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一年間、何もしなくていいと言われました  作者: 黒猫と珈琲


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2/8

第二話

 翌朝。


 ルイザは、いつもよりずっと遅く目を覚ました。


「……え?」


 薄く目を開けると、カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいる。鳥の声も聞こえる。


 ルイザは反射的に身体を起こした。


「今、何時……?」


 枕元の小さな時計を見る。


 九時を少し過ぎていた。


「九時?」


 こんな時間まで眠っていたのは、いつ以来だろう。


 母の具合が悪くなってからは、朝は早かった。夜中に何度か起きることがあっても、朝になれば起きる。薬の時間があり、食事の支度を確認し、医師が来る日にはその準備もしなければならない。


 誰に言われたわけでもない。けれど、そうするのが当たり前だった。


 九時まで眠るなど。


「寝すぎだわ」


 ルイザは慌ててベッドを降り、髪を整え、着替えを済ませた。


 すると、寝室の扉が控えめに叩かれた。


「ルイザ様、お目覚めでしょうか」


 マーサの声だった。


「ええ。今、起きたところです」

「朝食をお持ちしてもよろしいですか?」

「もちろん。……ごめんなさい、こんな時間まで眠ってしまって」


 扉の向こうが、少し静かになった。


「ルイザ様」

「はい?」

「謝る必要はございませんよ」

「でも、皆さんはとっくに働いているでしょう?」

「私どもは、それが仕事でございますので」

「それはそうだけれど……」


 マーサが扉を開ける。


 その手には朝食の載った盆があった。焼きたてのパン。半熟の卵。薄切りの果物。温かなミルクティー。そして盆の端には、小さな一輪挿しまで載っている。


「ルイザ様のお仕事は、お休みになることでございます」

「そんな仕事がありますか?」

「ヴィオラ様は、あるとおっしゃっていました」


 またヴィオラである。


 ルイザは小さく息をついた。


「食堂へ行きます。そこでいただくわ」

「かしこまりました」


 マーサが盆を持って先に歩き出し、ルイザもそのあとをついていった。


 廊下を歩きながら、何となく辺りを見回す。窓は磨かれている。絨毯にも埃はなく、花瓶の花も新しい。


 昨日の箒の件があるので、手を出すつもりはない。


 ないのだけれど。


「マーサ」

「はい」

「何か、私にできることはないかしら」

「ございません」


 即答だった。


「そんなに早く答えなくても」

「ヴィオラ様より、そうお答えするよう申しつかっております」

「そこまで?」

「はい」


 ルイザは眉間を押さえた。


 食堂へ着く。


 小さな丸テーブルには、朝の光が差し込んでいた。


 ルイザが座ると、どこからともなくルルが現れる。


「……あなたも来たの」


 ルルは椅子の脚へ身体を擦りつけた。昨日あれだけ膝の上で眠ったというのに、もうすっかり昔からの知り合いのような顔をしている。


 一方、ノアは窓辺にいた。黒い身体を丸めて座り、外を眺めている。


「おはよう、ノア」


 呼びかけると、ノアは耳だけ動かした。


「今日もつれないのね」


 ルイザは苦笑した。


 パンをちぎり、卵を食べる。温かなミルクティーを口に含む。


 ゆっくりとした朝だった。


 静かだ。


 あまりにも静かで、やはり落ち着かない。


 朝食を終える頃には、ルイザの中に新しい考えが浮かんでいた。


 掃除が駄目なら。


 家事でなければいいのではないか。


 


「読書なら問題ないでしょう」


 朝食後、ルイザは屋敷の小さな書斎へ来ていた。


 本棚には古い本が並んでいる。魔法植物についての本。旅行記。詩集。歴史書。料理の本まである。


 ヴィオラらしい、統一感のない本棚だった。


「読書は休息だもの」


 自分に言い聞かせる。


 けれど、本を一冊手に取り、椅子へ座ったところで、ルイザは別のものに目を留めた。


 机の端に、数通の書類が置かれている。


「これは……」


 屋敷の修繕記録だった。


 屋根。窓。庭の水路。古い魔法設備。


 ざっと見る限り、特に問題はなさそうだ。けれど、ところどころ数字の記載がある。


 反射的に、もっときちんと確認したくなる。


「少し見るだけなら……」


 ルイザは椅子を机へ寄せた。


 インク壺の蓋を開け、羽根ペンを手に取る。数字を一つ書き留めようとした、その瞬間。


 インクが消えた。


「……え?」


 ペン先には確かにインクがついていた。


 なのに、紙へ触れた途端、何も残らない。


 もう一度。


 書く。


 消える。


「そんな」


 三度目。


 今度は、インク壺そのものが空になった。


「…………」


 ルイザはじっと壺を見る。


 次の瞬間、机の引き出しが、ぱたん、と勝手に閉じた。


「ちょっと」


 開ける。


 ぱたん。


 閉じる。


「……分かりました」


 ルイザは羽根ペンを置いた。


「書きません」


 すると、空だったはずのインク壺に、するすると黒い液体が戻ってきた。


「そこまでする?」


 思わず声が出る。


 その時、書斎の入口から低い声が聞こえた。


「にゃ」


 振り返る。


 ノアだった。


 扉の前に座り、こちらをじっと見ている。


「……あなたも見張っているの?」

 

 ノアは無言だった。


「ヴィオラ様に頼まれたの?」


 尻尾が一度だけ動く。


「本当に?」


 ノアは立ち上がり、何事もなかったように去っていった。


「……絶対、何か知っている顔だわ」


 ルイザは小さく呟いた。


 結局、それ以上書類に目を通すことも諦めた。


 本を一冊選び、窓辺の椅子へ座る。


 今度こそ、本当に読む。


 そう決めた。


 けれど、三頁ほど読んだところで。


「お茶はいかがですか?」


 マーサが現れた。


「今、朝食をいただいたばかりよ」

「もう二時間ほど経っております」

「二時間?」


 時計を見る。


 本当だった。


「もうそんなに経ったの?」

「はい」

「……そう」


 何もしていないのに、時間が過ぎる。


 そのことが妙に不思議だった。


「では、テラスへお持ちしましょうか」

「ええ」


 ルイザは本を閉じた。


 ◇


 テラスには、初夏の風が吹いていた。


 庭では薄紫の花が揺れている。遠くには小さな池が見えた。


 テーブルには紅茶と、薄切りの林檎を焼き込んだ小さなケーキ。


「昼前ですので、軽いものにいたしました」

「ありがとう」


 マーサが下がる。


 ルイザは一人で座った。


 何もしない。


 ただ庭を見る。


 紅茶を飲む。


 これだけ。


「……落ち着かないわ」


 正直に口にした。


 すると。


「にゃあ」


 ルルが来た。


「またあなたなの」


 ルルは当然のように足元を一周する。


 そして、昨日と同じように。


 ぴょん。


「まあ」


 膝へ飛び乗った。


「あなた、本当に遠慮がないのね」


 ルルは丸くなり、ごろごろと喉を鳴らす。


 ルイザは仕方なく、その背を撫でた。


「こんなふうにしていて、いいのかしら」


 ルルは答えない。


「昨日から、何の役にも立っていないわ」


 ごろごろ。


「誰かの手伝いもしていないし、家のこともしていないし」


 ごろごろ。


「……あなたは気楽ね」


 ルルが目を細める。


 ルイザは少し笑った。


 その時、テーブルの端に小さな紙片があることに気づいた。


「また?」


 昨日まではなかったはずだ。


 ヴィオラの字だった。


 手に取る。


『今日は何もしませんでしたか?』


 ルイザは思わず周囲を見回した。


 誰もいない。


 続きを読む。


『それなら上出来です。』


「…………」


 短い。


 本当にそれだけだった。


「ヴィオラ様」


 ルイザは呆れて笑った。


「何もしなかったことを褒める人なんて、初めてだわ」


 紙片をテーブルに置き、もう一度紅茶を飲む。


 少しぬるくなっていた。


 けれど、不思議とおいしかった。


 風が吹く。木の葉が揺れ、ルルの毛がそよぐ。


 何もしない。


 本当に、何もしない。


 けれど、昨日ほど胸がざわつかなかった。


 ほんの少しだけ。


「……上出来、なのかしら」


 そう呟いた時だった。


「ああ、かなり上出来だと思う」


 突然、男の声がした。


「え?」


 ルイザは顔を上げた。


 庭の小道から、一人の男性が歩いてくる。


 背が高い。


 黒に近い灰褐色の髪は少し長めで、旅の途中なのか、風に乱れたまま額へかかっている。深緑色の瞳。すっきりした鼻筋に、顎には短く整えられた髭がある。


 きちんと整えられた貴族男性とは少し違う、旅慣れた人らしい風貌だった。


 年齢は四十代半ばほどだろうか。若々しいというより、年齢を重ねた今の落ち着きがよく似合う男性だった。


 濃い色の外套に、肩から革の鞄を下げている。


 いかにも、どこか遠くから来た人だった。


 男はテラスの少し手前で立ち止まった。


「失礼。驚かせたかな」

「……どちら様でしょう」

「アルジャノン・ウェストウッド。ヴィオラの古い知人だ」


 その名前には聞き覚えがなかった。


「ヴィオラ様のご知人でしたか。私はルイザ・ハーグレーヴと申します。今は理由あって、こちらに住まわせていただいております」

「ルイザ嬢、と呼んでも?」

「ええ。私もアルジャノン様とお呼びしてよろしいでしょうか」

「もちろん」


 アルジャノンは肩から下げていた鞄を軽く持ち直した。


「実はヴィオラが亡くなる少し前に、彼女から手紙が届いて」

「手紙ですか?」

「ああ。自分が死んだら、とても真面目な女性がこの屋敷に来るから、時々様子を見てほしい、と」

「…………」


 ルイザはヴィオラの紙片へ視線を落とした。


「その、とても真面目な女性というのは」

「たぶん、ルイザ嬢のことだな」


 アルジャノンの目が、少し笑う。


「……ヴィオラ様ったら」


 ルイザは思わず顔を上げた。


 アルジャノンの口元には穏やかな笑みがあった。


 からかうような笑いではない。


 ただ、同じ人物に振り回された者同士のような。


 そんな笑い方だった。


「お邪魔でなければ、少し座っても?」

「ええ。どうぞ、こちらへ」


 ルイザは向かいの椅子を示した。


 アルジャノンは外套を軽く整え、腰を下ろす。


 その時、庭のどこかから黒い影が走ってきた。


「ノア?」


 黒猫のノアだった。


 ルイザの横を通り過ぎ、迷いなくアルジャノンの足元へ行く。


「ノアか。久しぶりだな」


 アルジャノンが手を差し出す。


 ノアはその手へ額を擦りつけた。


「……ノアはアルジャノン様に懐いているのですね」

「昔からな」

「昔から?」

「ああ」


 アルジャノンはノアの頭を撫でる。


「ノア、お前、まだいたんだな」


 その言葉に、ルイザは少し引っかかった。


「まだ?」


 アルジャノンは一瞬だけ黙った。


「私が知る限り、かなり長生きしている」


「そうなのですか?」

「ああ」


 それ以上は言わなかった。


 ノアも何も言わない。


 当然だけれど。


 ルイザは二人を見比べた。


 ノアはアルジャノンの足元で落ち着いている。昨日から自分にはあれほど距離を取っているのに。


「私にはまだ、ほとんど近づいてくれません」

「では、気に入られてる途中だな」

「途中?」

「ノアは嫌いな人間の近くには、そもそも来ないからな」

「……そういうものですか」

「そういう猫だ」


 アルジャノンは平然と言う。


 妙に説得力があった。


 マーサが新しいカップを持って現れる。


「あら、アルジャノン様」

「久しぶりだな、マーサ」

「また突然お越しになって」

「旅人なんて、大体そんなものだ」

「少しは事前に知らせるものですよ」

「努力しよう」

「そう言って、ヴィオラ様がお元気な頃から一度も直りませんでしたね」


 マーサは呆れたように言いながら、紅茶を置く。


 そのやり取りを見て、ルイザは少しだけ安心した。


 本当に昔から、この屋敷を知っている人らしい。


「旅をされているのですか?」

「ああ」

「どちらへ?」

「今回は北西の山地だ。古い魔法植物を調べにな」

「魔法植物」

「興味があるのか」


 聞かれて、ルイザはすぐに答えられなかった。


 興味があるか。


 その質問に、なぜか戸惑う。


「……どうでしょう。よく分かりません」


 アルジャノンは少しだけ目を細めた。


 けれど、驚いた顔もしなければ、変だとも言わなかった。


「そうか」


 アルジャノンは紅茶へ視線を落とした。


「なら、今は分からなくていいんじゃないかな」


「……いいのですか?」


「急いで決めることでもないだろう」


 それだけ言って、紅茶を一口飲む。


 ルイザは黙った。


 そんなふうに言われたのは、初めてかもしれない。


 好きなものは何か。何をしたいか。この先どうするか。


 最近、そればかり聞かれていた。


『これから好きに暮らして』

『何かしたいことはないの?』

『旅行でもしたら?』

『いい人を探してみたら?』


 皆、善意だった。


 だからこそ、答えられない自分が悪いような気がしていた。


「……そうですね」


 ルイザは小さく答えた。


 アルジャノンはそれ以上、何も聞いてこなかった。


 沈黙が落ちる。


 けれど、不思議と気まずくなかった。


 ルイザは庭を見る。


 アルジャノンも庭を見る。


 ルルは膝の上。


 ノアはアルジャノンの足元。


 風が吹き、花が揺れる。


 しばらくして。


「ところで」


 アルジャノンが言った。


「ヴィオラからの手紙、もう見つけたか?」

「ええ。二枚ほど」

「やはり」

「何かご存じなのですか?」

「いや」


 アルジャノンは首を振る。


「あの人は、そういうことをするのが好きだったからな」

「いろいろなところに隠してあるようです」

「全部探そうとしない方がいい」

 

 ルイザはぎくりとした。


「……なぜです?」

「ルイザ嬢なら探しそうだから」

「…………」


 否定できない。


 実のところ、昨日のカードを見つけてから、朝食前に少しだけ部屋の引き出しを調べようかと思っていた。


「そういえば、ヴィオラからも頼まれていたな」

「何と?」

「手紙探しを手伝うな、と」

「そこまで読まれているのですか、私は」

「そのようだ」


 ルイザは額を押さえる。


 アルジャノンが少し笑った。


「私も昔から、散々やられた」

「何をです?」

「余計なお世話を」

「ヴィオラ様らしいわ」

「ああ」


 二人とも、同時に少し笑った。


 それだけだった。


 けれど、ルイザは久しぶりに、誰かと何の用事もなくお茶を飲んだ。


 相談でもない。


 看病でもない。


 家の話でもない。


 何かを決めるためでもない。


 ただ、一緒に座って紅茶を飲んだ。


 それだけだった。


 


 アルジャノンは、日が傾く前に帰っていった。


「では、ルイザ嬢。また寄るよ」

「ヴィオラ様との約束だから?」


 ルイザが聞く。


 アルジャノンは少しだけ考えた。


「最初は、それで十分だろう」


 少し変わった返事だった。


 けれど、ルイザは深く考えなかった。


「では、お気をつけて」

「ああ」


 数歩進んだところで、アルジャノンが振り返る。


「今日は上出来だったんだろう?」

「ヴィオラ様によれば」

「なら、明日もそのくらいでいい」


 ルイザは少し笑った。


「それも、なかなか難しそうです」

「だろうな」


 アルジャノンも笑った。


 彼が庭の向こうへ消える。


 しばらくすると、ノアもどこかへ行ってしまった。


 ルイザはテラスに残った。


 ルルはまだ膝の上にいる。


 テーブルには、ヴィオラの紙片。


『今日は何もしませんでしたか?


 それなら上出来です。』


 ルイザはその言葉を見つめる。


 今日は、朝寝坊をした。


 朝食を食べた。


 本を少し読んだ。


 庭を眺めた。


 お茶を飲んだ。


 知らない男性と少し話した。


 それだけ。


 本当に、何の役にも立っていない。


 なのに。


 昨日より少しだけ、胸が軽かった。


「……今日は何もしなかったわね」


 声に出してみる。


 ルルが、ごろごろと喉を鳴らす。


「それなら」


 ルイザは小さく笑った。


「上出来、なのかしら」


 庭の奥で。


 薄紫の花が、風もないのに一度だけ揺れた。


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