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一年間、何もしなくていいと言われました  作者: 黒猫と珈琲


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第五話

 レナードから返事が届いたのは、それから五日後だった。


 ルイザは封筒を手にしたまま、しばらく開けられなかった。


 朝食を終えたばかりの食堂には、夏の光が差し込んでいる。足元ではルルが、何の悩みもなさそうに寝転がっていた。


「……五日もあったのだから、もう少し落ち着いてもよさそうなものなのに」


 自分に言い聞かせる。


 けれど、封を切ろうとすると指先が少しだけ強張った。


 怒っているかもしれない。


 困ったと書いてあるかもしれない。


 やはり姉さんに来てほしかった、と。


 そう書かれていたら、自分はどうするのだろう。


「ルイザ様?」


 向かいで食器を片づけていたマーサが声をかける。


「何でもないの」

「左様でございますか」


 マーサはそれ以上聞かなかった。


 ルイザは小さく息を吸って、封を開いた。


『姉さんへ。


 手紙をありがとう。


 叔父上の件だけれど、何とか僕たちで話をしました。』


 そこまで読んで、ルイザの目が止まる。


 続きを読む。


『最初はかなり揉めました。


 叔父上は父さんの頃と同じ方法でやるべきだと言うし、僕もつい意地になってしまって。


 でも、姉さんが書いてくれたように、一度ちゃんと話を聞いてみたら、叔父上が気にしていたのはやり方そのものではなくて、領地の古い職人たちが置いていかれることだったみたいです。


 そこは僕も考えていなかった。


 叔父上も、僕の案を全部否定したかったわけではなかったようです。


 結局、今年は一部だけ新しいやり方を試すことになりました。』


「……まあ」


 思わず声が漏れた。


『妻も部屋のことは自分で何とかすると言っていました。


 姉さんに聞いた通り、西向きの部屋は避けました。


 叔父上は朝のお茶が少し濃いと一度文句を言いましたが、それ以外は機嫌よく過ごしています。


 姉さんがいなくても、何とかなったよ。


 というより。


 たぶん、僕も今まで姉さんに頼りすぎていたんだと思う。』


 ルイザの指が止まった。


 胸の奥が、きゅ、と縮む。


 次の一文を読むのが、少し怖かった。


『ごめん。


 でも、姉さんにもう頼らない、という意味じゃないから。


 困ったら相談くらいはさせてほしい。


 ただ、最初から全部やってもらおうとするのはやめるよ。


 ゆっくり休んでください。』


 最後に。


『追伸。


 叔父上は姉さんが来ないと知って、


「ようやくあの子も人の世話を焼く以外のことを覚えたのか」


 と笑っていました。


 ちょっと腹が立ったけど、叔父上に言われると否定しづらかった。』


「……叔父様ったら」


 ルイザは手紙を下ろした。


 怒られていなかった。


 失望もされていなかった。


 ちゃんと、何とかなっていた。


 自分がいなくても。


「何とか、なるのね」


 口にした途端。


 胸が少しだけ痛んだ。


 安心した。


 それなのに、ほんの少し寂しい。


 ルイザはしばらく手紙を見つめた。


「……寂しいのね、私」


 小さく認めてみる。


 今度は、その気持ちを慌てて打ち消さなかった。


 もう一度、レナードの手紙を見る。


『困ったら相談くらいはさせてほしい。』


「そう」


 何もかも、自分がしなくてよくなっただけなのだ。


 それがまだ少し、心細い。


 足元で、ルルが寝返りを打った。


 お腹を上に向ける。


「……あなたは何の心配もなさそうね」


 ルルは目を閉じたまま、前足だけを伸ばした。


 ルイザは笑った。


 ◇


 季節は、すっかり夏になっていた。


 庭の緑は濃くなり、初夏には小さかった花々も、今では枝いっぱいに咲いている。


 なかでも庭の奥にある大きな木は、見事な葉を広げていた。午後になると、その下には深い木陰ができる。


「今日は暑くなりそうですね」


 朝食の席で、マーサが言った。


「ええ」

「午後は、あまり日向へ出られませんよう」

「分かりました」


 ルイザは窓の外を見る。


「木陰なら涼しいかしら」


 そう思った。


 昼食を済ませると、薄手の室内着に着替えた。


 髪も今日はきっちりまとめず、ゆるく一つに束ねて、薄い生成り色のリボンで結ぶ。


「……これでいいわ」


 鏡に向かって言う。


 庭へ出る時、本を一冊持った。


 読むかどうかは分からない。


 木陰には、長椅子が置かれていた。


 ヴィオラが使っていたものだろう。古いけれど、座面はきちんと手入れされている。


 腰を下ろすと、木の葉の隙間から細かな光が落ちてきた。


 風が通る。


 思っていたより、ずっと涼しい。


「気持ちいい」


 思わず口に出た。


 少し離れたところでは、ルルが草の上に寝そべっている。


 ノアは木の根元。


 黒い身体を日陰へきれいに収めていた。


「あなたたちは、一番涼しい場所をよく知っているのね」


 ルルは尻尾を振っただけ。


 ノアは薄く目を開け、すぐ閉じた。


 ルイザも本を開く。


 二頁。


 三頁。


 風が吹く。


 葉の擦れる音。


 遠くで鳴く鳥。


 どこかから、甘い花の香り。


 いつの間にか、文字が頭に入らなくなっていた。


「……眠い」


 ルイザは本を閉じた。


 昼間から眠る。


 少し前なら、きっと落ち着かなかっただろう。


 けれど今日は。


「少しくらい……」


 長椅子の背にもたれる。


 目を閉じる。


 風が、頬を撫でた。


 どのくらい眠ったのだろう。


 何かが頬に触れる感覚で、ルイザは目を覚ました。


「……ん」


 ぼんやり目を開ける。


 最初に見えたのは、白っぽい毛だった。


「……ルル?」


 ミルク色の猫が、ルイザのお腹のあたりで丸くなっていた。


「いつの間に……」


 起きようとする。


 けれど、足元にも重みがある。


 視線を落とす。


「ノアまで?」


 黒猫が、ルイザの足首の辺りに身体を寄せて眠っていた。


 思わず息を止める。


 ノアが、こんなに近くで眠っている。


 身体の一部が、ルイザのスカートに触れていた。


「……まあ」


 嬉しくなった。


 けれど。


 動けない。


「どうしましょう」

「諦めた方がいいな」


 声がした。


 ルイザは驚いて顔を上げる。


「アルジャノン様?」


 少し離れたところに、アルジャノンが立っていた。


 肩にはいつもの革の鞄。夏らしい薄手の上着。手には、小さな包みを持っている。


「いつからいらしたのです?」

「少し前から」

「起こしてくださればよかったのに」

「よく眠っていたからな」

「……見ていたの?」

「通りかかったら、猫二匹に占領されていた」

「助けてください」

「無理だな」

「どうして?」

「ノアがあの状態で眠っている時に動かすと、しばらく機嫌が悪い」

「なぜわかるの?」

「態度で分かる」


 あまりに真面目な顔で言うので、ルイザは笑ってしまった。


「では、私はこのまま?」

「しばらくは」

「困ったわ」

「そうは見えないな」

「……そう?」


 アルジャノンは少しだけ目を細めた。


 それ以上は言わず、木陰へ入って近くの椅子へ腰を下ろす。


 ノアは一度だけ耳を動かしたが、起きなかった。


「珍しいな。ノアが、人に触れて眠るのは」

「そうなのですか?」

「ああ」


 ルイザは足元を見る。


 ノアは安心しきったように眠っている。


「……少しは、気に入ってくれたのかしら」

「それも、かなりね」

「かなりですか?」


 ルイザは少し笑った。


「アルジャノン様より?」

「それは困るな」

「あら」

「長い付き合いだから」


 アルジャノンがノアを見る。


「まだ負けるつもりはない」


 ルイザは吹き出した。


「競っているのですか?」

「今、決めた」


 二人で少し笑った。


 木陰に、また静けさが戻る。


 夏の虫の音。


 葉の擦れる音。


 猫の呼吸。


 アルジャノンがいても、何か話さなければとは思わない。


 ルイザは目を細めた。


 この静けさは、嫌いではなかった。


「そういえば」


 アルジャノンが持っていた包みを持ち上げる。


「これを」

「中身は?」

「茶葉だ。今回は南の沿岸地方のものだ」


 包みを開く。


 乾燥した葉の中に、小さな青い花びらが混じっている。


「まあ、きれいな色」

「冷やして飲むとうまいらしい」

「冷たいお茶ですか?」

「ああ」

「飲んでみたいわ」


 ルイザは素直に言った。


「そうか」


 アルジャノンの口元が少し緩む。


「なら、持ってきてよかった」

「……私が好きそうだと思ったから、持ってきてくださったのですか?」

「ああ」

「どうして?」

「前の茶を気に入っていただろう」


 アルジャノンは包みの中の青い花を見る。


「色も、ルイザ嬢が好きそうだった」


 青。


 薄紫にも近い色。


 以前、選んだレモンケーキに添えられていた花。


 今、自分の部屋に飾っている花。


 それに似ている。


 自分でも、まだよく分かっていない好みを。


 彼は覚えていた。


「とても嬉しいです。ありがとうございます」

「ああ」


 それ以上、アルジャノンは何も言わなかった。


 ルイザも、何となく聞かなかった。


 けれど。


 胸の奥が、ほんの少し温かかった。


 冷たいお茶は、想像していたよりずっとおいしかった。


 マーサが氷を入れた硝子の器に茶を注いでくれた。この屋敷には地下に小さな氷室があるらしく、夏でも冷たい飲み物を楽しめるのだという。


「こちら、ヴィオラ様のお気に入りでございました」


 マーサが言う。


「夏になると、果実水もよく作っておられましたよ」

「ヴィオラ様らしいわ」


 ルイザとアルジャノンは、木陰で茶を飲んだ。


 ルルは長椅子の端。


 ノアは今度はアルジャノンの椅子の下へ移動している。


「この茶葉、少し甘い香りがしますね」

「青い花の香りらしい」


 アルジャノンは答えかけて、少し止まった。


「知りたいか?」


「え?」


「花の名前」


 ルイザは少し考えた。


「……今日は、いいです」


 自分でも、少し意外だった。


「名前を知らなくても、おいしいもの」


「そうか」


 アルジャノンはそれだけ言って、茶を飲んだ。


「でも、明日になったら気になるかもしれません」

「その時は教える」

「ええ、そのときはお願いしますね」

「ああ」


 また、静かな時間。


 ルイザは硝子のカップを両手で持つ。


 冷たい。


 気持ちいい。


 しばらくして、アルジャノンが口を開いた。


「弟さんから返事は?」


 ルイザは少しだけ驚いた。


 前回、あれだけ話したのに。


 今日ここへ来てから、一度も聞かなかった。


「来ました」

「そうか」

「何とかなったそうです」

「それならよかった」

「……私がいなくても、なんとかなるものなんですね」


 言葉にすると、また少しだけ胸が揺れる。


 アルジャノンは何も言わなかった。


 ただ、待っている。


「安心しました」


 ルイザは続ける。


「本当に。でも……少しだけ寂しかったです」


「そうか」


「変ですよね?」


 アルジャノンは少し考えた。


「私は、旅から帰ると少し寂しいことがある」

「旅がお好きなのに?」

「ああ」

「どうして?」

「終わったからだろうな」


 アルジャノンはカップを傾けた。


「どんなに好きでも、疲れるしな」


 それだけだった。


 ルイザは少し黙る。


 家族が好き。


 頼られるのも、きっと嫌いではなかった。


 けれど。


 それとは別に。


「……難しいですね」

「そうか?」

「アルジャノン様は簡単そうに言うのですね」

「複雑にした方がいいか?」

「いいえ」


 ルイザは少し笑った。


「そのままでいいです」


「ああ」


 その後は、もう家族の話をしなかった。


 旅先で見た、夜にだけ開く花。


 水の中で鈴のような音を立てる石。


 海辺の町では、夏になると家の窓を全部青い布で飾ること。


 アルジャノンの話はどれも少し不思議で、聞いているだけで楽しかった。


「世界には、いろいろな場所があるのね」

「ああ」


「いつか行ってみたいような、そうでもないような……」


 そこまで言って、ルイザは考える。


 昔、旅行へ行きたいと思ったことはあっただろうか。


 すぐには思い出せない。


「よく分かりません」


 正直に言う。


 アルジャノンは笑わなかった。


「なら、今はそれでいいんじゃないかな」

「ええ」


 ルイザも笑った。


 夕方。


 アルジャノンが帰ったあと、ルイザはもう一度、木陰の長椅子へ座った。


 日差しは少し柔らかくなっている。


 ルルがまた隣へ飛び乗ってきた。


「今日はよく寝たでしょう?」


 ルルは知らん顔。


 少しして、ノアもやってくる。


 前より自然に、ルイザの足元へ近づくようになった。


「今日はね」


 ルイザは二匹に話しかけた。


「朝、レナードから手紙が来たでしょう」


 ルルが毛繕いを始める。


「私がいなくても、何とかなったのだと分かって」


 少し間を置く。


「寂しかったわ」


 口にしても、朝ほど胸は痛まなかった。


 風が吹く。


 木の葉が揺れる。


 昼寝をした。


 冷たいお茶を飲んだ。


 アルジャノンの旅の話を聞いた。


 それだけだ。


「……今日は、何もしなかったわね」


 ルルの耳がぴくりと動く。


 ルイザは木々の向こうの空を見る。


「でも」


 少し考えて。


 小さく笑った。


「いい一日だったわ」


 その言葉は、驚くほど自然に出た。


 ルイザはしばらく、そのまま空を見ていた。


 すると。


 ルルが突然立ち上がった。


「なあに?」


 長椅子から飛び降り、少し先まで歩いて振り返る。


「ルル?」


 もう一度進む。


 また振り返る。


「ついてこいということ?」


 ルイザは立ち上がった。


 ノアも、いつの間にかルルのあとを歩いている。


 二匹についていくと、庭の奥。


 古い木の根元でルルが止まった。


 そこには、小さな封筒が置かれていた。


「……やっぱり」


 ルイザは笑う。


「あなたたち、本当に知っているでしょう?」


 ルルは尻尾を立てる。


 ノアはその横へ座った。


 ルイザが封筒を拾う。


 ヴィオラの文字。


 中には、たった一枚の紙。


『昼寝は立派な予定です。』


「…………」


 ルイザはしばらく、その文字を見ていた。


 それから。


「ヴィオラ様」


 とうとう声を上げて笑った。


「それなら、今日は予定をきちんとこなしたわ」


「にゃあ」


 ルルが鳴く。


「そうでしょう?」

「にゃあ」

「では、上出来ね」


 ノアの尻尾が、一度だけ静かに揺れた。


 夏の夕暮れ。


 庭には、金色の光が差していた。


 ルイザはヴィオラの紙片を手に、ゆっくりと屋敷へ戻る。


 今日は何もしなかった。


 けれど。


 いい一日だった。


 それだけで、今は十分な気がした。


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