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一年間、何もしなくていいと言われました  作者: 黒猫と珈琲


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6/7

第六話

 夏の盛りを過ぎる頃。


 朝晩の風に、ほんの少しだけ秋の気配が混じり始めた。庭の木々はまだ濃い緑を保っているけれど、日差しは少し柔らかくなっている。


 ルイザは窓辺に立ち、庭を眺めていた。


 今日の空は高い。


「……秋が近いのね」


 振り返ると、寝台の上でルルが伸びきっていた。


 白っぽい腹を上にして、まるで自分の寝台のような顔をしている。


「あなた、最近ますます遠慮がなくなったわね」


 ルルは動かない。


「そこ、私の寝台なのよ」


 尻尾の先だけが揺れた。


「聞いていないでしょう」


 ルイザは笑った。


 少し前なら、猫の毛がついた上掛けを見れば、すぐに整えようとしたかもしれない。


 今は、そのままにしておく。


 そんなことにも、いつの間にか慣れていた。


 その時、扉が叩かれた。


「ルイザ様」

「どうぞ」


 マーサが顔を出す。


「アルジャノン様がお見えです」

「あら」


 自然と顔が上がった。


「庭に?」

「いいえ。本日は玄関で待っておられます」

「玄関?」

「町へ行かれるそうで」


 マーサの口元が、少しだけ上がる。


「ルイザ様もお誘いするおつもりのようです」

「私を?」

「はい」

「何のために?」

「それは、アルジャノン様に直接お尋ねくださいませ」


 ルイザはマーサを見る。


「最近、少し楽しんでいない?」

「何をでしょう」

「……もういいわ」


 しれっとしている。


 やはり、この屋敷の人間は長年ヴィオラと暮らしすぎたのだ。


 


 玄関へ行くと、アルジャノンは扉の脇に立っていた。


 今日は旅装ではない。


 深緑色の上着に白いシャツ、濃い灰色のベスト。いつも肩に下げている大きな革鞄もない。


 黒に近い灰褐色の髪も、普段より少し整っていた。


「こんにちは、ルイザ嬢」

「こんにちは、アルジャノン様」


 答えてから、ルイザはなぜかもう一度彼を見る。


「どうした?」

「え?」

「何かついているか?」

「いいえ。ただ……今日はいつもより、きちんとしていらっしゃるなと思って」

「普段は?」

「そういう意味ではありません」

「そうか」


 アルジャノンの目元が、少し笑った。


 その顔を見て、ルイザはふと思う。


 この人は、笑うとずいぶん柔らかい顔になる。


 前にも見ているはずなのに。


 なぜか今日は、少しだけ目に残った。


「町へ行く」

「マーサから聞きました」

「ルイザ嬢もどうだ?」

「私、ですか?」

「ああ」

「何か用事があるのですか?」

「私はある」

「私は特にありませんが……」

「なくてもいいだろう」

「…………」


 ルイザは一瞬、答えられなかった。


 用事がないのに、町へ行く。


 思っていた以上に馴染みのない発想だった。


「買わなければならないものもありませんし」

「買わなくてもいい」

「では、何をするの?」

「歩く。気になる店があれば入る」

「何もなければ?」

「帰る」


 アルジャノンは平然としている。


 ルイザは少し笑った。


「ずいぶん自由なのね」

「散歩みたいなものだ」

「町まで行って?」

「そういう散歩もある」


 なるほど。


 そういうものなのかもしれない。


 今日は予定がない。


 誰かに呼ばれているわけでもない。


「……せっかくなので、行ってみます」

「そうか」


 アルジャノンが少し笑う。


「なら、ここで待っている」

「ええ。少し支度をしてきますね」


 ルイザはそう言って、自室へ戻った。


 ◇


 町までは馬車で三十分ほどだった。


 ヴィオラの屋敷から一番近い、小さな地方都市。


 王都ほど華やかではないが、通りには菓子店や書店、布地屋、雑貨店が並び、市場も開かれていた。


 馬車を降りると、ルイザは周囲を見回した。


「久しぶりだわ」

「町へ来るのが?」

「用事もなく町へ来るのが」


 買い物なら何度もした。


 けれど、必要なものを買ったら帰る。


 いつもそれだけだった。


「こうして何も決めずに歩くのは……いつ以来かしら」


 思い出せない。


 もしかすると、少女の頃以来かもしれない。


 少し先で道が二つに分かれている。


 アルジャノンが立ち止まった。


「右と左。どちらへ行く?」

「私が決めるのですか?」

「ああ」


 ルイザは左右を見る。


 右には市場。


 左には小さな店が並ぶ通り。


「では、左で」


 今度は、以前ほど迷わなかった。


「承知した」


 アルジャノンは理由を聞かなかった。


 二人でゆっくり歩く。


 花屋。


 書店。


 焼き菓子の店。


 古道具屋。


 見たことのない香辛料を売る店。


 何を買うでもなく、一つ一つ眺める。


 やがて、ある店の前でルイザの足が止まった。


「……きれい」


 店先に、色とりどりのショールが並んでいた。


 秋物だろう。


 柔らかな薄手の毛織物。


 深い赤。森の緑。蜂蜜色。紺。薄い灰色。紫。青。


「気になるなら、見てみるか?」


 アルジャノンが尋ねる。


「でも」


 反射的に言いかけて、ルイザは口を閉じた。


 必要ない。


 ショールなら持っている。


 新しいものを買う理由はない。


 そう言おうとした。


「……見てみます」

「ああ」


 ルイザは店へ入った。


 


 店内には、外から見るよりずっとたくさんの色があった。


「いらっしゃいませ」


 年配の女性店主が笑顔で迎える。


「秋物が入ったところですよ」

「少し見せていただいても?」

「もちろんです」


 ルイザは棚を見て回った。


 手触りを確かめる。


 どれも柔らかい。


「この辺りは今年人気のお色です」


 店主が何枚か広げる。


 上品な灰色。


 落ち着いた茶色。


 暗めの緑。


 ルイザは無意識に、その中から灰色を手に取った。


「こちらなら、何にでも合わせやすいですね」

「ええ。長くお使いいただけますよ」


 実用的。


 派手すぎない。


 どんな服にも合わせられる。


「これにしようかしら」


 言いかけた、その時。


 少し離れた棚の端に、別の色が見えた。


 青。


 でも、ただの青ではない。


 青に少し紫を混ぜたような、夕暮れ前の空のような色。


 淡く、少しくすんでいる。


 ルイザの視線が止まった。


「……あれは?」


「ああ、こちらですか?」


 店主が一枚取り出す。


「少し珍しい色でしょう。青紫なのですが、光によって青にも藤色にも見えます」


 ルイザの前に広げられる。


 きれい。


 最初に浮かんだのは、それだった。


「お掛けしてみますか?」

「ええ」


 店主が肩へ掛けてくれる。


 鏡を見る。


 深みのある栗色の髪。


 灰青色の瞳。


 そこに、柔らかな青紫。


 思っていたより、ずっとよく馴染んだ。


「……でも、私には少し華やかかしら?」


 店主が首を傾げる。


「そうでしょうか。とても落ち着いたお色ですよ」

「私、三十八ですし」


 思わず言う。


 店主が目を丸くした。


「年齢で、青紫を選んではいけないなんて決まりはありませんよね」

「……ええ」

「でしたら、お好きな方を選ばれては?」


 あまりにあっさり言われて、ルイザは黙った。


 横から、小さな笑い声がする。


 アルジャノンだ。


「今、笑ったでしょう」

「少しな」

「どうして?」

「ヴィオラなら、同じことを言いそうだと思って」

「……確かに」

 ルイザも笑った。


 もう一度鏡を見る。


 灰色。


 青紫。


 どちらが好き?


「…………」


 答えは、思っていたより早く浮かんだ。


「では」


 青紫のショールへ触れる。


「こちらの方をお願いします」

「ありがとうございます」


 店主が笑う。


 ルイザも少し笑った。


 レモンケーキの時より、ずっと早く選べた。


「お包みしますか?」

「いいえ」


 ルイザは少しだけ考えた。


「このまま羽織っていきます」

「かしこまりました」


 店を出る。


 秋の気配を含んだ風が吹き、ショールの端がふわりと揺れた。


「……なんだか、少し恥ずかしいわ」

「なぜ?」

「普段、こういう色をあまり選ばないから」


 アルジャノンが隣でルイザを見る。


 一瞬だけ。


 いつもより長く、その視線が留まったような気がした。


「よく似合っている」


 ごく自然に言われた。


「……ありがとう」

「ああ」


 アルジャノンはもう前を向いている。


 ルイザは肩のショールを、そっと指で撫でた。


 風は少し涼しい。


 それなのに、頬だけがほんの少し温かかった。


 


 そのあと、二人は市場へ寄った。


 アルジャノンは乾燥させた薬草をいくつか買った。


 ルイザは、小さな瓶に入った蜂蜜の前で足を止める。


「ルイザ嬢、それは?」

「花の蜂蜜ですって」

「好きなのか?」

「食べたことがないので、分かりません」


 ルイザは笑った。


「でも、食べてみたいと思ったの」

「そうか」


 ルイザは花の蜂蜜を一瓶買った。


 二人で市場を歩いていると、今度は香ばしい匂いが漂ってきた。


「いい匂い」


 見ると、少し先に焼き菓子の屋台が出ていた。


「食べるか?」


 アルジャノンが聞く。


「さっきお昼をいただいたばかりです」

「では、やめておくか?」

「…………」


 ルイザは屋台を見る。


 小さな丸い焼き菓子。


 焼きたてで、表面には細かな砂糖がかかっている。


「半分なら」

「それなら、一つ買って分けよう」


 アルジャノンが買い、紙に包まれた菓子を二つに割る。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 受け取る。


 まだ温かい。


 一口食べると、中には林檎と香辛料が入っていた。


「ん。おいしい」


 思わず笑う。


 アルジャノンが、少しだけ黙った。


「……どうしました?」

「いや」

「何か?」

「笑顔が増えたな」

「え?」


 思いがけない言葉だった。


 アルジャノンは手にした焼き菓子を見る。


「最初に会った頃より」

「そうかしら」

「ああ」


 それだけ。


 ルイザは少し戸惑ってから、自分の頬へ触れた。


「自分では、分からないわ」

「そういうものだろう」


 アルジャノンは焼き菓子を一口食べる。


 ルイザも、もう一口。


 林檎の甘酸っぱさと香辛料の香りが広がる。


「でも」


 ルイザは小さく笑った。


「今、とても楽しいです」

「それならよかった」


 二人で半分ずつ焼き菓子を食べながら、通りを歩いた。


 


 帰りの馬車。


 ルイザは窓の外を見ていた。


 肩には、買ったばかりの青紫のショール。


 膝には、小さな蜂蜜の瓶。


「今日は、いろいろ買ってしまいました」

「ショールと蜂蜜だけだろう」

「私にしては多いのです」

「そうなのか?」

「必要のないものを買ったので」


 アルジャノンがルイザを見る。


「後悔している?」

「…………」


 ルイザはショールへ触れた。


 柔らかい。


 色も、やっぱり好きだ。


「……いいえ」

「なら、いいんじゃないかな」

「そうね」


 窓の外へ目を向ける。


 午後の光の中を、畑と木々が流れていく。


 少しして、ルイザはショールを指先でつまんだ。


「アルジャノン様」

「何だ?」

「私、こういう色が好きだったみたいです」

「そうか」

「青紫色。今まで、気づかなかったわ」


 アルジャノンが少し笑った。


「今、分かったならそれでいいだろう」

「ええ」


 ルイザも笑った。


 その時、アルジャノンがふっと窓の外へ視線を移した。


 ルイザは少しだけ首を傾げる。


「どうかしました?」

「いや」


 それだけ言って、アルジャノンは窓の外を見たままだった。


 ルイザもそれ以上は聞かなかった。


 ただ、ほんの少し前まで、彼の視線が自分に向いていたような気がした。


 


 屋敷へ戻ると、ルルが玄関まで迎えに来た。


「ただいま」


 ルルは足元を一周する。


 そして、新しいショールの端へすぐに鼻を近づけた。


「駄目よ」


 ルイザは慌てて持ち上げる。


「これは今日買ったばかりなの」

「にゃあ」

「爪を立てたら駄目」

「にゃあ」

「あなたの寝床ではありません」


 ルルは不満そうな顔をした。


「そんな顔をしても駄目です」


 横でアルジャノンが笑う。


「アルジャノン様も笑わないでください」

「無理だな」

「まあ」

「ルルの顔を見てみろ」

「見ています」


 ルイザもとうとう笑ってしまう。


 その時。


 階段の上からノアが現れた。


 ゆっくりと降りてくる。


「ノア」


 最近では、呼んでも逃げない。


 ノアはルイザの足元まで来て、青紫のショールを見上げた。


「どう?」


 何となく聞いてしまう。


「似合う?」


 ノアはしばらくショールを見る。


 次に、ルイザを見る。


 そして。


 すっと身体を寄せ、ショールの裾へ黒い頬を一度だけ擦りつけた。


「あら」


 ルイザは笑った。


「気に入ったの?」


 ノアは知らん顔をして、そのまま通り過ぎた。


「……あれは合格かしら」

「たぶんな」

「では安心ね」

「私が似合うと言った時より嬉しそうだな」


 ルイザはアルジャノンを見る。


「そこ、気になるところですか?」

「少しな」


 さらりと言って、アルジャノンはノアへ視線を移した。


 ルイザは一瞬言葉に詰まる。


 それから。


「アルジャノン様にも感謝しています」

「それならいい」


 その目元が少し柔らかくなる。


 ルイザはまた笑った。


 今度は、アルジャノンが何も言わなかった。


 ただ一瞬だけ。


 その顔を見ていた。


 


 その夜。


 ルイザは自室で、新しいショールを椅子の背へ掛けた。


 青とも、紫とも言い切れない色。


 窓から入る月明かりの下では、昼より少し静かな色に見える。


「きれい」


 もう一度、口にした。


 誰かに勧められたからではない。


 何にでも合わせやすいからでもない。


 自分がきれいだと思って、選んだもの。


 それから、似合っていると言ってもらった。


 ルイザはショールの端に触れる。


 ふと、町でのアルジャノンの言葉を思い出した。


『笑顔が増えたな』


「……そうなのかしら」


 鏡を見る。


 いつもの自分。


 深みのある栗色の髪。


 灰青色の瞳。


 三十八年間、ずっと見てきた顔。


 ルイザは試しに少し笑ってみた。


「…………」


 すぐに恥ずかしくなった。


「何をしているの、私」


 今度は本当に笑ってしまう。


 その時。


 寝台の方から。


 かさ。


 と音がした。


「ルル?」


 見る。


 違う。


 ノアだった。


「あなた、いつの間に」


 黒猫が寝台の端に座っている。


 その前に、小さな紙片があった。


「……また?」


 ルイザは近づく。


 ヴィオラの字。


 手に取る。


『好きなものを選ぶのに、


 立派な理由などいりません。』


 ルイザはしばらく、その文字を見ていた。


 それから、椅子に掛けた青紫のショールへ目を向ける。


「そうね」


 静かに言う。


「好きだから、でいいのよね」


 ノアの尻尾が一度だけ揺れた。


「あなたもそう思う?」


 返事はない。


 ルイザは笑った。


 そして、青紫のショールを、翌朝すぐに手に取れる場所へ掛け直した。


 明日も使おう。


 そんなふうに思えた。


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