第二話
翌朝。
ルイザは、いつもよりずっと遅く目を覚ました。
「……え?」
薄く目を開けると、カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいる。鳥の声も聞こえる。
ルイザは反射的に身体を起こした。
「今、何時……?」
枕元の小さな時計を見る。
九時を少し過ぎていた。
「九時?」
こんな時間まで眠っていたのは、いつ以来だろう。
母の具合が悪くなってからは、朝は早かった。夜中に何度か起きることがあっても、朝になれば起きる。薬の時間があり、食事の支度を確認し、医師が来る日にはその準備もしなければならない。
誰に言われたわけでもない。けれど、そうするのが当たり前だった。
九時まで眠るなど。
「寝すぎだわ」
ルイザは慌ててベッドを降り、髪を整え、着替えを済ませた。
すると、寝室の扉が控えめに叩かれた。
「ルイザ様、お目覚めでしょうか」
マーサの声だった。
「ええ。今、起きたところです」
「朝食をお持ちしてもよろしいですか?」
「もちろん。……ごめんなさい、こんな時間まで眠ってしまって」
扉の向こうが、少し静かになった。
「ルイザ様」
「はい?」
「謝る必要はございませんよ」
「でも、皆さんはとっくに働いているでしょう?」
「私どもは、それが仕事でございますので」
「それはそうだけれど……」
マーサが扉を開ける。
その手には朝食の載った盆があった。焼きたてのパン。半熟の卵。薄切りの果物。温かなミルクティー。そして盆の端には、小さな一輪挿しまで載っている。
「ルイザ様のお仕事は、お休みになることでございます」
「そんな仕事がありますか?」
「ヴィオラ様は、あるとおっしゃっていました」
またヴィオラである。
ルイザは小さく息をついた。
「食堂へ行きます。そこでいただくわ」
「かしこまりました」
マーサが盆を持って先に歩き出し、ルイザもそのあとをついていった。
廊下を歩きながら、何となく辺りを見回す。窓は磨かれている。絨毯にも埃はなく、花瓶の花も新しい。
昨日の箒の件があるので、手を出すつもりはない。
ないのだけれど。
「マーサ」
「はい」
「何か、私にできることはないかしら」
「ございません」
即答だった。
「そんなに早く答えなくても」
「ヴィオラ様より、そうお答えするよう申しつかっております」
「そこまで?」
「はい」
ルイザは眉間を押さえた。
食堂へ着く。
小さな丸テーブルには、朝の光が差し込んでいた。
ルイザが座ると、どこからともなくルルが現れる。
「……あなたも来たの」
ルルは椅子の脚へ身体を擦りつけた。昨日あれだけ膝の上で眠ったというのに、もうすっかり昔からの知り合いのような顔をしている。
一方、ノアは窓辺にいた。黒い身体を丸めて座り、外を眺めている。
「おはよう、ノア」
呼びかけると、ノアは耳だけ動かした。
「今日もつれないのね」
ルイザは苦笑した。
パンをちぎり、卵を食べる。温かなミルクティーを口に含む。
ゆっくりとした朝だった。
静かだ。
あまりにも静かで、やはり落ち着かない。
朝食を終える頃には、ルイザの中に新しい考えが浮かんでいた。
掃除が駄目なら。
家事でなければいいのではないか。
「読書なら問題ないでしょう」
朝食後、ルイザは屋敷の小さな書斎へ来ていた。
本棚には古い本が並んでいる。魔法植物についての本。旅行記。詩集。歴史書。料理の本まである。
ヴィオラらしい、統一感のない本棚だった。
「読書は休息だもの」
自分に言い聞かせる。
けれど、本を一冊手に取り、椅子へ座ったところで、ルイザは別のものに目を留めた。
机の端に、数通の書類が置かれている。
「これは……」
屋敷の修繕記録だった。
屋根。窓。庭の水路。古い魔法設備。
ざっと見る限り、特に問題はなさそうだ。けれど、ところどころ数字の記載がある。
反射的に、もっときちんと確認したくなる。
「少し見るだけなら……」
ルイザは椅子を机へ寄せた。
インク壺の蓋を開け、羽根ペンを手に取る。数字を一つ書き留めようとした、その瞬間。
インクが消えた。
「……え?」
ペン先には確かにインクがついていた。
なのに、紙へ触れた途端、何も残らない。
もう一度。
書く。
消える。
「そんな」
三度目。
今度は、インク壺そのものが空になった。
「…………」
ルイザはじっと壺を見る。
次の瞬間、机の引き出しが、ぱたん、と勝手に閉じた。
「ちょっと」
開ける。
ぱたん。
閉じる。
「……分かりました」
ルイザは羽根ペンを置いた。
「書きません」
すると、空だったはずのインク壺に、するすると黒い液体が戻ってきた。
「そこまでする?」
思わず声が出る。
その時、書斎の入口から低い声が聞こえた。
「にゃ」
振り返る。
ノアだった。
扉の前に座り、こちらをじっと見ている。
「……あなたも見張っているの?」
ノアは無言だった。
「ヴィオラ様に頼まれたの?」
尻尾が一度だけ動く。
「本当に?」
ノアは立ち上がり、何事もなかったように去っていった。
「……絶対、何か知っている顔だわ」
ルイザは小さく呟いた。
結局、それ以上書類に目を通すことも諦めた。
本を一冊選び、窓辺の椅子へ座る。
今度こそ、本当に読む。
そう決めた。
けれど、三頁ほど読んだところで。
「お茶はいかがですか?」
マーサが現れた。
「今、朝食をいただいたばかりよ」
「もう二時間ほど経っております」
「二時間?」
時計を見る。
本当だった。
「もうそんなに経ったの?」
「はい」
「……そう」
何もしていないのに、時間が過ぎる。
そのことが妙に不思議だった。
「では、テラスへお持ちしましょうか」
「ええ」
ルイザは本を閉じた。
◇
テラスには、初夏の風が吹いていた。
庭では薄紫の花が揺れている。遠くには小さな池が見えた。
テーブルには紅茶と、薄切りの林檎を焼き込んだ小さなケーキ。
「昼前ですので、軽いものにいたしました」
「ありがとう」
マーサが下がる。
ルイザは一人で座った。
何もしない。
ただ庭を見る。
紅茶を飲む。
これだけ。
「……落ち着かないわ」
正直に口にした。
すると。
「にゃあ」
ルルが来た。
「またあなたなの」
ルルは当然のように足元を一周する。
そして、昨日と同じように。
ぴょん。
「まあ」
膝へ飛び乗った。
「あなた、本当に遠慮がないのね」
ルルは丸くなり、ごろごろと喉を鳴らす。
ルイザは仕方なく、その背を撫でた。
「こんなふうにしていて、いいのかしら」
ルルは答えない。
「昨日から、何の役にも立っていないわ」
ごろごろ。
「誰かの手伝いもしていないし、家のこともしていないし」
ごろごろ。
「……あなたは気楽ね」
ルルが目を細める。
ルイザは少し笑った。
その時、テーブルの端に小さな紙片があることに気づいた。
「また?」
昨日まではなかったはずだ。
ヴィオラの字だった。
手に取る。
『今日は何もしませんでしたか?』
ルイザは思わず周囲を見回した。
誰もいない。
続きを読む。
『それなら上出来です。』
「…………」
短い。
本当にそれだけだった。
「ヴィオラ様」
ルイザは呆れて笑った。
「何もしなかったことを褒める人なんて、初めてだわ」
紙片をテーブルに置き、もう一度紅茶を飲む。
少しぬるくなっていた。
けれど、不思議とおいしかった。
風が吹く。木の葉が揺れ、ルルの毛がそよぐ。
何もしない。
本当に、何もしない。
けれど、昨日ほど胸がざわつかなかった。
ほんの少しだけ。
「……上出来、なのかしら」
そう呟いた時だった。
「ああ、かなり上出来だと思う」
突然、男の声がした。
「え?」
ルイザは顔を上げた。
庭の小道から、一人の男性が歩いてくる。
背が高い。
黒に近い灰褐色の髪は少し長めで、旅の途中なのか、風に乱れたまま額へかかっている。深緑色の瞳。すっきりした鼻筋に、顎には短く整えられた髭がある。
きちんと整えられた貴族男性とは少し違う、旅慣れた人らしい風貌だった。
年齢は四十代半ばほどだろうか。若々しいというより、年齢を重ねた今の落ち着きがよく似合う男性だった。
濃い色の外套に、肩から革の鞄を下げている。
いかにも、どこか遠くから来た人だった。
男はテラスの少し手前で立ち止まった。
「失礼。驚かせたかな」
「……どちら様でしょう」
「アルジャノン・ウェストウッド。ヴィオラの古い知人だ」
その名前には聞き覚えがなかった。
「ヴィオラ様のご知人でしたか。私はルイザ・ハーグレーヴと申します。今は理由あって、こちらに住まわせていただいております」
「ルイザ嬢、と呼んでも?」
「ええ。私もアルジャノン様とお呼びしてよろしいでしょうか」
「もちろん」
アルジャノンは肩から下げていた鞄を軽く持ち直した。
「実はヴィオラが亡くなる少し前に、彼女から手紙が届いて」
「手紙ですか?」
「ああ。自分が死んだら、とても真面目な女性がこの屋敷に来るから、時々様子を見てほしい、と」
「…………」
ルイザはヴィオラの紙片へ視線を落とした。
「その、とても真面目な女性というのは」
「たぶん、ルイザ嬢のことだな」
アルジャノンの目が、少し笑う。
「……ヴィオラ様ったら」
ルイザは思わず顔を上げた。
アルジャノンの口元には穏やかな笑みがあった。
からかうような笑いではない。
ただ、同じ人物に振り回された者同士のような。
そんな笑い方だった。
「お邪魔でなければ、少し座っても?」
「ええ。どうぞ、こちらへ」
ルイザは向かいの椅子を示した。
アルジャノンは外套を軽く整え、腰を下ろす。
その時、庭のどこかから黒い影が走ってきた。
「ノア?」
黒猫のノアだった。
ルイザの横を通り過ぎ、迷いなくアルジャノンの足元へ行く。
「ノアか。久しぶりだな」
アルジャノンが手を差し出す。
ノアはその手へ額を擦りつけた。
「……ノアはアルジャノン様に懐いているのですね」
「昔からな」
「昔から?」
「ああ」
アルジャノンはノアの頭を撫でる。
「ノア、お前、まだいたんだな」
その言葉に、ルイザは少し引っかかった。
「まだ?」
アルジャノンは一瞬だけ黙った。
「私が知る限り、かなり長生きしている」
「そうなのですか?」
「ああ」
それ以上は言わなかった。
ノアも何も言わない。
当然だけれど。
ルイザは二人を見比べた。
ノアはアルジャノンの足元で落ち着いている。昨日から自分にはあれほど距離を取っているのに。
「私にはまだ、ほとんど近づいてくれません」
「では、気に入られてる途中だな」
「途中?」
「ノアは嫌いな人間の近くには、そもそも来ないからな」
「……そういうものですか」
「そういう猫だ」
アルジャノンは平然と言う。
妙に説得力があった。
マーサが新しいカップを持って現れる。
「あら、アルジャノン様」
「久しぶりだな、マーサ」
「また突然お越しになって」
「旅人なんて、大体そんなものだ」
「少しは事前に知らせるものですよ」
「努力しよう」
「そう言って、ヴィオラ様がお元気な頃から一度も直りませんでしたね」
マーサは呆れたように言いながら、紅茶を置く。
そのやり取りを見て、ルイザは少しだけ安心した。
本当に昔から、この屋敷を知っている人らしい。
「旅をされているのですか?」
「ああ」
「どちらへ?」
「今回は北西の山地だ。古い魔法植物を調べにな」
「魔法植物」
「興味があるのか」
聞かれて、ルイザはすぐに答えられなかった。
興味があるか。
その質問に、なぜか戸惑う。
「……どうでしょう。よく分かりません」
アルジャノンは少しだけ目を細めた。
けれど、驚いた顔もしなければ、変だとも言わなかった。
「そうか」
アルジャノンは紅茶へ視線を落とした。
「なら、今は分からなくていいんじゃないかな」
「……いいのですか?」
「急いで決めることでもないだろう」
それだけ言って、紅茶を一口飲む。
ルイザは黙った。
そんなふうに言われたのは、初めてかもしれない。
好きなものは何か。何をしたいか。この先どうするか。
最近、そればかり聞かれていた。
『これから好きに暮らして』
『何かしたいことはないの?』
『旅行でもしたら?』
『いい人を探してみたら?』
皆、善意だった。
だからこそ、答えられない自分が悪いような気がしていた。
「……そうですね」
ルイザは小さく答えた。
アルジャノンはそれ以上、何も聞いてこなかった。
沈黙が落ちる。
けれど、不思議と気まずくなかった。
ルイザは庭を見る。
アルジャノンも庭を見る。
ルルは膝の上。
ノアはアルジャノンの足元。
風が吹き、花が揺れる。
しばらくして。
「ところで」
アルジャノンが言った。
「ヴィオラからの手紙、もう見つけたか?」
「ええ。二枚ほど」
「やはり」
「何かご存じなのですか?」
「いや」
アルジャノンは首を振る。
「あの人は、そういうことをするのが好きだったからな」
「いろいろなところに隠してあるようです」
「全部探そうとしない方がいい」
ルイザはぎくりとした。
「……なぜです?」
「ルイザ嬢なら探しそうだから」
「…………」
否定できない。
実のところ、昨日のカードを見つけてから、朝食前に少しだけ部屋の引き出しを調べようかと思っていた。
「そういえば、ヴィオラからも頼まれていたな」
「何と?」
「手紙探しを手伝うな、と」
「そこまで読まれているのですか、私は」
「そのようだ」
ルイザは額を押さえる。
アルジャノンが少し笑った。
「私も昔から、散々やられた」
「何をです?」
「余計なお世話を」
「ヴィオラ様らしいわ」
「ああ」
二人とも、同時に少し笑った。
それだけだった。
けれど、ルイザは久しぶりに、誰かと何の用事もなくお茶を飲んだ。
相談でもない。
看病でもない。
家の話でもない。
何かを決めるためでもない。
ただ、一緒に座って紅茶を飲んだ。
それだけだった。
アルジャノンは、日が傾く前に帰っていった。
「では、ルイザ嬢。また寄るよ」
「ヴィオラ様との約束だから?」
ルイザが聞く。
アルジャノンは少しだけ考えた。
「最初は、それで十分だろう」
少し変わった返事だった。
けれど、ルイザは深く考えなかった。
「では、お気をつけて」
「ああ」
数歩進んだところで、アルジャノンが振り返る。
「今日は上出来だったんだろう?」
「ヴィオラ様によれば」
「なら、明日もそのくらいでいい」
ルイザは少し笑った。
「それも、なかなか難しそうです」
「だろうな」
アルジャノンも笑った。
彼が庭の向こうへ消える。
しばらくすると、ノアもどこかへ行ってしまった。
ルイザはテラスに残った。
ルルはまだ膝の上にいる。
テーブルには、ヴィオラの紙片。
『今日は何もしませんでしたか?
それなら上出来です。』
ルイザはその言葉を見つめる。
今日は、朝寝坊をした。
朝食を食べた。
本を少し読んだ。
庭を眺めた。
お茶を飲んだ。
知らない男性と少し話した。
それだけ。
本当に、何の役にも立っていない。
なのに。
昨日より少しだけ、胸が軽かった。
「……今日は何もしなかったわね」
声に出してみる。
ルルが、ごろごろと喉を鳴らす。
「それなら」
ルイザは小さく笑った。
「上出来、なのかしら」
庭の奥で。
薄紫の花が、風もないのに一度だけ揺れた。




