第四話
屋敷へ来て、三週間ほどが過ぎた。
朝。
ルイザは窓を開けた。
初夏の風が、白いカーテンをふわりと膨らませる。庭には朝露が残っていた。薄紫色の花。小さな黄色い花。名前を知らない銀色の葉。
以前なら、名前を知らない植物があれば、すぐに図鑑を探したかもしれない。
けれど今日は。
「きれいね」
それだけで終わった。
分からないものを、すぐに分かろうとしなくてもいい。
そんなことにも、少しずつ慣れてきた。
「さて」
ルイザは鏡の前に座る。
いつもなら、髪をきちんとまとめるところだった。一本の乱れもないように。人前に出ても恥ずかしくないように。
けれど今日は、誰かと会う予定もない。
ルイザは髪を一度まとめかけ、手を止めた。
「……これくらいでもいいかしら」
低い位置で、ゆるく結ぶ。
少しだけ髪が頬にかかった。
鏡を見る。
なんとなく落ち着かない。
けれど。
「誰も困らないものね」
そう言ってみると、少しだけ笑えた。
朝食を終えた頃。
マーサが一通の手紙を持ってきた。
「ルイザ様。ハーグレーヴ伯爵家より届いております」
「あら」
レナードからだろうか。
ルイザは何気なく受け取り、封蝋を見る。
やはりレナードからだった。
まだ若い頃から何度も見てきた筆跡。
封を切る。
『姉さんへ。
元気にしている?
こっちは皆、元気にしているよ。
屋敷で少しはのんびりできているといいんだけど。』
そこまでは、ごく普通の手紙だった。
ルイザは続きを読む。
『実は、一つ相談したいことがあります。
来月、叔父上たちがこちらへ滞在することになりました。
領地の収穫祭についての話し合いも兼ねているのだけれど、叔父上は昔から父さんのやり方にこだわるところがあって、僕とはどうも話が噛み合わなくて。
それに、滞在中の部屋割りや食事のことで妻も困っています。
姉さんなら叔父上の好みも知っているし、昔からうまく話してくれていたでしょう?
もし都合がつくなら、数日だけでも帰ってきてもらえないかな。
姉さんがいてくれたら、本当に助かります。』
読み終わる。
ルイザは、しばらくそのまま手紙を持っていた。
胸の中で、何かがごく自然に動き始める。
「マーサ」
「はい」
「馬車をお願いできる?」
口にしてから。
マーサが、ぴたりと止まった。
「どちらまででしょう」
「実家へ。レナードが困っているの」
ルイザは立ち上がる。
「数日だけよ。叔父が滞在するらしくて。あの人は昔から好き嫌いが多いの。部屋も西日の入るところを嫌がるし、朝は薄い紅茶しか飲まないし、それから――」
「ルイザ様」
「何?」
「ヴィオラ様とのお約束は?」
「分かっているわ」
即座に答えた。
「でも、これは別でしょう?」
「別、でございますか」
「家族が困っているのよ」
「はい」
「数日だけなら」
そう言いながら、ルイザは自分の部屋へ向かっていた。
荷物を用意しなくては。
数日なら、着替えはそれほど必要ない。あちらにも自分の服は残っている。
叔父の好きな菓子は、確か領都の北側にある店で――。
頭の中では、もう仕事が始まっていた。
部屋に入る。
旅行鞄を取り出し、寝台の上へ置く。
「二泊……いいえ、話が長引いたら四泊くらい」
引き出しを開ける。
薄手のドレス。夜用のショール。下着。櫛。
必要なものを一つずつ出す。
その時だった。
「……ノア?」
いつの間に入ってきたのだろう。
黒猫が、扉のところに座っていた。
「ごめんなさい。今日は遊んでいる時間がないの」
ルイザは荷物を鞄へ入れる。
振り返って。
「え?」
鞄の上に、ノアがいた。
どっしりと座っている。
「ノア」
金色の瞳がこちらを見る。
「そこをどいて」
動かない。
「荷物を入れたいの」
動かない。
「お願い」
ルイザが手を伸ばす。
ノアは身体を低くして、完全に鞄へ張りついた。
「……あなた」
ルイザは眉を寄せる。
「まさか、これも?」
ノアは瞬きをした。
「ヴィオラ様に頼まれているの?」
尻尾が。
ぱたん。
一度だけ、鞄を叩いた。
「そんな……」
ルイザは腰に手を当てた。
「今回は遊びではないのよ。レナードが困っているの」
ノアは動かない。
「叔父は気難しい人だし、レナードはまだこういう調整に慣れていないの。私が行った方が早いわ」
ノアは、ふい、と顔を逸らした。
「聞いている?」
猫に何を言っているのだろう。
そう思いながらも、少し腹が立ってきた。
「ノア」
「にゃ」
「どいて」
「にゃ」
初めて返事をした。
けれど、どう考えても「嫌だ」と言われた気がする。
「……もう」
ルイザは息を吐いた。
仕方なく、別の小さな鞄を棚から出す。
「こちらを使います」
ノアを見る。
「それならいいでしょう?」
小さな鞄を寝台に置き、ドレスを入れようとする。
すると。
ばたん。
鞄の蓋が勝手に閉じた。
「…………」
ルイザは見つめた。
もう一度開く。
ばたん。
「……屋敷まで?」
開く。
ばたん。
「ちょっと!」
今度は少し強く開く。
すると鞄そのものが、ずるずると寝台の向こう側へ移動した。
「待ちなさい!」
追いかける。
鞄は寝台から降り、そのまま床を滑る。
「これは私の鞄よ!」
ずるずる。
「戻ってきなさい!」
ずるずる。
そして、開いていた扉から廊下へ出ていった。
ルイザは立ち尽くした。
鞄を追いかけるべきか。
こんな屋敷に怒るべきか。
本気で迷う。
背後から。
「にゃあ」
振り向く。
ノアはまだ大きな鞄の上。
「……笑っているでしょう」
ノアは目を細めた。
「絶対に笑っているわね」
その時。
「ルイザ様」
マーサが廊下から顔を出した。
「鞄が一つ、階段を下りていきましたが」
「見れば分かります」
「馬車は」
「……少し待って」
ルイザは大きく息を吐いた。
「考えるから」
マーサは何も言わず、一礼した。
結局。
ルイザはその日の午前中、実家へ帰らなかった。
とはいえ、諦めたわけではない。
テラスに手紙を持って出て、机の上へ置く。
何度も読む。
『姉さんなら叔父上の好みも知っているし』
『昔からうまく話してくれていたでしょう?』
『姉さんがいてくれたら、本当に助かります』
「……そうなのよね」
その通りだった。
叔父は悪い人ではない。ただ、頑固なのだ。
兄であった父を深く尊敬していたぶん、父が亡くなったあとも昔ながらのやり方を変えたがらない。
レナードはレナードなりに、自分の考えで領地を治めようとしている。
二人とも悪くない。
だからこそ、自分が間に入ればいい。
叔父にはレナードの考えを説明して、レナードには叔父の気持ちを説明する。両方の事情を理解して、少しずつ譲り合えるようにする。
そうすれば丸く収まる。
昔から、そうしてきた。
「数日くらい……」
呟く。
胸がざわつく。
行った方がいい。
そう思う。
けれど、屋敷へ来てからの三週間が頭をよぎった。
朝寝坊をしたこと。
好きなケーキを選んだこと。
庭を歩いたこと。
ルルを膝に載せたまま、午後を過ごしたこと。
何も決めない日。
何の役にも立たない日。
それを、手放したくない。
ほんの少しだけ、そう思った。
「……でも」
家族が困っているのに、自分だけここで紅茶を飲んでいるなんて。
薄情ではないだろうか。
レナードは今まで、自分に何度も感謝してくれた。
妹だって。
母だって。
家族なのだから。
助けられるなら、助けるのが普通ではないか。
「私は別に、嫌なわけでは……」
そこまで呟いた時。
ふわりと風が吹いた。
テーブルの上のレナードの手紙が揺れる。
その下から、一枚の紙が滑り出した。
「……え?」
ルイザは瞬きをする。
さっきまで、そんなものはなかった。
白い、小さな紙片。
見覚えのある筆跡。
「ヴィオラ様……」
手に取る。
そこには。
『そんなに物分かりのよい人間でなくてもいいのですよ。』
と書かれていた。
ルイザは黙った。
胸の奥が、小さく痛んだ。
「……物分かりがいい?」
自分が?
そうだろうか。
ただ、事情を考えているだけだ。
叔父にも事情がある。
レナードにも事情がある。
母にも事情があった。
妹にも。
父にも。
誰にだって。
だから、仕方のないことはある。
分かってあげなくてはいけないこともある。
そう思ってきた。
紙片を裏返す。
そこにも文字があった。
『相手に事情があることと、
あなたが傷つかなかったことは同じではありません。』
「…………」
ルイザの指が止まった。
なぜ、今、そんなことを言われるのだろう。
今回のレナードの手紙に、傷つくようなことなど何もない。
レナードはただ、助けてほしいと言っているだけ。
いつものことだ。
頼られるのは嫌ではない。
必要とされるのは、むしろ嬉しいことだったはずだ。
「違うわ」
誰に言うでもなく呟く。
「今回は、そんな話ではないもの」
紙片をテーブルへ戻す。
けれど、文字は消えない。
当たり前だ。
ルイザは紅茶を飲もうとした。
冷めていた。
「……入れ直してもらおうかしら」
呼び鈴へ手を伸ばす。
その手が止まる。
ただ冷めただけだ。
少しくらい冷めた紅茶でも、自分で飲めばいい。
「…………」
なぜか。
何もかもが、急に面倒になった。
その日の午後。
アルジャノンがやってきた。
前回と同じく、何の前触れもなく。
「やあ、ルイザ嬢」
庭の向こうから現れた彼を見て、ルイザは少しだけほっとした。
そのことに、自分で驚く。
「こんにちは、アルジャノン様」
「今日はルルに捕まっていないんだな」
「今日はノアに鞄を占領されました」
「それは大変だ」
「笑っているでしょう」
「少しな」
アルジャノンは向かいへ座る。
ノアも、どこからともなく現れて彼のそばへ座った。
「あなた、本当にアルジャノン様にはすぐ寄っていくのね」
ルイザが言う。
ノアは知らん顔をした。
マーサが茶を運んでくる。
今日は、淡い琥珀色の紅茶だった。
「旅先でもらった茶葉だ」
アルジャノンが小さな包みを示した。
「少し花の香りがする」
「まあ」
一口飲む。
柔らかな香りだった。
「おいしい。香りもいいですね」
「それならよかった」
二人の間に、少しの沈黙が落ちる。
アルジャノンは、ルイザの前に置かれた手紙へ一度だけ視線を落とした。
それだけ。
何も聞かない。
ルイザは、なぜかそのことがありがたかった。
けれど、しばらくしてから自分の方から口を開いた。
「実は、弟のレナードから手紙が来たのです。実家へ戻ってきてほしいと」
アルジャノンは紅茶を飲む。
「叔父との話し合いがうまくいかないらしくて。私がいれば、たぶん話は早いと思います」
「なるほど」
それだけだった。
ルイザは手紙へ目を落とす。
「今朝は、帰るつもりでした」
少し笑う。
「鞄まで出したんですよ」
「それでノアに占領された?」
「ええ。別の鞄は屋敷に逃げられました」
「徹底しているな」
「本当に」
ルイザも少し笑った。
けれど、すぐに笑みが消える。
「レナードを助けたい気持ちはあります」
アルジャノンは何も言わず、続きを待った。
「叔父も悪い人ではないし、レナードも頑張っています。私が行けば、きっと早く片づく」
そこまで言って、ルイザはカップを両手で包んだ。
「でも……」
言葉が止まる。
アルジャノンが静かに尋ねた。
「ルイザ嬢は帰りたいのか?」
ルイザは答えられなかった。
しばらくして。
「……分かりません」
小さく言う。
「助けたいのです。でも、帰りたいかと聞かれると……分からない」
「そうか」
アルジャノンはそれ以上何も言わなかった。
ルイザは少しだけ息を吐く。
不思議だった。
答えをもらっていないのに、さっきまでより少しだけ頭の中が静かになっている。
風が吹く。
花の香りのする紅茶から、細い湯気が上がっていた。
ノアはアルジャノンの足元で丸くなっている。
少しして、ルイザが呟いた。
「ヴィオラ様にも、困ったことを言われました。『そんなに物分かりのよい人間でなくてもいい』と」
「それはまた」
「何です?」
「ヴィオラらしいな」
ルイザは少し笑った。
「それだけですか?」
「それ以上言うと、今度は私までヴィオラに似てくる」
「それは困ります」
「だろう?」
二人とも少し笑った。
それだけだった。
けれど、さっきまでより少しだけ、息がしやすくなった。
◇
その夜。
ルイザは返事を書くため、机に向かった。
屋敷の魔法は、今回は邪魔をしなかった。インクも消えない。引き出しも閉じない。
どうやら、自分の手紙を書くことまでは禁止されていないらしい。
「……さて」
羽根ペンを持つ。
『親愛なるレナードへ』
書き出して、止まる。
いつもなら。
『もちろん帰ります』
と書いただろう。
そのあとに日程を書き、叔父の好きな部屋を伝えて、食事の注意を書いて。必要なら事前に叔父へも手紙を書いて。
そうして、話は終わる。
でも、今日は。
その最初の一文が書けなかった。
ルイザは椅子の背にもたれる。
自分は。
帰りたい?
レナードを助けたい。
それは本当だ。
叔父とも、仲が悪いわけではない。
みんなが穏やかに話せればいいと思う。
それも本当。
だけど。
帰りたい?
「…………」
答えは、意外なほど小さく。
けれど確かに、胸の中にあった。
「……今は、帰りたくない」
口にした途端、心臓がどくりと鳴った。
ひどいことを言ったような気がした。
「でも」
誰もいない部屋で、言い訳をする。
「嫌いだからではないの」
レナードを見捨てたいわけでもない。
家族を嫌いになったわけでもない。
ただ。
今は、ここにいたい。
ルイザはもう一度ペンを取った。
『手紙をありがとう。
叔父上の滞在について、大変なのはよく分かります。
西向きの客室は避けた方がいいと思います。
朝のお茶は薄めに。
夕食では香辛料の強いものを出さなければ、機嫌よく過ごしてくださるはずです。
ただ。
今回は、私は帰りません。』
そこで、また手が止まった。
胸が痛い。
罪悪感が、じわじわと広がる。
冷たい姉だと思われるだろうか。
失望されるだろうか。
困らせるだろうか。
それでも、続きを書く。
『今は、この屋敷で過ごしてみたいと思っています。
叔父上とのことは、まず二人で話してみてください。
すぐにうまくいかなくても、きっと大丈夫です。』
書き終える。
ペンを置く。
ルイザは、しばらく便箋を見ていた。
「……これで、いいのかしら」
胸はまだざわざわしている。
爽快感などない。
何かから解放されたような気もしない。
むしろ、今すぐ便箋を破って。
『やっぱり帰ります』
と書き直したい。
そんな気持ちさえあった。
その時。
とん。
小さな音がした。
見る。
ノアが、いつの間にか机の横へ座っていた。
「……あなた」
ルイザは苦笑する。
「本当に、どこから入ってくるの?」
ノアは机の脚へ身体を寄せた。
ルイザはそっと手を伸ばす。
触れようとした瞬間、少し迷って。
手を止めた。
「嫌ならいいのよ」
すると。
ノアの方から、一歩だけ近づいた。
黒い額が、ルイザの指先に触れる。
「……あ」
一瞬だった。
すぐに離れてしまう。
それでも、確かに初めて触れた。
艶のある毛は、思っていたより柔らかかった。
「ありがとう」
何のお礼なのか、自分でも分からなかった。
ノアは答えない。
窓辺へ飛び乗り、そこで丸くなった。
ルイザはもう一度、レナードへの手紙を見る。
『今回は、私は帰りません。』
「……ごめんなさい」
小さく呟く。
その言葉を消すことも、言い直すこともしなかった。
ただ、手紙を封筒へ入れる。
封をする。
その瞬間、胸がまた痛んだ。
でも。
手紙を開け直すことはしなかった。
翌朝。
手紙を届けてもらったあと、ルイザは庭のベンチに座っていた。
今日は曇り空だった。
風も少し冷たい。
膝には、当然のようにルルがいる。
「あなたは、本当に毎日ここに乗るのね」
ごろごろ。
「少しくらい遠慮してもいいのよ?」
ごろごろ。
ルイザはその背を撫でる。
胸のざわつきは、まだ消えていなかった。
レナードが手紙を読んだら、どう思うだろう。
困るだろうか。
怒るだろうか。
もう頼ってくれなくなるだろうか。
最後の考えに、胸が少し冷たくなる。
頼られなくなる。
それは、思っていたより怖かった。
「……変ね」
ルイザは小さく呟く。
「休みたいのに、必要とされなくなるのは怖いなんて」
ルルの耳がぴくりと動く。
ルイザは、ヴィオラの昨日の紙片を取り出した。
『そんなに物分かりのよい人間でなくてもいいのですよ。』
『相手に事情があることと、
あなたが傷つかなかったことは同じではありません。』
「私は……」
言いかけて、やめる。
まだ、よく分からない。
何に傷ついてきたのか。
どうして頼られなくなることが、こんなに怖いのか。
家族を愛していることだけは分かっている。
それなら今日は、それでいいのかもしれない。
ルルが膝の上で大きな欠伸をした。
「……ルル、あなた、もう少し真面目に聞いてくれてもいいのよ」
それでも、ルイザは笑った。
曇っていた空の向こうから。
少しだけ。
柔らかな光が庭へ差し込んだ。




