どうかしました?」
「いや」
それだけ言って、アルジャノンは窓の外を見たままだった。
ルイザもそれ以上は聞かなかった。
ただ、ほんの少し前まで、彼の視線が自分に向いていたような気がした。
屋敷へ戻ると、ルルが玄関まで迎えに来た。
「ただいま」
ルルは足元を一周する。
そして、新しいショールの端へすぐに鼻を近づけた。
「駄目よ」
ルイザは慌てて持ち上げる。
「これは今日買ったばかりなの」
「にゃあ」
「爪を立てたら駄目」
「にゃあ」
「あなたの寝床ではありません」
ルルは不満そうな顔をした。
「そんな顔をしても駄目です」
横でアルジャノンが笑う。
「アルジャノン様も笑わないでください」
「無理だな」
「まあ」
「ルルの顔を見てみろ」
「見ています」
ルイザもとうとう笑ってしまう。
その時。
階段の上からノアが現れた。
ゆっくりと降りてくる。
「ノア」
最近では、呼んでも逃げない。
ノアはルイザの足元まで来て、青紫のショールを見上げた。
「どう?」
何となく聞いてしまう。
「似合う?」
ノアはしばらくショールを見る。
次に、ルイザを見る。
そして。
すっと身体を寄せ、ショールの裾へ黒い頬を一度だけ擦りつけた。
「あら」
ルイザは笑った。
「気に入ったの?」
ノアは知らん顔をして、そのまま通り過ぎた。
「……あれは合格かしら」
「たぶんな」
「では安心ね」
「私が似合うと言った時より嬉しそうだな」
ルイザはアルジャノンを見る。
「そこ、気になるところですか?」
「少しな」
さらりと言って、アルジャノンはノアへ視線を移した。
ルイザは一瞬言葉に詰まる。
それから。
「アルジャノン様にも感謝しています」
「それならいい」
その目元が少し柔らかくなる。
ルイザはまた笑った。
今度は、アルジャノンが何も言わなかった。
ただ一瞬だけ。
その顔を見ていた。
その夜。
ルイザは自室で、新しいショールを椅子の背へ掛けた。
青とも、紫とも言い切れない色。
窓から入る月明かりの下では、昼より少し静かな色に見える。
「きれい」
もう一度、口にした。
誰かに勧められたからではない。
何にでも合わせやすいからでもない。
自分がきれいだと思って、選んだもの。
それから、似合っていると言ってもらった。
ルイザはショールの端に触れる。
ふと、町でのアルジャノンの言葉を思い出した。
『笑顔が増えたな』
「……そうなのかしら」
鏡を見る。
いつもの自分。
深みのある栗色の髪。
灰青色の瞳。
三十八年間、ずっと見てきた顔。
ルイザは試しに少し笑ってみた。
「…………」
すぐに恥ずかしくなった。
「何をしているの、私」
今度は本当に笑ってしまう。
その時。
寝台の方から。
かさ。
と音がした。
「ルル?」
見る。
違う。
ノアだった。
「あなた、いつの間に」
黒猫が寝台の端に座っている。
その前に、小さな紙片があった。
「……また?」
ルイザは近づく。
ヴィオラの字。
手に取る。
『好きなものを選ぶのに、
立派な理由などいりません。』
ルイザはしばらく、その文字を見ていた。
それから、椅子に掛けた青紫のショールへ目を向ける。
「そうね」
静かに言う。
「好きだから、でいいのよね」
ノアの尻尾が一度だけ揺れた。
「あなたもそう思う?」
返事はない。
ルイザは笑った。
そして、青紫のショールを、翌朝すぐに手に取れる場所へ掛け直した。
明日も使おう。
そんなふうに思えた。




