第三話
屋敷へ来て、一週間が過ぎた。
ルイザは少しずつ、この場所での暮らし方を覚え始めていた。
朝は、目が覚めた時に起きる。食事は、出されたものを食べる。掃除はしない。洗濯もしない。帳簿も見ない。
使用人が重そうな籠を運んでいても、手を出さない。
――これは、まだ少し難しい。
「少しお持ちしましょうか?」
「いいえ、大丈夫でございます」
「でも重そうよ」
「大丈夫でございます」
「半分くらいなら」
「ルイザ様」
マーサに名前を呼ばれる。
「……はい」
「ヴィオラ様とのお約束を」
「分かっています」
そんなやり取りを、もう何度繰り返しただろう。
最近では使用人たちも慣れたもので、ルイザが手を伸ばす前に荷物を遠ざけるようになった。
昨日など、廊下に落ちていたハンカチを拾おうとしただけで、どこからともなく風が吹き、ハンカチがふわりと浮かんだ。そのまま持ち主の侍女の手へ飛んでいった。
「……落とし物を拾うくらい、いいでしょうに」
思わず呟くと、階段の上にいたノアがこちらを見下ろしていた。
最近、あの黒猫に監視されているような気がしてならない。
「あなた、ヴィオラ様の手先なのではなくて?」
尋ねても、ノアは相変わらず何も答えなかった。
ただ、以前より少しだけ近くにいることが増えた。
最初は廊下の端。次は同じ部屋。昨日は、ルイザが本を読んでいる間、窓辺で眠っていた。
まだ触らせてはくれない。けれど、逃げなくなった。
それがなぜか、少し嬉しい。
一方で、ルルは。
「……重いわ」
今もルイザの膝の上にいた。
朝食後、居間の長椅子で本を読んでいたら、どこからともなく現れて乗ってきたのだ。ふわふわした身体が、膝の上いっぱいに広がっている。
「あなた、少し太ったのではない?」
ルルが片目を開けた。
「食べすぎなのよ、きっと」
「にゃあ」
「そんな顔をしても駄目です」
けれど、少ししてからルイザは本を置き、ルルの背をゆっくり撫でた。
柔らかな毛。暖かな身体。規則正しい喉の音。
ごろごろ。
ごろごろ。
以前なら、こんな時間があれば何かできることを探しただろう。
繕い物。手紙の返事。食事の確認。来客の予定。帳簿。
母が眠っている間に、済ませられるものを済ませる。そうやって一日が終わっていた。
今は、猫を撫でている。
ただ、それだけ。
「……これにも慣れてきたのかしら」
ルイザが呟くと、ルルは返事の代わりに大きな欠伸をした。
その日の午後。
ルイザは、とても難しい問題に直面することになった。
「さあ、ルイザ様。お好きなものをお選びくださいませ」
マーサがそう言った。
目の前には、三種類のケーキが並んでいた。
「……選ぶの?」
「はい」
「私が?」
「はい」
ルイザはテーブルを見る。
一つ目は、苺をたっぷり使った白いクリームのケーキ。二つ目は、蜂蜜と胡桃の焼き菓子。三つ目は、薄紫色の小さな花を飾ったレモンのケーキ。
どれもおいしそうだ。
「どうして三種類も?」
「町の菓子店から届きました」
「全部食べるの?」
「いえ」
マーサはにこやかに答えた。
「本日はこの中から、お一つ、お選びください」
「残りは?」
「使用人たちでいただきます」
「それなら皆さんが先に選んで。私は残ったものでいいわ」
「いけません」
「どうして?」
「本日はルイザ様に選んでいただく日ですので」
「そんな日、聞いていないわ」
「今、決まりました」
「マーサ」
「何でしょう」
しれっとした顔だった。
最近、マーサまで少しヴィオラに似てきたような気がする。
「私はどれでも構わないわ」
「では、どれがお好きですか?」
「だから、どれでも」
「どれでも、という名前のケーキはございません」
「…………」
ルイザは黙った。
マーサは待っている。急かさない。けれど、引く気もないらしい。
「苺は、若い侍女たちが好きそうね」
「そうかもしれません」
「蜂蜜と胡桃は、庭師のトーマスが好きだと言っていたわ」
「よくご存じですね」
「この前、話していたもの」
「では、ルイザ様は?」
また聞かれる。
ルイザは三つのケーキを見る。
「私は……」
そこで言葉が止まった。
不思議だった。
たった三つだ。食べたいものを一つ選ぶだけ。
そんな簡単なことなのに、分からない。
「どれでも、おいしそうだわ」
「ええ」
「なら、誰かが一番食べたいものを選べば」
「ルイザ様」
マーサは穏やかだった。
「今日は誰かのことではなく、ルイザ様のお話をしております」
「…………」
その言葉に、胸の奥がほんの少し引っかかった。
誰かのことではなく。
自分のこと。
ルイザはもう一度、ケーキを見る。
すると、なぜか昔の光景が浮かんだ。
◇
ルイザが九歳の頃だった。
その日は、母に連れられてアシュフォード侯爵家のお茶会へ行っていた。大人たちは大広間で話をしていて、子どもたちは庭に面した小さな部屋へ集められていた。
ルイザの隣には、六歳のレナードがいた。
まだ幼くて、食いしん坊で、出された焼き菓子をあっという間に食べてしまった。
ルイザの皿には、一つ残っていた。
苺のジャムが入った、小さな焼き菓子。
ルイザはそれが好きだった。甘酸っぱい苺と、さくさくした生地。いつもなら最後まで取っておいて、ゆっくり食べる。
けれど、レナードがじっと見ていた。
「お姉様、それ食べる?」
ルイザは焼き菓子を見る。
それからレナードを見る。
「欲しいの?」
「うん」
「じゃあ、あげる」
皿を差し出そうとした。
その時だった。
「だめですよ」
横から、すっと手が伸びてきた。
「え?」
ヴィオラだった。
当時でもすでに、ルイザの祖母ほどの年齢だった。銀灰色の髪に、すらりとした姿。子どもの集まりにいるのが妙に似合わない人だった。
「それはルイザのお菓子でしょう」
「でも、レナードが食べたいって」
「そうね」
「だから、あげます」
「あなたは食べたくないの?」
「私は平気です」
ヴィオラは眉を上げた。
「平気かどうかは聞いていないわ」
「え?」
「食べたいか、食べたくないかを聞いているの」
ルイザは困った。
どう答えればいいのか分からなかった。
「……レナードの方が小さいから」
「ええ」
「わたしはお姉さんだから、譲った方が」
「誰が決めたの?」
「え?」
「お姉さんは、好きなお菓子を食べてはいけないの?」
そんなことはない。
もちろん、ない。
けれど、レナードが欲しがっている。
自分は姉だ。
だったら。
「ルイザ」
ヴィオラは、ルイザの前にしゃがんだ。
視線を合わせる。
「優しいことは、とても素敵なことよ」
「……はい」
「誰かに譲ってあげられることもね」
「はい」
「でも」
ヴィオラは、皿の焼き菓子を指さした。
「自分も欲しいのに、いつも譲ってばかりいたら、自分が何を好きだったのか分からなくなってしまうわ」
九歳のルイザには、その言葉の意味がよく分からなかった。
ただ、ヴィオラがあまりにも真面目な顔で言うので。
「……私は、これが食べたいです」
小さな声で答えた。
「そう」
ヴィオラは笑った。
「それなら食べなさい」
「でも、レナードが」
「この子には別のお菓子を用意すればいいでしょう」
ヴィオラが侍女を呼ぶ。
本当に、レナードにはもう一つ別の焼き菓子が用意された。
何の問題も起こらなかった。
レナードも喜んだ。
ルイザも、自分のお菓子を食べた。
それだけのことだった。
なのに。
『まあ、またレナードに譲るの?』
『あなたは?』
『お姉さんは、好きなお菓子を食べてはいけないの?』
何十年も前の声が、今になってひどく鮮明に蘇った。
「ルイザ様?」
マーサの声で、我に返る。
「あ……ごめんなさい」
「いいえ」
テーブルには、三つのケーキ。
苺。
蜂蜜と胡桃。
レモン。
ルイザはしばらく見つめた。
誰が何を好きかではなくて。
自分は、どれを食べたい?
苺も好きだ。蜂蜜も嫌いではない。
けれど、薄紫色の花が飾られたレモンケーキを見た時、最初から少し気になっていた。
淡い黄色の生地。白い砂糖衣。小さな紫色の花。
かわいい。
そう思った。
けれど、自分には少し可愛らしすぎるような気がして、すぐに候補から外していた。
三十八歳なのだから、もっと落ち着いたものを選ぶべきではないか。
そんな考えまで浮かんでいたことに気づいて、ルイザは少しおかしくなった。
誰もそんなことを言っていないのに。
「……では、こちら」
指を伸ばす。
「レモンのケーキをいただくわ」
「はい」
マーサが笑った。
それだけだった。
拍手もない。褒められもしない。何か劇的なことが起きるわけでもない。
ただ、自分が食べたいケーキを一つ選んだ。
なのに、少しだけ胸がざわざわした。
本当にこれでよかったのかしら。
苺を残してしまってよかった?
庭師の好きな胡桃を取らなくてよかった?
そんな考えが浮かぶ。
けれど、マーサは何事もなかったように、レモンケーキをルイザの皿へ載せた。
「どうぞ」
「ありがとう」
フォークを入れる。
柔らかな生地から、レモンの香りがふわりと広がった。
一口食べる。
「……おいしい」
思わず口に出た。
甘い。
けれど、甘すぎない。
爽やかな酸味がある。砂糖漬けにされた小さな花も、ほのかに甘かった。
「私、これが好き」
言ったあと、ルイザは自分の言葉に少し驚いた。
好き。
たったそれだけ。
なのに、久しぶりに口にしたような気がした。
「それは何よりでございます」
マーサが言う。
その時だった。
「にゃあ」
足元から声がした。
「ルル」
嫌な予感がする。
見下ろすと、ミルク色の猫がものすごく真剣な顔でケーキを見上げていた。
「駄目よ」
「にゃあ」
「あなたにはあげません」
「にゃあ」
「レモンが入っているもの」
「にゃあ」
「そんな顔をしても駄目」
ルルは諦めない。
前足をルイザの膝にかける。
「こら」
さらに身を伸ばす。
「ルル」
ケーキに鼻先が近づく。
「駄目ですってば」
ルイザは皿を持ち上げた。
ルルも伸びる。
「あなた、昨日まで私を休ませる係だったでしょう?」
「にゃあ」
「今日は私のおやつを奪う係なの?」
マーサが横で肩を震わせている。
「マーサ」
「申し訳ございません」
「笑っているでしょう」
「少しだけ」
とうとうルイザも笑ってしまった。
「これは私のよ」
ルルに言い聞かせる。
「今日は譲りません」
その言葉を口にした時。
ルイザは、ほんの少しだけ黙った。
今日は譲りません。
ただ猫にケーキを取られないようにしただけなのに、妙に胸に残った。
ルルはしばらくルイザを見上げ、やがて。
「ふん」
と言わんばかりに顔を逸らした。
「猫って、こんなに分かりやすく拗ねるものなの?」
「ルルは特に」
「そう……」
ルイザは笑いながら、もう一口ケーキを食べた。
最後まで。
全部、自分で食べた。
午後。
ルイザは庭を散歩していた。
屋敷の敷地は、思っていたより広い。きちんと整えられた花壇もあるが、奥へ行くほど植物は自由に育っている。
蔓を伸ばした花。大きな葉を広げる薬草。見たことのない銀色の草。近づくと淡く光る、小さな青い花。
ヴィオラが好んで集めていた魔法植物らしい。
ルイザはゆっくり歩いた。
何かをするためではない。
どこかへ行くためでもない。
ただ、散歩。
それにも少し慣れてきた。
大きな木のそばを通った時。
「……あら?」
根元にノアがいた。
黒い身体を丸めている。
その前に、小さな封筒が置いてあった。
「またなの?」
ノアに尋ねる。
金色の瞳がこちらを見る。
「あなたが持ってきたの?」
ノアは答えない。
「偶然ここにあっただけ?」
尻尾が一度動く。
「……本当に秘密が多いのね」
ルイザはしゃがんで、封筒を拾う。
表には。
――ルイザへ。
ヴィオラの字。
中には、小さなカードが一枚。
『お姉さんである前に、
あなたはルイザです。』
それだけ。
ルイザはしばらく動かなかった。
風が木の葉を揺らす。
さらさら。
さらさら。
遠くで鳥が鳴いている。
ヴィオラは、覚えていたのだろうか。
あの日のことを。
九歳のルイザが、レナードへ焼き菓子を譲ろうとした日のことを。
自分ですら、ほとんど忘れていたのに。
「……ヴィオラ様」
カードを見つめる。
『お姉さんである前に、
あなたはルイザです。』
その言葉を、もう一度心の中で読む。
ずっと当たり前だった「お姉さん」という言葉が、今日は少しだけ違って聞こえた。
「私……何が好きだったのかしら」
小さく呟く。
すぐには浮かばない。
ケーキ一つでさえ、あれほど迷った。
好きな色。好きな花。好きな本。行ってみたい場所。
どれも、まだよく分からない。
ふと、数日前のアルジャノンの声を思い出した。
『なら、今は分からなくていいんじゃないかな』
「……そうね」
今日、一つ分かった。
「レモンのケーキは好きだわ」
口に出す。
妙に可笑しくなって、ルイザは笑った。
それだけでも、今日は十分な気がした。
「ねえ、ノア」
呼ぶ。
黒猫は少し離れた場所に座っている。
ルイザは手を伸ばしかけて、やめた。
「まだ触られたくないのよね」
無理に近づかない。
そのまま隣に座った。
少し距離を空けて。
木の幹にもたれる。
ノアも動かなかった。
二人で、ただ庭を眺める。
しばらくして。
黒い尻尾の先が、そっとルイザのスカートに触れた。
「……あら」
ノアは知らないふりをしている。
ルイザも何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
その日の夕食後。
ルイザは自分の部屋へ戻り、ヴィオラのカードを机の上へ置いた。
『お姉さんである前に、
あなたはルイザです。』
その横には、マーサにもらった小さな花を飾った。
薄紫色の花。
昼に食べたケーキにも似た色だった。
ルイザはしばらく眺める。
「明日は……」
言いかけて、やめた。
明日、何をするか。
朝起きてから考えればいい。
もしかしたら、何もしなくてもいい。
そのことが初めて、少しだけ楽しみだと思えた。




